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[ 2026/03/15 23:56 | ]
みんなが持っているもの
『仏性論』によれば、

1、すべての衆生はことごとく如来の智の内に摂められている。

2、如来の法身は因位・果位を通じて変らないが衆生にあっては煩悩に覆いかくされている。

3、如来の果徳はことごとく凡夫の心中に摂まっている。

また、『大般涅槃経』には、

一切衆生悉有仏性

とあり、

これがつまり如来蔵です。

僕らの内側には、仏・如来、あるいは仏と同じ本来清らかな心がある。

けれど、

それは迷い煩悩に覆われて見えない。

その覆いを取り去れば成仏が可能、

ということ。

僕らの中には仏の、悟りの種があるんですね。

しかし、

仏教は諸法無我が原則で、唯一の根源的実在は無いはずだから、

仏性や如来蔵などの清浄なものが、僕らの中に本質として存在している、

なんて、縁起や空の法則に反していないだろうか。

そもそも、

清浄とか清らかなんて、概念であり、実体は無い。



それにしても、

真言密教は如来蔵思想の宗教です。

その証拠に、

総ての行法にある慈無量観では、

「六道四生の一切有情は皆如来蔵を具す」

いつも唱える『理趣経』第十二段には、

「一切有情は如来蔵なり」

とありますから。

そして、

『秘蔵記』第二十九章には、
 
この卒塔婆に自性清浄心、真如、仏性、如来蔵の名を付す

とあります。

卒塔婆は大日如来の象徴、つまり、僕らの心中の悟りのシンボル。


僕らの中に仏の種がある、つまり慈悲がある。

それによって、

他人の苦しみを抜き、楽を与える(能力が僕らにはある)

だれもが愚かさの迷いをもっているけれど、

大丈夫だよ、心配ないよ、と収める。

みんなに仏性があり、本当は清浄なのだから、それを喜ぶ。

 そうすれば、

我と人、あっちとこっち、という差別を超越して大空のように広く平等。

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[ 2019/06/13 11:33 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
嫌いな人
『金剛頂蓮華部心念誦儀軌』に、

あらゆるものはみな、自心より起る。

総ての迷いも、身体も、世界も、

それらの現象はみな幻の如く、焔の如く、音響の如く、

永遠常住ではなく、滅して平等の真理に一致し、

しかも、虚空に充満している諸仏は、

我々を(そのことに)目覚めさせる

とあります。


たとえば、

僕がAさんを嫌いなのは、

僕の心が作ったイメージであり、実体はなく、真実でもありません。

総ての人がAさんを嫌いなわけではなく、たまたま僕がそう思うだけですから。

そして、

僕はAさんを好きになることもできます。

そう思えば良いだけで、事実そうなるかもしれません。

それらは心が作るイメージ。

幻と同じ、一瞬一瞬燃えては消える焔と同じ、発しては流れ消える音響と同じ。

好き、も同じ。

大切なのは、僕がどう思うかで、その思ったことに実体はない、ということです。

そんなもの、本当はないんだ。

そして、

そういうことに、自分で気づくこともあるけれど、

自分以外から教わることが多い、ということ。

なかなか起きられない朝に、

さあ、朝ですよ、起きなさい、

と言われるように。


そうして目覚めたら、

事実を大切にして、

心を観察して、

怠惰な生活に満足せず、

自他の平安を目指します。




[ 2019/06/14 07:24 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
真言何回分?

[ 2019/06/14 10:22 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
拝むヒント
自利 (自分の悟り)と利他(他者の幸福)を同時に達成させるには、

いくつかの方法があります。

最も基本的なことは、

自分と自分以外

自分のものとそれ以外

の間にある仕切りをなるべく低くすること。

自分と自分のものへの執著を、なるべく減らすこと。


それらの役に立つ拝みかたがあります。

自利については、

実の如く自心を知る、とか、

自心の源底を覚知する、

などと表現されますが、

心を観察、探究すること。

今、何かを思っています。

何も思わない、無になろう、なんて思ってもいい。

それをそのまま続けていくと、

思うもの、思われるもの、思う自分などが少しづつ消えてゆきます。

その時、

反省や感謝があれば、そのまま思い続ければいい。

ただ、思うだけ。

これが、練習になります。

筋トレを続けていれば、だんだんと筋力が増すように。

久しぶりに会う人が、

ずいぶん太ったなあ、老けたなあ、

と見えることがあっても、

日々顔を合わせていれば、少しずつ太る、少しづつ老けることに気がつきません。

同じように、

心のトレーニングを毎日続ければ、

少しづつの積み重ねによって、

長い間には、心のことがわかるようになります。

苦楽愛憎総ては心から生じるものなので、

心のことが分かれば、問題は解決するでしょう。


利他については、

四つの観想があります。

まずは、

総ての存在は如来蔵であること。

ホントは仏さま、と思えばよろしい。

その中には、

良い子悪い子普通の子といろいろ違いがあるけれど、

何かに染まっているのは表面だけで、

真髄は真っ白で、空き領域がいっぱいあって、

これから多くのことを学んで成長できる。

みな同じで平等の価値がある。

そういうふうに考えます。


心の平安は思いやりよって得られ、

思い通りにならない苦しみは、

平等観と謙遜と、よく心を観察することで和らぎます。


キャッチャーがピッチャーへサインを出す。

そのサインは、他のチームには伝わらない。

分かる人にはわかるサインがある。

そういうものに気がつくと、

パッと納得できる瞬間があります。



[ 2019/06/17 10:39 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
【電車de仏教】心の眼を開く
肉眼、天眼、慧眼、法眼、仏眼の五眼のうち、 肉眼、天眼は自分の外側を見る眼 あとの三つは自分の内側を見る眼 その、心の眼を開くことを開眼と云います。


[ 2019/06/18 04:47 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
お大師さんの言いつけ
縁者から,

お経と真言は何が違うの?

と聞かれました。

お経はブッダの言行録であり、

所謂「仏教の教え」が書かれています。

内容は、

成仏する、菩提を得る、悟りを開く、ブッダになる方法。

たとえば般若心経には、

智慧の修行によって、モノも心も空であると悟ったら、

一切の苦厄から救われた。

その空とはどんなものか、

と云うことが書かれています。

理論的なこと、

修行方法、

修行に使う仏像やマンダラの作りかた

などもお経には説かれています。

真言は一種の呪文ですが、

それも悟りの手段であり、

経典の中に書かれています。

悟りの世界は、

仏像マンダラ真言などによって象徴されています。


ところで、

経典には説かれていないけれど、

真言のように唱えるものがあります。

南無阿弥陀仏とか、

南無大師遍照金剛など。

それらはなぜ、唱えるのでしょうか。

世の中の総ての音声は如来の説法、

と密教では考えているので、

大きな意味では真言かもしれないけれど。


南無大師遍照金剛は御宝号(ごほうごう)と呼ばれ、

真言宗でポピュラーなものです。

お大師さん、弘法大師空海に帰依します

ということ。

真言宗はお大師さんが開祖ですし、

お大師さんの業績は深く広大なものですから、

僕もお大師さんを尊敬しています。

でも、

御宝号を唱えるたびに、これでよいのだろうか、

と考えることがあります。


 
お大師さんは若い頃、

おそらく虚空蔵菩薩の真言を最も多く唱えたと考えられます。

それをたくさん唱える修行を何回も修していますから。

その後は、

不動明王、如意輪観音なども多く唱えたであろうことが、

伝記などから伺えます。

僕は、

生涯で最も多く唱えたのは大日如来の真言だろう、

と考えています。

だから、僕もたくさん唱えたい。

僕はお大師さんを崇拝しているので、

真似をしたい。云いつけをなるべく守りたい。

なので、

『御遺告』、『弘仁遺戒』、『承和遺戒』 などに書かれていることを目標にしています。

それは、

三昧耶戒(慈悲心、向上心、心をまとめる修法)を保ち、

毎日、三密行という本尊の瞑想法を行い、

すみやかに迷いを超えて、

一刻も早くこの上ない最高の悟りに至り、

自利と利他の二利を円満して、

父母・国王・衆生・三宝から受けた四恩に報いること。

そして、

 三論(空)と法相(唯識)を学ぶこと(これは御遺告にあります)




[ 2019/06/18 11:06 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
仏教を発展させるもの
新しい知識や技術を増やすのが学問です。

宗教はどうだろうか。

仏教の場合、
 
真理は総て経典に説かれているから、

それを解読し、書かれていることに従います。

自分の考えを展開することは、ほぼ無い。

大切なのは、

経典を注釈し、内容を実践する。

疑いは挟まない。

多くの苦悩は人間関係から生まれるけれど、

難しいことがあっても、

真理が書かれている経典に立ち返ればよろしい。

そこには、正しい答えが用意されている。

経典に書かれている、

と主張すれば、

それは正しい、ということになります。

だから、

経典の内容を知らなくては、仏教教理は成り立たない。


 
仏教は本来、現実世界の事実を扱ってきました。

悩み苦しみは、そこにあり、原因もそこにあるから。

諸行無常、諸法無我、空、縁起などは、現実の事実の判断です。

僕が生まれて、いつか死ぬように、

現実世界は生じたり滅したりするのが事実です。

人間と云うものは、生まれて死ぬ。

その中に、男とか女とか、

背が高いとか低いとか、いろいろ違いがある。

それも現実世界の事実。

しかし、

生まれるから死ぬ、生じるから滅するということであれば、

その本体(唯一で常住で不変なもの)は無い。

本体が無いから、無常であり無我であり、縁起によっており空である。

その立場から見れば、みな同じで違いはない。

これも事実。

すべてのものに、ふたつの事実があります。


ところで、

総ての心は本来清浄である、とか、

人はみな仏の性質を持っている、

などは、事実判断ではなく、価値判断です。

それは、

インドと日本では異なり、

平安時代と現代では違う。

人によっても違う。

そのあたりはどうなのだろうか。 


さらに、

仏教の目的である、

悟り、菩提、成仏、人格の完成などは、

事実判断できるのか、価値判断の問題なのか、

それを追求することが、仏教の発展につながると考えています。




[ 2019/06/19 11:37 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
空は虚空に等し
昨日は快晴で、青空が広がっていました。

空は広く大きい、仕切りが無い。

仏教で虚空とは、 

一切のものを包み込んだ空間

のこと。

作られたものではない、無限なことの喩え

にも使われます。

『大日経』住心品には、

菩提=心=虚空

という内容が書かれています。

悟り、心は、広く大きく、仕切りが無い、

つまり、無差別無執着。

『釈論』には、虚空の十義が説かれています。

1、妨げられ、妨げるものではない
2、あらゆるところに行き渡る
3、平等
4、広大
5、形が無い
6、清浄
7、不動にして、出来たり壊れたりしない
8、分量をもたない
9、空々としている
10、無碍で無執著

密教では、

悟るべきもの(本不生と云う)は、

虚空に等しい、

と習います。

そして、それは法然に具足している。

空がいつでもどこでも、

誰の上にもあるように。



『吽字義』には、

日月星辰はもとより虚空に住すれども雲霧蔽汚し、烟塵映覆す
愚者はこれをみて、日月無しと思えり

本有の三身もまたかくの如し
無始よりこのかた本より心空に住すれども
覆うに妄想をもってし
纏うに煩悩をもってす

『秘蔵宝鑰』では、

虚空の相はこれ菩提なり。知解のものもなく、また開暁のものもなし。何をもっての故に。
菩提は無相なるが故に。秘密主、諸法は無相なり。いわく、虚空の相なり。

と、虚空を説いています。

観想、瞑想修法で最も大切なものが虚空と云ってもいい。

虚空は自在であり、邪魔が無い。

だから、

一切の分別を離れて無染無著

それが体得すべきものです。
 
『秘蔵記』に、

心は虚空の如く不生不滅なり

とあるように。


今日は梅雨空、

見上げれば落ち着きます。



[ 2019/06/20 08:45 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
目白僧園のこと

昔から、戒律を重要視していない日本の仏教では、

時々、戒律復興運動が起りました。

明治維新後にそれを行ったのが、

釈 雲照(しゃく うんしょう)律師。

その雲照さんが作った学校が目白僧園。

ここでは、

宗派、寺檀関係、地域的習俗とは異なる、

個人の自発的な宗教心を開発することが目的でした。

死んだら成仏するという、

因果の法則を無視したものではなく、

勉強して修行して成仏する、

という本業。

目白僧園のカリキュラムは下記の通りですが、

戒・定・慧(かい・じょう・え)の三学です。

戒学(いましめ)は仏教の基本、土台。

これが無ければ、定学(こころまとめ 瞑想修行)をしても、

錯覚や妄想になりやすい。

定学によって生まれるのが慧学(道を求める)の智慧であり、

そうでないものは単なる知識。

慧学によって追試しなければ、誤解や間違いも多くなります。


当時、どれだけの人が入学して、どのように社会の役に立ったのだろうか。

今もあるなら、

ぜひ入学したい。

せめて、

生きている間に、

下記の1/3くらいは習得したい。

__________________________________________________

課目表

戒学
「蘇婆呼童子経」
「蘇悉地経」
「四分律 行事鈔」
「有部律摂」
「表無表章」
「南海寄帰伝」
「瑜伽戒本」
「禅要」
「梵網経開題」
「三摩耶戒序」
「菩提心論」
「梵網経古迹記」


定学
別行 百日
 
  五十日
  五十日
 二十一日
 二十一日
  十四日
  十四日
   七日
   七日


慧学
「探玄記」
「摩訶止観」
「十住心論」
「諸儀軌」
「大日経奥疏」
「理趣経」
「秘蔵記」
「成実論」
「法花玄義」
「釈摩訶衍論」
「大日経 住心品疏」
「三十唯識述記」
「中論嘉祥疏」
「義林章」
「維摩経略疏」
「倶舎論」
「金剛頂経開題」
「秘蔵宝鑰」
「因明大疏」
「観経疏妙宗抄」
「五教章」
「悉曇字記」
「二教論」
「十不二門」
「起信論義記」
「吽字義」
「円覚経」
「三論玄義」
「四教義集註」
「声字義」
「観心覚夢記」
「四念処」
「因明論科註」
「即身義」
「異部宗輪」
「天台小止観」
「心経秘鍵」


 


[ 2019/06/21 13:39 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
3、三、三角
昨日、三学のことを書きましたが、

仏教には三で始まる言葉、三でまとめた言葉がたくさんあります。

三世、三界 、三宝、三帰三竟 、三句の法門、
三鈷、三部、三大、 三聚浄戒、
三毒、三業、三密、釈迦三尊、阿弥陀三尊、薬師三尊・・・。

仏教に限らず、

三冠王、日本三景、三公園、

三大ナントカはいくつも聞きますし、作れますね。

三馬鹿トリオというのもあったなあ。


玄奘さんで有名な三蔵は、

経蔵 :経典の内容
律蔵 :戒律
論蔵 :経典と律の解釈・注釈

この三つを修めた人。

不空三蔵、鳩摩羅什三蔵、真諦三蔵、義浄三蔵、般若三蔵、牟尼室利三蔵、

おおぜいいます。

 密教で重要なのは三密 

身体の秘密、言葉の秘密、心の秘密。

身体の行為、言葉、考えること、

これらは業となり、行為の因となりなす。

もし、

このみっつが仏のレベル、つまり智慧と慈悲から生まれてくれば、

三密となり、全ての働きは仏のそれと同じになります。



数字の3ではないけれど、

サンスクリット語・サマーディ(samādhi)の音訳が三摩地(さんまぢ)、

旧訳では三昧。 

妄念妄想錯覚を離れ、

心を仏(法界)に集中させ、

動乱せず、静寂で平安な心の状態。


この三摩地に住して三密修行をすることで、

迷いが悟りに転じ、即身成仏する、

というのが密教の思想です。


ところで、

智慧の火は、迷い煩悩を焼きます。

その火は、三角形で象徴します。

色は赤。

三角火輪という言葉も、

いくつもの経典に見られます。


[ 2019/06/22 10:10 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
魔法の言葉
フォークデュオ「TANEBI」の 7th singleが7月に出るようですね。

タイトルは『魔法の言葉』
http://usagi-since2017.com/news232.html

楽しみです。


僕が魔法の言葉と感じるのは、

ああ、おいしかった、

おなかいっぱい


そのほかにも、

ありがとう

ああ、楽しかった

いただきます

お前なら大丈夫だ 

それらしくなったな、

なども、

聞けば俄然元気になる。

 
いってきます

と言ったら、

いってらっしゃい

と返ってくる。


ただいま

と言えば、

 お帰り。


これもいい。


普段無口でぶっきらぼうの人から、

おはようございます

と言われた時も、心弾む。

言葉がなくても、にっこり微笑む。

これも魔法になる。


お経や真言は、

意味を知り、

正しい使いかたをすれば、

魔法にはならないけれど、人生の役に立ちます。


[ 2019/06/25 07:24 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
嬉しい、楽しいと思ったことがない
 シャンティ国際ボランティア会https://sva.or.jp/about/

から届いたニュースレターに載っていた言葉です。

写真で見ると10歳くらいの男の子、

紛争で親を亡くし、

自分の誕生日も知らない。だから、自分の年齢もわからない。

その子が云った言葉。 


やはり10歳くらいの女の子は、

一日中ゴミを集めて、日給150円貰って生活している。

固い表情しかなかったその子が、
 
本に出会って子どもらしく、目を輝かせるようになる 。


嬉しいことは、

水を飲むこと

と答える幼い子もいる。


わずかな額を寄附することしかできないけれど、

子どもを助けることにつながるなら。


 
東日本大震災翌年5月、

僕は津波被災地・宮城県東松島東名の復興イベントに参加しました。 

全国から集ったボランティアに混ざり、

僕らはご祈祷スペースを作りました。

そこへ、

10歳の女の子が来て、願いごとを護摩木に書きました。

「友達に会いたい」

津波で流された親友に会いたいとのこと。

僕はその願いをかなえてあげることができない。

僕ができるのは、

生きている人に思いやりと優しさをもって接することくらいだろうか。


仏教は生きている人のためにある、

亡くなった人をどうこうすることはできない。

ということを、つくづく感じました。


しかし、

戦争や災害があれば、

それに立ち向かえない子どもには、

業や因果で人生を説明できない。





[ 2019/06/26 09:07 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
包まれる音声
文字は意味伝達の記号なのだけれど、

文字によって如来は説法する、

というのが密教の立場です。

『声字実相義』には、

書き言葉、話言葉はもちろん、

形も色も匂いも、文字のひとつとして

すべてが如来の説法としています。

つまり、

あらゆるところ、すべての環境がそうである、と。

 
文字には、

論理的な解釈と、感情的なシンボルとしての部分があります。

真言は、

そのシンボル的な部分を、宗教的直観で得るものです。


真言は、サンスクリット語・マントラの訳語ですが、 

動詞「man」は、思考する

接尾語「tra」は、器、道具

の意味です。


ですから、

真言は唱えるだけのものではない。


化学式や数学の方程式を知らない人にとって、

それらを使うことはできません。

同じように真言の使いかたを知らない人にとっては、

真言は無用の長物で、唱えても何も生み出さず、時間の浪費であり、

錯覚や妄想のもとになるかもしれません。

 H₂OやCO₂を唱えても、、

水や二酸化炭素はできないのと同じです。


真言自体に不思議な力があるわけではなく、

意味を考え、正しく唱えることで、その人の心や意識が変わります。

ロックなどの洋楽を聴くと、

言葉の意味が分からなくても、メロディなどで感動することがありますが、

論理的な理由のない感情を引き出すことは、

真言にもあります。

しかし、

それも正しく唱えないと、妄想につながり、心を傷める可能性があります。


世界はすべて如来の説法ですが、

それを体験できるように準備をし、

知らないことを知るようにしなければそれはわからない。


『秘鍵』に、

翳眼の衆生は盲いて見えず 

とありますが、

日常すべての言葉、文字は、

勉強して意味を理解して、

正しく使うことが、

良い効果を生み出すでしょう。


僕らは、

音、声、言葉、文字、つまり如来に包まれている。



[ 2019/06/28 06:28 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
夢は過去の再生
『釈摩訶衍論(しゃくまかえんろん)』に、

一切の言葉を、

迷いと悟りを基準に、五つにわけた五種言説が説かれています。

「言葉には五つの種類がある。

1、相言説(すがたの言説)
2、夢言説
3、妄執言説(とらわれの言説)
4、無始言説(ならわしの言説)
5、如義言説(まことの言説)」

( )内は栂尾先生の訳。


これを、お大師さんが

『弁顕密二教論 』に引いています。

真如は、人間の言葉で思考し、表現するのは難しいけれど、

如義言説という真実の「仏の言葉」で説くことができる

という内容ですが、

夢言説について、こうあります。

「夢の言説とは
 

 もと過去に受用し、

 経験した因縁生のいつわりの境界をつねに思念することから、

 その境界を夢み、その夢の覚めおわった後

 それがいつわりの境界によって起るもので、

 実体があるわけではないことを知って生じるもの」

自分の過去に執着することが迷いである、

ということ。

今から1000年以上前に、
 
夢は過去の再生にすぎない虚妄である、

と判断していることが、

すごいことだなあ、と感じます。


[ 2019/06/29 05:47 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
欲望の火、智慧の火
先日の葬儀は、

火葬場の炉前で拝む火葬式。

最近増えています。

炉の前(告別室など、焼香する部屋のあることが多い)

で、全員立ったまま、時間も長くて15分。

こういう時は、

早目に行って、

火葬の前に待合室などでお話をします。



火は暖かさと明るさをもたらし、

調理を助け、

化学反応に関わります。

多くの産業に必要。

でも、

管理を怠ると、火傷や火事など、危険なことも起こります。



護摩の火は如来の智慧の象徴で、

無知を焼きます。

しかし、

怒り貪り執着などの煩悩も、燃える火となります。


欲望の火が、智慧の火に昇華するためには、
 
空性(無我や無常を体得すること)の理解が必要です。

空性が迷いを焼く、と云ってもいい。

深い心のコントロ-ルにより

自我への執着が無意味であり、

自他の比較も無意味であり、

自他の仕切りが低くなることで得られます。


智慧の火によって、迷い執着が焼ければ、

火の中に宇宙の真理が現れる。

その時、拝んでいる人は大日如来、宇宙の真理に出会う。

それが、成仏です。

僕らは、本来清浄で、

元より悟っているのに、

迷い煩悩無知の埃が積もって、それが見えないだけだから、

その埃が智慧の火で焼かれた瞬間、本性(仏)が現れるはずです。


火葬も、

世俗を焼いているのだろうか。


____________________________

立石寺からのお知らせ

☆7月6日(土) 9時~護摩供

☆7月7日(日) 13時半から 施餓鬼法会 

どうぞお参りください。


[ 2019/06/30 06:43 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
男の子の不思議な心
男の子には、

記憶することそのものに熱中する時期があります。

自動車の名前、鉄道の駅名や車両の形式、

プロ野球選手の名前と背番号と年俸、

世界の国名と国旗と首都、

元素周期表、郵便切手の図柄、日本や世界の三大ナントカ・・・。

そういう時に、

うちの子は天才かもしれない、と錯覚する親もいる。

生活の役に立つことは、ほぼ無いのだけれど、

覚えることが面白い。


僕は今、

中年から老年にさしかかっています。

あの頃覚えたものが、ふと浮かぶことがたびたびある。

昨日勉強したことは、忘れているのに。


明日から、

福島と宮城へ慰霊にでかけます。

あの日以降、

記憶することと、忘れたいことと

両方の気持ちがずっと続いています。

カンパOfuseお賽銭箱



[ 2020/03/10 12:25 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
真理はどのように現れているのか。
思い通りにならないという苦に対し、

思い通りになるという楽を求めることを、

執着(rāga)と云います。

この思考では、

苦が無くなれば楽も無くなります。 

普段、言葉を使うことによって、

その言葉が持つイメージで固定された認識を持つので、

多くの場合、正しい判断や正確な認識ができません。

苦や楽は主体側にのみあります。


鳥の声を聞いて、美しいと感じます。

美しいと感じるのは主体(私)であり、

鳥(客体)には、何の関係もありません。

鳥、美しい、などの言葉で、主体側が勝手にイメージしていだけで、

それが真実かどうかはわかりません。

この、

主体と客体を分別することは、識によって行われますが、

僕らの日常は、

主客相対の上に成り立ち、相手を区別し分析します。

それは、事実のありのままの姿の認識ではなく、

僕がそう感じた、という主観によって組み立てられたもので、

誤謬性があり、妄分別(vikalpa)です。

つまり、

だれが何を感じようと、

真実は言葉で説明できません。

そのため、

仏教では、真言、梵字、仏具、曼荼羅、仏像、香、景色、月星、自然などで、

シンボライズします。

心とは満月のようなもの、

などと。

心そのものを言葉で定義できないからです。

この、主体と客体の分別を停止することで、

執着の止滅→苦楽の止滅になります。

ふたつの対立を無くするのです。

存在の真実(なぜ存在しているのか、など)は

言葉では説明できないので、多くは沈黙されます。

しかし、それでは分からないので、

作法や所作などを通して説法します。

悟りとは、実の如く自心を知ること(大日経)ですが、

それは、

心の執着する内外、分別等の、

あらゆる執着(とらわれ)よくよく観察して離れることです。


具体的な瞑想法では、

虚空は無ではなく一切を含容しているように、

ひとつの作法、ひとつの動作が、

法界に周辺すると観想すること。

これによって、

表現されないものを観ます。


Ofuse お布施箱 





[ 2020/07/13 09:26 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
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[ 2020/07/15 14:52 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]



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