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法会、法要、読経
『日本国語大辞典』で「法会」を引くと、

「経典を講説・読誦すること。また、その集まり。
 
 広義には、仏事・法要を含み、仏菩薩を供養し、仏法を説き、

 また、読誦して死者の追善供養をすること。また。その行事、集会」

とあります。

同じく「法要」は、

「①真理の本質。また仏法の枢要、かなめ、教法の要点
 
 ②法会における法式。正式なものは四箇の法要

 ③仏教の儀式」


『密教辞典』(法蔵館)には、法要を、

「(1)一箇法要
 (2)二箇法要
 (3)四箇法要」

に分けて説明があります。方法・次第ですね。

現在では、その法要で読経する事が多いですが、なぜ、そうするのか。

『性霊集』第九の

「宮中の真言院の正月の御修法の奏状」

には、

「ただその文を読み空しくその義を談ずれども、かつて法によって像をえがき壇をむすびて修行

 せず。甘露の義を演説することを聞くといえども、おそらくは醍醐のあじわいをなめることを

 闕かむことを」

とあります。

これは、

『首楞厳経』の、
 
「多聞ありといえども、若し修行せざれば聞かざるに等し」

を引用した文です。


経の読誦講讃は、

食事のメニューや、これを食べると身体に良い、という文章を読むようなもので、

気休めにはなるがお腹はふくらまない。

それを食べてこそ、心身の平安と健康を得ることができる。

そのように

行法によって三昧を観じ、仏と入我我入してこそ、

真理に近づくことができる、

ということ。


法会で読経する理由について、

大山公淳先生の『真言宗法儀解説』には、

「事相(修行の実践面)に自行と化他とあり、自行は上求菩提の自利行であって、一人修法三

 昧に入り専ら自心の菩提を求めて修練観法するに名づける。化他を利他ともいう。下化衆生の

 行にして、自行に於いて得た所を広く有縁の人に分ち、秘密真言教に帰依結縁せしめ入信法悦

 せしめる。かくて真言行者の二利円満を期することになる。朝夕の勤行、日々の行法、四度加

 行の如きは専ら自利であって、理趣三昧法会・庭儀大曼荼羅供・結縁灌頂・土砂加持法会等は

 皆利他行としなくてはならない。利他行には外儀が肝要である。外儀満足しなければ化他は成

 就しない。

 学徳兼備の阿闍梨、持律堅固の善知識の言行により、帰依入信する人も少なくないけれど、荘

 厳整然たる道場にて荘重に修業せられる外儀法会により、信仰の道に引入せられる人も多い。
 
 依って外儀は古来特に尊重せられる。」

とあるのが、そのひとつかと考えられます。


そして、

「外儀を満足する為には自行がなくてはならぬ。自行は敬虔な信仰から流露する。それがなくて

 は外儀は整然としない」

と続いています。


『大日経開題(大毘盧遮那)』に、 

「もし善男善女ありて、わづかにこの門に入れば、すなわち三大僧祇を一念の阿字に越え、無量

 の福智を三密の金剛に具せん。

 八万の塵労、変じて醍醐となり、五蘊の旃陀(欲望まみれの卑しい人)、たちまちに仏慧とな

 る。開口発声の真言、罪を滅し、挙手動足の印契、福を増す。心の所起に妙観自ら生じ、意の

 所趣に、等持(三昧、三摩地)すなわち成ず」

とあるのも、同じことでしょう。


『大日経』第六 本尊三昧品)に、

「一切の如来には三種の秘密の身がある。いわく、字と印(三昧耶)と形像である」

とあるように、

お経は法曼荼羅(文字であらわした悟りの世界)です。

ですから、

その悟りを成就したいと目指していなければ、経典読誦の意味は無い、

と考えられます。


法会、法要では、

行法をして静かに拝み、

参列者も静かに精神集中して、自心を探求する、

ということができればいいなあ、

と僕は考えています。



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[ 2019/09/07 07:24 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]

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