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[ 2024/12/22 00:55 | ]
求聞持日誌 2

6月1日
カッコウが4時二十五分~五時くらいまで鳴いている。
拝めるのもいろいろな縁のお陰。働きもせずただ拝んでいるだけなのに。
今日はうまくいった。入法界観も気分よくできる。すべてが虚空。全てが心の蔵、全てが御本尊の万徳円満・福知是足している。全ての中にそれがある。
カヤの木を寄付してくれたUさん、本尊を描いてくれた冗快師、本坦を整えてくれたNさん、そば粉を届けてくれたTさん、カヤ枝を持ってきてくれたCさん、Oさん、Iさん、K師、カヤ油を寄付してくれたM社長、応援してくれるTさん。
 
M阿闍梨、ご先祖さん、故人の方々、妻と子どもたち。
拝んでいると感謝する人の顔が次々と浮かぶ。
 
6月2日
真言を和紙に書き、丸い筒にして坦に置く。
 
6月3日
つけ木(ワリバシに油をしみらせる)を作る。
甘夏がたくさん届き供物にする。
 
だいぶ慣れてきた。面倒なことを始めて、早く終わりたい気持ちもある。何か都合の良い理由で中断にしよかなど思うこともあったが、少し楽しみが増えてきた。ワクワクしながら、ドキドキしながら拝んでいる。田中先生を思い出して拝む。
祖母も思い出す。妻子に感謝して拝む。
 
生活の中の行は恵まれてぜいたくなのだが、こんな求聞持やっている人はいないと思う。
ただ暮らしているだけで、しあわせになればいい。
 
 
6月4日
母誕生日。町内草取り掃除、庭の石板掃除。毎日暑い。
毎日二時間半くらいの睡眠なので少し疲れた。念誦は慣れてきたが時々フッと意識がなくなる。三昧ではなくて居眠りだ。
今日はあまり義を思推せず。祈祷や回向も気にせず、ただ淡々と称えた。
今日も晴天だが少し風が涼しい。
 
朝三時頃ツグミが鳴く。四時からカッコウが鳴く。三時四十分頃から少し明るくなる。一~二分毎にシャッターを開けるように、パッパッと階段的に、ダイヤルをまわして照度を上げるように、空が明るくなる。これが虚空か。
念誦より入法界観で虚空に広がると、塵のように星屑のように景色が散らばる。
 
6月5日
時々目が痛くなるのは小食にして(時に油が入るからか)肝の排毒か。気功で治しながら拝む。
念誦の行が終わったら巡礼に出たいと思う。最上か出羽三山か。
 
 
 
明け方前、まだほの暗い頃か、両手で持つ数珠から白いものが漂い出ていた。
何かの気か、仏の姿か、白いケムリのようなものが、もわもわとしていた。
 
正念誦は循環法、入法界観は拡大法。
 
6月6日
ずっと晴れ。午後剃髪。
疲れが大分溜まっている。子どもたちと風呂に入る。
『大往生』永六輔著を読む。
 
6月7日
昨日もあったが、たぶん一酸化中毒で頭痛。風がなく、窓を開けていても(すだれはかけてある)灯明と香煙でよどむ。終了後、シイタケスープ丼1杯飲んで治す。
 
毎日きついのは足の痛みでもなく、肩こりでもなく、家で修法することの難しさと、毎日ニ万遍を五十日という決められたことをしなくてはいけない(ノルマ)という事だ。
うまく瞑想できれば時間も回数も関係ないと思うのは越法か。
今日で二十四万返。
 
多くの縁者や放人の事、これを助けてくれた人たちの事を思うと、感謝と心安い明るい気持ちになる。みんなが笑えるように祈る。北陸地震被災者を祈る。
 
6月8日
昨日から午前一時半起床。
二時十五分~五時十五分で八千返
八時四十分~十二時五十分で一万二千返
 
足[へそから下]を意識しなくなってきた。
 
世の中には志に反して、生活の為に、人の為に好きでもないことをして暮らしている人もいる。志通りに毎日拝むだけで生きているのはぜいたくである。
 
明日死んでもいいように今日は最後と思って拝む。
仏が驚覚してくれるかもしれない。
明日死んでもいいように今日は楽しく暮らす、拝む。
 
 
6月9日
行を始めてから初めての雨。突佛供を作る。
雨音の中の念誦も気持ち良い。
郵便が多くきた。
 
懺悔と報思感謝を思って拝む。亡くなった人のこと、いろいろ思い祈る。
祖母を思い出した。
 
口がだいぶ慣れてきた。よく回るが、後半はゆっくりになる。
なるようになる。なるようになった時に、心が対応すれば良い。必ず上手くいく。
掌の生命線がはっきりしてきた。気も良く通じる。
 
普段と違うのは朝早い、[一時]、念誦が長い[八時間、持斎、 酒が無い、一人寝[布団は敷かない]、家族以外と会わない。
いつもと同じ精進。供養としての料理もしている。
便通二回、体調はやや陰性。
信者さんの位牌届く。
 
6月10日
雨・くもり・十五日目。三(らく)(しゃ)了。(落叉は十万のこと)。ひと区切りと思う。庭で剃髪。
拝んでる限り、雑念というものはない。どんな思惟も皆瞑想だと思う。
田中先生の覚え書きでは、初回の十五日頃、つらくて止めたいような事も書いてある。同感。未だに、別行よりも普段の行法を続けている方が心には良いようにも思うが、別行もまた、力がある。
 
善良な人はそういう顔、腹黒い人はそういう顔、酒浸りの人はそういう顔をしてみんな生きていれば人間関係は何の問題も無くなりそうだ。
 
僕なりに楽しく静かにゆっくり生きて、死ぬときにその死を子供たちに見せ、教えるのが役目。
 
死に際[晩年]の事を思ってみると何という人生だったのかと思う人も少なくない。
 
死にたくないと思いながらの人、生きるのが面倒だった人、あきらめた人、逃げた人、家族から嫌われた人、意地悪され、罵られた人、我慢していた人、楽しめなかった人、怒っていた人、恨みを持っていた人、お金持ちを目指していた人、名誉を欲した人、死の手前がそういう状態だった人たちはどんな気持ちだったのだろう。死ぬときが喜びに満ちて、いい人生だったと言えるのが良い。旅や遊びから帰って、「楽しかったね」と言えるように。
 
春になって嬉しくなるように、死は帰ること。
死に方は生き方。生き方は祈り方と会い方。
 
覚鎫さんを拝むと安心し、力が湧く。
「澤知澤見の者は一念に三密を証し、重罪重障の人は七遍に二厳を集す。
不法の持誦なす。諸尊の瞑護を招く。順教の修行誰か一座の理延を疑わん。
たとひ如法ならざるといえども、常に誦せば福護ること是の如くならん」
などなど。
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[ 2009/12/10 14:46 | 行法日誌 ]



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