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[ 2026/03/15 23:02 | ]
智慧の修行 
般若経六百巻をすだれのようにパラパラする大般若祈祷会、

ポピュラーな般若心経

それら般若経典に書かれていることが、略般若にまとまっています。


「諸法皆是因縁生 因縁生故無自性 無自性故無去来 無去来故畢竟空

 畢竟空故無所得 是名般若波羅蜜」

一切のものは、因縁(縁と条件)によって生じる

だから、

自性(自立的で恒常不変で単一な実体 )が無い

なので、

去るとか来るとかは無い

つまり、

空である

ということ。


大般若経でも般若心経でも、

人間の思惟分別は、

実在とは関係ない虚構にすぎない言葉にもとづいて起こる。
(人間の都合で何にでも勝手に名前をつけ、その名前でないものと区別しているだけ)

言葉で捕らえられない物の本性を、
(もし、名前をつけなかったら、それが何だか理解できない)

言葉と思惟によって虚構し 、

その虚構の上に、誤った行為と煩悩を積み重ねてゆく、

それがわれわれの迷いの世界

という立場です。


しかし、

月でも仏像でも何でも、

それに集中して瞑想すると、

その名前、形が消え、

思惟されるもの、表現されるもの、知覚されるものが消え、
 
最後まで残っている最高の真実、

それは静寂、孤独、清浄で、言葉と表象を越えた一元の世界が現れます。

それが空観。

それを行じるのが智慧の修行。


真言宗の場合、

まったく合理的でない(日常生活の分別には役に立たない)

真言という言葉を、

実在の象徴として使うことで、

現実をいったん分解して再構築し、

自身と仏(宇宙法界)が同じであると観想します。


例えば、

肉魚を食べると、

そのタンパク質はアミノ酸に分解され、

小腸から吸収され、血液によって肝臓へ送られます。

そして、

 新たなタンパク質が作られ、食べた人の身体になります。

それと似ているかな。


だから、

食べないと身体が作られないように、

智慧の修行をしないと、成仏はできない。



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[ 2019/05/18 08:37 | Comments(1) | 米ぞうの家 ]
ふたつの成仏
成仏は仏(ブッダ)に成ること、

迷いを悟りに転じること、

人格を完成すること、

仏教の目的です。


『即身成仏義』には、

「三密加持すれば速疾に顕わる」

(仏の智慧と、我々の身体・言葉・心が応じあうとき、そこにさとり(成仏)がある)


『菩提心論』には、

「もし人、仏慧を求めて菩提心に通達すれば、父母所生の身に速やかに大覚の位を証す」

さとりを求め、心をコントロールするトレーニングをして菩提心に達すれば、
 父母によって生まれたこの身そのままで
 たちまちにして、ブッダになる)

とあります。

これは現実の成仏ですが、

想像の成仏もあります。

故人の成仏、

などと呼ばれるもの。

これは想像ですから、どうにでもなる。

成仏するしない、

こうすればいい、ああしてはいけない。

心の中で思い通りになる。

それはそれで、安心のために意味はあるかもしれない。



現実の成仏は、

努力工夫精進(因)すれば、そこへ達し(果)ますが、

想像の成仏は、

因果の法則を超えているような気がする。







[ 2019/05/20 05:15 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
二而不二
「ににふに」

と読みます。ちょっとかわいい。

ふたつにして、ふたつでない。

二而は、本来ひとつのものを、ふたつとみる

不二は、ふたつと見るけれど、実はそれらはひとつである

ということで、

密教思想で基本となる考えかた。

表裏一体、に近いかな。


智慧と慈悲

我と仏

原因と結果

迷いと悟り

モノと心

生と死

地獄と極楽

みな、二而不二

という立場です。


ところで、

成仏する(悟るため)には、とても長い時間の修行が必要で、

それは何度も生まれ変わって続けなければ到達できないなら、

そんなものに意味があるでしょうか。

今すぐに、とはいわないまでも、

一生のうちに成仏しなければ、人生の役に立たない。

ということで、

密教の即身成仏があります。

それまでの仏教は、縁起論が重要だったけれど、

密教はそれよりも成仏論が優先し、充実しているように、僕は考えています。


密教では、

お母さんとママ

おにぎりとおむすび

カレーライスとライスカレー

みたいに、

同じものにいくつかの名前があります。

宇宙、法界、大日如来、心、卒塔婆、満月、明朗、円明、光明、虚空、我、

などは同じものです、呼び名が違うだけ。

悟り、成仏、菩提も同じ。

さらに、

その反対語のように使われるものも同じ、

というのも二而不二。


これは、心の問題です。

どう考えるか、どう思うかで、

どうにでもなる、

世の中の景色も変わる。


もっとも重要なのは、

主体と客体、本体と現象

凡聖(迷っている人と悟っている人)

の不二。

その三摩地(ピントを当て集中すること:心の探求)修行が、

即身成仏の方法です。


_________________________

☆お知らせ

7月6日午後3時と
  7日午前10時より、

飯田市 千頭山 立石寺にて、

祟りと鬼心による鬼病を治す「施餓鬼法」

悪業の報いによる業病を治す「懺悔礼拝行」

を、お教えします。

お気持ちがありましたら、お申し込みください。

どなたでも参加できます(予約制)

・持ち物
数珠、輪袈裟、
動きやすい服装

・時間
40分程度

・参加費
5千円


予約お申し込みはこちらから。 


[ 2019/05/21 09:39 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
大金剛輪
在家向け勤行次第にも載っていることがある

大金剛輪陀羅尼(だいこんごんりんだらに)。
 
これは勤行の終盤に唱えます。

なぜなら、

これは補欠分の真言(陀羅尼)と云って、

凡人は、経や真言を誤って唱えることもあるから、それを補う、

ということが『底利三昧耶経』にあるから。


大金剛輪とは、金剛界大曼荼羅のことで、

輪は、車輪に縦横の軸が集るように、よく功徳を集め持つ、

ということ。
 
大曼荼羅には諸尊の徳が集っている。

大は、法界(宇宙)に周遍する

金剛は、永遠に変わらぬ固い菩提心

の象徴です。

進んで自分の信念を堅固にし、

この印と真言によって罪業を破り、

一切の功徳を具足し

自性清浄の心となる、

そして、

拝む人の心が曼荼羅の全体となる、

と『阿閦如来念誦供養法』などに説かれています。


つまり、

この真言陀羅尼を唱えることで、

自心中に曼荼羅を荘厳する

ということ。

 

栂尾先生の訳では、

「塵垢をはなれて無限に平等性に住し、

 堅固不壊なる大輪にす住する救世の諸佛が、

 無限の光を以って有限の垢を除き破り、

 人をして勝上なる聞思修の三恵の成就に至らしめんことを」

となっています。

唱えかたなど、教わる機会がありましたら、

上記の意味を味わいながら、

たくさん唱えてください。


_________________________

7月6日午後3時 

  7日午前10時

の二回、

飯田市 千頭山 立石寺にて、 

祟りと鬼心による鬼病を治す施餓鬼法と、

悪業の報いによる業病を治す懺悔礼拝行

をお教えします。

お気持ちがありましたら、お申し込みください。

どなたでも参加できます(予約制)

・持ち物
数珠、輪袈裟、
動きやすい服装

・時間
40分程度

・参加費
5千円


予約お申し込みはこちらから。




[ 2019/05/22 11:28 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
心の中に風が吹く
仏は優秀な医者であり、

その教えは処方箋であり、

考えめぐらし、修行することが薬、

ということが、

『三昧耶戒序』や『十住心論』に書かれています。


その中で、

心病の治療は仏教の教えによらなければならない、

としていますが、

医者が治療する身病は四大の不調であり、

祟りには呪法、悪業の報いには懺悔法としているので、

心病とはそれ以外のものと考えられます。

「心の病は万を超えるほどもあるので、

 八万四千の法門といわれる仏教の教えは、

 それら心の病をあわれんで説かれた」(戒序)

「心の病は多いといっても、その原因はただひとつ、

 すなわち根源的な無知である」(十住心論)

とあり、

さらに、

四重「殺・盗・淫・虚言」

五逆「母を殺し、父を殺し、修行者を殺し、仏身より血を出し、教団をみだす」

謗法「大乗の教えを非難する」

一闡提(いっせんだい)「成仏の資格を欠く」

などの重罪も、陀羅尼の教えはそれを消し去り、速やかに根源的な無知の根を抜き取る、

とあります。

 
仏教には、

貪り怒り無知のほか、

悩み苦しみ迷い慢心疑心不安などの心の問題には、

1、因果の法則、諸行無常、諸法無我などの仏の教え
 
2、不善などを離れ、浄戒を保つ

3、心の分析

4、智慧(空)の修行

5、陀羅尼(真言の三密行)

という薬があります。


その中で、

なぜ陀羅尼(真言)の教えのみが、重罪をも治し、

全ての心病の原因である「根源的な無知」を消すことができるのでしょうか。

『般若心経秘鍵』に、

「真言は不思議なり、観誦すれば無明(根源的な無知)を除く」

とありますが、

なぜ、無明を除けるのでしょうか。

ひとつは、

『声字義』などにあるように、

声字=大日=実相であり、

実相(真実)を知ることによって、

苦を抜き楽を与える、安定した生活を営むことができるから。

そもそも、陀羅尼とは、

散乱する五感を制御して精神を統一した状態

のことです。

真言を唱えるとは、そういうことです。


自分の

なすこと、かたること、おもうこと

が仏のそれと一致することが成仏悟りですが、

真言を唱え、心を制御することは、

その一致を目指すものです。

その時、

真言陀羅尼は、

心の中を通る風になり、

詰まっている悩み苦しみを吹き飛ばします。


_________________________________


7月6日午後3時

  7日午前10時

の二回、

飯田市 千頭山 立石寺にて、

祟りと鬼心による鬼病を治す施餓鬼法と、

悪業の報いによる業病を治す懺悔礼拝行

をお教えします。

お気持ちがありましたら、お申し込みください。

どなたでも参加できます(予約制)

・持ち物
数珠、輪袈裟、
動きやすい服装

・時間
40分程度

・参加費
5千円


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[ 2019/05/23 10:17 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
施餓鬼とお盆の違い
作成中、少しずつ更新します。2019.5.24


施餓鬼盂蘭盆
救抜焔口陀羅尼経など典拠盂蘭盆経
餓鬼、諸鬼に施食し、
三宝の徳をもってその苦難を
抜済する
内容七世の父母、現在の父母
厄難中の者のために、衆僧に供養する
滅罪・増益
修行の成就円満
災障消除
鬼病を治す
目的先亡精霊の滅罪、
得脱
祈祷種類先祖供養
観音から伝授された陀羅尼の読誦何をするのか経典の読誦
毎日行う日7月15日
観音経
読むべき経典盂蘭盆経
二箇法要または理趣三昧修法
法要
釈迦法
桃・柳・石榴の側では行わない
本堂内陣では行わない
灯明をともさない
香華を供えない
鐘を鳴らさない
数珠を摺らない
声高に真言を唱えない
作法終了後は直ちに後ろを向いて振り返らない
(以上、餓鬼、諸鬼が嫌うため)
特徴

[ 2019/05/24 06:12 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
『大日経』と『金剛頂経』を比べてみると
このふたつは、

真言宗の所依の経典。よりどころとするものですが、

内容はずいぶんと違います。


大日経金剛頂経
7世紀ころ成立8世紀ころ
一生の間、
利他の行を続ける
成仏する時一生でかたがつく
胎蔵生曼荼羅曼荼羅金剛界曼荼羅
慈悲象徴するもの智慧
五字厳身観観法五相成身観
自分の内側大日如来がいる場所自分の外側
実の如く自心を知るため
の慈悲行の実践
悟りの方法自心を観察する真言を
唱える
無限真言を唱える回数好きなだけ

[ 2019/05/25 05:58 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
金剛頂経雑感  1
真言密教の特徴のひとつが即身成仏。

現在の人生で、現在の身体で、

成仏できる、こよなき悟りに至る、
 
ということ。
 
その典拠は『即身成仏義』に挙げられており、

その方法は『大日経』と『金剛頂経』に説かれています。

この二つは、

前者が行の教え、後者が瑜伽(ヨーガ)の教えなので、

ちょっと方法が違います。

いづれにしても、

利他行(慈悲)と三密行(智慧)という方法で、即身成仏できるのが特徴。

そして、

即身成仏した人、または、それを目指している人が、

少ないのも特徴

のような気がする。

なぜだろうか。



それはさておき、

『金剛頂経』では、衆生が登場しません。

ということは、

慈悲の対象が無い。

だから、

どんな人でも、その人の性格資質に関係なく成仏できる。

真言を唱える口と、作法する身体、仏の世界を想う心があればいい。

それらが正当で誤りなくできればいい。

つまり、

自分のことだけで、他人のことは関係ないとも言えます。

でも、

成仏すれば、自然と悪から離れ、善にあふれ、

存在するだけで利他になるのかもしれない。

仏とはそういうものだから。


瑜伽の理論では、

象徴と、それが象徴するものとは同じである

ので、

三密行によって、曼荼羅を自身のうちに再建すれば、

自らが金剛界曼荼羅、大日如来になる、

ということ。








[ 2019/05/25 06:20 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
金剛頂経雑感 2 ~苦行について~

一切義成就菩薩は、

普賢菩薩であり、お釈迦さまでもある、

解釈によっていろいろなのですが、

『理趣経』には、

一切義成就金剛手菩薩摩訶薩という長いお名前で登場します。

その菩薩が、

無上の悟りを求めて、

無息禅とか無動三摩地と呼ばれる苦行をしていました。

口も鼻も耳も閉じてしまうような行。

そこへ、

一切如来が現れ、

一切如来の真実を知らないで、

苦行難行に喜びを探しても、悟りは得られない

苦行をして、どうして無上の悟りを得ることができるのか

と言います。



一生懸命何かをしても、

大切なことを知らなければ何にもならないよ、

ということは世間でもあるでしょう。


寺院仏教では、

真面目に葬儀や先祖供養をしているけれど、

大切なことを忘れていないだろうか。

それで仏教が分かり、成仏できるのだろうか。



それはさておき、

一切義成就菩薩が行じていたものは、

仏教一般に許容される禅定ではない

と『普曜経』にあります。

なぜなら、
 
衆生に対する利益行が不可能だから。


金剛頂経というのは、いくつもの経典が集まったものですが、

その中でも、

苦行を否定しているものが多い。

一般論で、

極端な安楽と、極端な苦行の両方とも無意味であり、

その間の中道を選ぶべき、

という意見もありますが、

多くは苦行のみ否定し、

反対側の安楽享楽放逸は、そのままにしていないだろうか。


『普賢金剛薩埵瑜伽念誦儀軌』などは、

苦行を否定していません。観法・禅定の前行としています。


あの、お釈迦さまの6年間の苦行も、

苦行ではなく、心の探求であり、

菩提樹下で悟るための前行だったかもしれない。


中道で済ませるのではなく、

苦行でも何でも、

さあ、やってやろうじゃないか

という気持ちは意味があります。

やらなければわからないこともある。


現在の僕らが教わっている次第(『金剛界』の五相成身観)は、

『金剛頂蓮華部心念誦儀軌』にあるもので、

当該場面は苦行ではなく

数息観のような、穏やかな呼吸法が示されています。



[ 2019/05/26 05:52 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
金剛頂経雑感 3 ~真実とは何か~
「あらゆる難行に耐えたからとて、

 どうして無上なる悟りを得ることができるであろうか。

 あなたは、一切如来の真実を知らないのだから」

と言われた一切義成就菩薩は、

「私はどのようにすれば、真実に到達できるのでしょうか」

と問います。


一切如来とは『金剛頂経開題』に説明があります。

それは五智の仏。

五智とは、

鏡の如き智慧:あらゆるものを、ありのままに認識する智慧
隔てなき智慧:あらゆる存在が平等であると認識する智慧
見きわめの智慧:あらゆる存在の違いを認識する智慧
ワザをなす知恵:他に働きかけ、救済し、教化する智慧
最高の智慧:真理の世界そのものの本性のもつ智慧

この、

世の中の総て(の智慧)を集めて自分の身体とするのが五仏。

だから、

この五仏=一切如来は、すべての存在の根源なり

とあります。

そして、
 
真実とは何か。

『金剛頂経開題』では、

真は真如

実は実知実相

として、

『釈摩訶衍論』から十種の真と如を引用しています。

それを、大雑把にまとめれば、

一切は本来清浄である、ということ

実知実相は不二のこと。

不二についてはこちら


ちなみに、

金剛頂経の注釈書である『タントラ義入釈」には

真実とは、

心真言、印、真言、明

の四つ。

『真実光明論』には、

曼荼羅、真言、印、我と処の守護、諸尊勧請儀軌、
陀羅尼、禅定、内外自性具足の護摩、修練、供養後撥遣

の十真実が説かれています。


僕は、

自心を観察する三摩地samādhiや禅定dhyānaによって、

つまり、

心をまとめ、心を静かにして、

自性清浄心を知ること、

と考えています。





[ 2019/05/27 13:38 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
金剛頂経雑感 4 ~非科学性の問題~
どうすれば真実にたどり着けるのか

という一切義成就菩薩の質問に対して、

一切如来は、

自分の心を観察する三昧に住し、

本性より成就している真言を、

好きな回数だけ唱えるように

と答えます。

自心を如実に観じることから、

真実へ向かうのです。



ところで、

論理的・客観的・実証的であり、

再現性と普遍性が確認できることを科学的とするならば、

流通している世間の宗教は科学的でありません。

たとえば、

輪廻転生、死後の世界、死者の成仏などは、

それが誤りであることを確認する手段がないので、科学的と云えない。


「存在」について、

創造主が作った 

自然に発生した

などと比べれば、

縁と条件によって生じた、とする縁起論や空観は、

合理的で、科学との互換性がありそうですが、

最終的な実証性の問題があります。  



『金剛頂経』を貫くもの、前提として決まっているものとして、

心もモノも、総ての存在は、その本質が本来清浄である、

仏の性質がある、

仏になる可能性を蔵している

初めから悟っている、

があります。


それだからこそ、

その心を観察することから始まります。


しかし、

その本来清浄である心もモノも、

条件や原因無しで存在しているものではありません。

何かに寄りかかって、関係性を持っているはずです。

ですから、実体が無いので、

「科学的に」観察することは不可能であり、

三昧とか三摩地と云う、瞑想修行、宗教的直観でなければ体得できない、

と考えられます。

さらに『金剛頂経』では、

悩んでいる人、困っている人を救う慈悲の行いを、

長い間積み重ねることで、悟りへの修行としてきた大乗仏教の基本を、

自心を観察する、という瞑想と、

その意味の真言を唱えることで、

代替させます。

これは、どういうことなのだろうか。







[ 2019/05/28 16:00 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
金剛頂経雑感 5 ~心から身体へ~
個人的な体験である悟り・成仏・菩提、

金剛頂経の言葉で云えば、

真実への到達、そのための自心の観察

これらは

仏教の基本であり目的です。

教理教判はたくさんありますが、もっとも重要なのは成仏論、成仏の方法。

金剛頂経のメインである五相成身観では、

行者が仏の心を得、

更に仏の身体になる方法が説かれています。


諸法の性は自心に由る
(あらゆるものは自分の心から生じる)
 
と始まるこの修法は、

1、自心は本来、自性清浄にして福智円満しているという立場から、

 自性清浄の真言をもって修観。

2、本来清浄だから、何かに覆われていても、根本に及ぶことはない。

3、本来清浄だから、修行に染まって彩られる。

4、例えば、月を見ている時は、雲に隠れて見えないことがあるけれど、

 月に坐るようになれば、月を覆う雲は気にならない。

5、さらに、自分が月そのものになれば、見るも見られるも無くなる。

6、世の中の総ては仏のシンボルなので、自心の中にそれを展開して観察すれば、

 自心は仏心になる。

7、その心が如来の力添えによって、宇宙に遍満している仏の身体と相即され、

 自身が仏身になる。


極端な言いかたをすれば、

世の中の総ては仏なのだから、自分も仏である、

それを、

象徴するものと象徴されるものは同一、

という瑜伽の論理から、

一切の修行を、真言などの象徴で置き換え、

自分も自分以外も、

総て仏(一切如来)の顕れであることを証明します。



※五相成身観の入門である、月輪観の瞑想法(心の観察法)をお教えします。

いつでもどこでもできます。

お気持ちのあるかたは、ご連絡ください。






[ 2019/05/29 15:09 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
金剛頂経雑感 6 ~どうすれば良いのだろうか~
『即身成仏義』には、

即身に成仏する典拠を八つ上げています。

『金剛頂経』から四つ、

『大日経』から二つ

『菩提心論』から二つ。

1、この三昧を修するものは現に仏菩提を証す

2、もし衆生あってこの教に遇い、昼夜四時に精進して修すれば、現世に歓喜地を証得し、
  後の十六生に正覚を成ず

3、もしよくこの勝義によって修すれば、現世に無上覚を成ずることを得

4、まさに知るべし、自身すなわち金剛界となる。自身金剛となりぬれば堅実にして傾壊なし、
  われ金剛身となる                          以上『金剛頂経』

5、この身を捨てずして神境通を逮得し、大空位に遊歩して、しかも身秘密を成ず

6、この生において悉地に入らんとおもはば、その所応にしたがいこれを思念せよ。
  まのあたり尊の所において明法を受け観察し相応すれば成就を作す
                                   以上『大日経』

7、真言法のなかにのみ即身成仏するが故に、是れ三摩地の法を説く。
  諸教のなかにおいて闕して書せず

8、もし人仏慧を求めて菩提心に通達すれば、父母所生の身に速に大覚の位を証す
                                   以上『菩提心論』


この、即身成仏への批判は昔からあります。

ひとつは、

行が欠けている。

菩薩の修行には六波羅蜜があり、
 
布施 ほどこし
持戒 いましめ おきて
忍辱 たえしのぶ
精進 はげみ
禅定 心のしずけさ 
智慧 存在の意味

このうち、

真言密教が即身成仏の方法としているのは三摩地、

つまり、
 
禅定のひとつだけであり、他の行を欠いているから不完全である、

というもの。


もうひとつは、

慈悲を欠いている。

禅定だけで、自分ひとりで悟りへ向かうのは、利他を捨てている、

というもの。


大乗仏教では、

煩悩障と所知障
(迷いの原因=我への執著と、知るべきものを知ることができない原因=モノへの執著)を断じれば、

自利と利他(自らの悟りと、他の人の救済)を、

同時に達成できると考えています。


即身成仏は、

自利がなければ、利他はできない

と受け取れる面もありますが、

弘法大師は、

「衆生尽き、虚空尽き、衆生尽き、涅槃尽きなば、我が願いも尽きなん」(『性霊集』)

とおっしゃっており、

修生(修行して生じる)あっての本有(本来悟っている)であり、

修行してから、衆生を永遠に救う修行をさらに続ける、

という立場だと、僕は考えています。


そのあたりは、

『三昧耶戒序』に具体的に書かれています。


「この乗にはいって修行せんと欲わんものは、先ず四種の心を発すべし。

 一には信心、二には大悲心、三には勝義心、四いは大菩提心なり」

とあり、

慈悲による信心 、

すべてを己のことと思う大悲行願心
 
道を求め、向上しようとする勝義心

それを支える大菩提心(三摩地)

この三摩地によって、

自己の本源に目覚め、迷いを悟りに帰入する。

これは、

帰りたかった自宅へ帰る心と似ており、

その帰るところが、慈悲(行願心)と智慧(勝義心)

そして、

金剛頂経の世界へ三摩地によって入り、

そこから永遠に衆生利益の道を歩く、

それが即身成仏かもしれない。




[ 2019/05/30 10:23 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
健康という供養
一年前に体調を崩して、ひと月で10キロ以上痩せ、

酒も飲めなくなり、縁者に心配をかけました。

とても反省しています。

健康は大切。


よくよく考えると、

離れて暮している家族の健康をいつも気にしています。

子が小さい頃から、

彼らの体調が悪いと心配でした。

今でも同じ。

だから、

自分も心配をかけないよう、

健康は大切。


ところで、

お葬式や法事などの先祖供養は、

死者のために行なうのか、生きている人のためか。

生きている人が襟を正して生きるため、

と僕は考えていますが、

もし死者・故人のために行なうのなら、どうすれば故人のためになるでしょうか。


僕が故人なら、

まずは健康でいてほしい。

病気だと心配、心がふさがる、極楽じゃない。

元気でいてくれれば安心。

 
陰陽五行説では、

肝臓の疲れは怒りを、腎臓のそれは怖れを引き起こす、

と考えます。

この怒りと怖れは、

それゆえに他を攻撃する元となる。

また、

胃腸が痛むと不安になり、心臓なら興奮につながります。

だから、

内臓も健康であれば、他を傷つける可能性は低くなり、

殺・盗・悪口・両舌・怒・邪などの不善から、

自然と離れます。

そうすれば、

他と仲良く暮せる。

仲が良いのは気持ちよく、

不仲は悲しい。

だから、

健康は大切。

まずは、

明るく暮しましょう。




[ 2019/05/31 11:50 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
願うもの、目指すもの
菩提はサンスクリット語ボーディー(bodhi)の音写語。

意味は、悟り、正覚、成仏。

タイガースファンはタイガースの勝利を願いますが、

タイガースの選手は勝利を目指してトレーニングする。

同じように僕らは、

他者の菩提を願い、

自分の菩提を目指して修行する。


『日英佛教語辞典』で菩提を引くと、

The highest wisdom
または
enlightenment 

つまり、

闇が灯りによって消えるように、

迷い苦しみ不安が、智慧によって消える。
 
分からないことがわかる、ということ。

暗闇は何も見えず怖いけれど、明るければ安全で何でも見えるように、

悟り、成仏とはそういう状態。 


四国八十八箇所、お遍路の札所は、

阿波(徳島)のお寺が発心の道場
土佐(高知)は修行の道場
伊予(愛媛)は菩提の道場
讃岐(香川)は涅槃の道場

と呼ばれています。

この発心・修行・菩提・涅槃に方便を加えて五転と云います。

真言の修行によって菩提心が向上していく順位のこと。

発心(おもいたち)して、
修行(トレーニング)し、
菩提(真如)を体得し
涅槃(やすらか)になる。
 そして、
方便(他を利益)する。
 
この五転には、

因(発心)、行(修行)、証(菩提)、入(涅槃)、方便、

という云いかたもあります。


般若心経を分析すると、

その冒頭の文章で、 

観自在菩薩は (般若の修行をする人が観自在、修行を始める人のこと)

行深般若波羅蜜多時は(主観的に行じる)

照見五蘊皆空が(ものと心が空なりと悟る智慧=菩提)

度一切苦厄が (その智慧による結果で、涅槃(やすらい)に入る)


中間部分の文章では、

依般若波羅蜜多故が

心無罜礙、無罜礙故、無有恐怖、遠離・一切顛倒夢想、究竟涅槃、

が修することで涅槃にること。

三世諸仏、依般若波羅蜜多故、得阿耨多羅三藐三菩提。、

証=菩提です。


お坊さん向けの話では、

行法次第の、

発菩提から五大願までが因

四無量心から礼佛までが行

入我我入と正念誦が証

字輪観が入

散念誦が、利益衆生の方便

これは『行法肝葉抄』に書かれています。



菩提は証(あかし)であり、

修行によって得た智慧のこと。


僕らはみな、如来の三昧耶形(さんまやぎょう:いのちのあらわれ)であり、

等流法身(とうるほっしん:ものにともなるすがた)

である、という智慧なのですが、

それが分かると、分からないこと(不安悩み苦しみ迷い)が無くなる。


さて、

菩提を得ると、具体的にどうなるのか。

風通しの良い広々とした心になり、

清い温かい心が持続する

と恩師田中先生はおっしゃっていました。



[ 2019/06/01 06:38 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
正しい食事
若い頃や新婚時代に繰り返した断食後、

震災原発事故での被災後

昨年体調不良が戻った後、

そういうときの食事は、何か特別だったような気がします。

普段は、

旬のものを楽しく食べるのがよろしいと思っていますが、

基本的に、

家族揃って食べるものは何でもうまい。



食時作法に正食偈(しょうじきげ)があります。

「若飯食時 当願衆生 禅悦為食 法喜充満」
(にゃくぼんじきじ とうがんしゅじょう ぜんねついじき ほうきじゅうまん)

食事をいただく時は、

衆生と共に、

禅定(心をしずめる)の悦びを食とし、

真理による歓喜の心が充満しますように

という意味。


この「正食」は、

正(まさ)に食する、

ということ。


また、

五正食というものがあります。

その内容は経典によって違いますが、

飯、麦豆飯、麨(はったい粉)、肉、餅 (『寄帰伝』)

飯、麨、糒(ほしい)、魚、肉 (『十誦律』)

粳米飯、穄米飯(きび)、粟米飯、赤粳米飯、麦飯 (『善見律』)

飯、麨、乾飯、魚、肉 (『四分律』)

などとあり、

正食とは主食のこと。

穀物以外に肉魚があるのは、その地方の特長でしょう。 



『集異門足論』第二には、

考え無しに食べ、食べねば力が出ぬと食べ、おごりたかぶる心を起こすために食べ、

顔色を良くし、皮膚を潤滑ならしめんとて食べ、

世間の人に見目良しと云われたいために食べるのは、

食の意味も分からず、ただ食べるだけという愚かな食べかたである。


この身を保ち、飢渇を取り除き、

節食の苦しみを断ち、

飽食による苦しみを起こさず、

身体を衰えないように、心に余計な執著を受けないために、

行動に差しさわりがないように、

修行に必要な限度に食事を取る、

これが、食を知ること、と書かれています。

 


中川善教先生の『有情食』には、


正しい食によって心が正しくなり、

食は有情(衆生)を存立せしむる根元であるから、

これを捨てることは生きる義務を有する人間に許されることではない。

節度ある人間として、殊に信施に生きる沙門として、

食を受けるにあたって、慇懃なる慎みを以って対せねばならぬ。
 


まことにあらゆる執著より離脱することをその要諦とする仏教は、

我執を離れたる生活をその目的とし、

教の立前として無我の心地の上に生活することを要請する。

その観点に立つ時、

現身を保持し、生きるために欠くことのできぬものとは云いながら、

食に執著し食に溺れることは、輪廻の根元となるであろうし、

真の人間形成の上にも害多きことである。 


人は食に馴れ食の意義を軽く見過ぎていないか。

人の生命を司るものは食であるが、人を作るのも食である。

須らくは人は食に敬虔なる感謝を致し、常に正食を摂ることを心すべきである。


とあります。



[ 2019/06/02 07:00 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
寺院仏教と個人仏教の違い
プロ野球選手だけれど、ゴルフもできます、

という人がいるように、

仏教の僧侶だけれど、お葬式や先祖供養もできます、

という人は多い。


それはさておき、

お寺の仏教と、

個人の仏教には違う点がいくつかあります。

以下、筆者の個人的見解、例外多数。


    寺院仏教  個人仏教
唱えるもの経典とは内容を理解して実践するもの
言葉で説明する真理とは修行で確認する
仕事仏事とは生きかた
想像するもの成仏とは現実に目指すもの
有相修行方法無相
他者利益自分
無いに等しい戒律保つ工夫をする
読経勤行禅定
言葉仏教の理解方法三摩地
法人、伽藍の維持
文化財の保護
檀信徒、地域への貢献
儀式、文化、風習の伝承
特徴個人的な体験

[ 2019/06/06 08:02 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
ひと駅間で真言を108遍唱える
新しいカメラを買ったので、

以前から考えていたことを撮影して動画にしました。


[ 2019/06/07 19:03 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
上下関係
大野俊覧先生の「東密の法身思想について」(『高野山大学論叢第5巻)を読んで、

プロティヌスの発出論と云うものを知りました。

それによると、

1、神が、

2、精神 理性
3、霊魂
4、自然
5、物質

を産出するらしい。

神は常住で自律した絶対者、

そこから下位のものが生まれる。

絶対、というのは論理的にも現実的にもありえないですから、

この神というのは、

経験が論理より上なのでしょう。


『十住心論』では、

食欲と性欲のみの心から、

他への施しをする心になり、

倫理道徳を知り、

善業を積んで天界へ生まれたいと願う宗教心が生まれ、

自我から無我の仏教へ、

さらに空や縁起を体得し、

宇宙大の智慧と慈悲を知る心まで、

次第に上昇する心が説かれています。

これは、

劣っている下位から、勝れた上位へ向かうとも云えますが、

平等に見れば、

総てが大日如来の現れ、真理の一面。


観法・瞑想でも、

雑念妄想(これがおそらく下位のもの)を排除する方法と、

雑念妄想があるまま、そこに真如を観じるものがあります。

今、そのもの、そのまま、の中に、仏を見る。


それが、

凡聖不二、我即法界、我即大日という密教の立場です。

地獄も極楽も何もかも、

法身・大日如来の顕現と考えます。


『秘蔵記』には、

日月と光明のように、
仏を離れずして衆生あり
衆生を離れずして仏あり
かくの如く融入して相離せず

とあります。




[ 2019/06/08 09:24 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
万物の姿を観想する
僕は若い頃、

システムエンジニアをしていました。

担当していたのは、大型汎用機のOS。

コンピューターの中には、

ICとかLSIなどの基盤があり、その姿はマンダラに似ています。

コンピューターは、

入力装置 ⇒ CPU(論理演算、記憶(メモリ)、制御) ⇒ 出力装置

という構造で、

演算は基本的に、ANDとORとNOTです。


マンダラの中央は大日如来。

働きは記憶と制御

その周囲の四仏が、AND、OR、 NOTなどの仕事を分担しています。

さらに、

十六大菩薩や金剛界三十七尊が、四仏の役割を細分化しています。

マンダラ外周・外金剛部(等流法身)の諸尊が、

心の入出力を担当しています。


ところで、

僕は身体という姿があり、

名前という文字があり、言葉を話します。

衣体や持ち物などの象徴があり、

僕なりの仕事・役割があります。

これがマンダラの種類。

姿のマンダラ、声音文字のマンダラ、シンボルのマンダラ、働きのマンダラ。

どのような存在も、そのすべてを持っています。

それらが集まって、また大きなマンダラになっています。

世界の、万物の姿がマンダラであり

その表現に上の4種類がある、ということ。

ちなみに、

一切のマンダラの共通の儀軌である秘密経、という名の、

『グヒャサマージャ・タントラ』では、

マンダラとは、一切の衆会、あつまりの意味であり、

『大日経』では、「仏の菩提を円満したもの」。



パソコンの中にICチップ、LSIがたくさん集って動いているように、

宇宙の中に地球があり、地球の中に私があり、私の中に細胞がたくさんある。

マンダラは存在するもの、認識できるものすべてを動員して、

現世の、人生の、いのちの美しさと素晴らしさを説いています。



大日如来・CPUを、

お大師さんは心臓に、覚鑁さんは五臓に置いていますが、

例えば宇宙を観想してみましょう。

広い大きな宇宙、

その中に銀河系があり、太陽系があり、

またその中に地球があり、日本があり、自分がいる。
 
自分以外のものがたくさん集って世界がある。

その中心地が自分の心臓や五臓。

そこへ宇宙全体が収束する。

多が一になる。


そこから今度は、

自分の外側へ、地球へ、宇宙へ広がってゆく。

一が多になる。

自心が発展する。


図絵のマンダラには、

その様子が描かれています。



[ 2019/06/09 10:39 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
私は何者か?
真言密教では

我即法界(我は宇宙のすべて)

我即大日(我は大日如来)

と云います。修行してそうなる、と。


真言宗は大日如来の教えです。

常用している『理趣経』も、
 
帰命毘盧遮那佛(大日如来のこと)で始まり、

毘盧遮那佛

と念仏して終わります。


真言宗はまた、真言を唱える宗派です。

お大師さんは、都の大学を中退後、遣唐使として入唐するまでの期間、

何をされていたのか不明な部分が多いのですが、

その間、大日如来を拝んでいた、学んでいた、

と金山穆韶先生がおっしゃっていたということを、

田中千秋先生から聞いたことがあります。

金山先生は、高野山大学学長、高野山真言宗管長を歴任し、

行学兼備とうたわれた昭和の名僧。

その金山先生は、

常に真言を唱えており、

まだ新幹線の無い時代に、

長い東京までの車内でも、ずっと唱えていたらしい。

何を唱えていたかといえば、大日の真言。

それも田中先生から聞きました。


千葉県野田市金乗院住職で、

アビダルマ 研究で著名な加藤純章先生とお話した時、

あんたは大日如来かね

と聞かれました。

大日如来のお姿は、

顔はひとつ、手足は二本づつ、人間と同じで、

人間のように身を装飾しています。


大日如来は宇宙法界ですから、とても大きい。

その中に多くのいのちを抱えています。

それらも大日の三昧耶形(象徴)で

大日の等流法身(ともなる身)

 
つまり、

私は(私以外の総ても)大日如来である、

と云ってもよいのだけれど、

本来そうでも、現実には違う。

なぜかといえば、自我に執著しているから。

無限の大日に、有限の私が出会うと、

私が消えて吸収される。

無限大のものに摂取されたとき、我即大日になる。

私は大日(無限)だけれど、「私(有限)」が残っていれば大日では無い。

その無限大のものに気がつくことが、如実知自心。


『大日経』に、

悟りとは「実の如く自心を知ること( 如実知自心)」

とあります。




[ 2019/06/10 15:39 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
みんなは万徳円満 舎利礼文の話
『舎利礼文(しゃりらいもん)』という、とても短いお経があります。

厳密には経典ではなく、礼敬文ですが、お経として通用しています。

「一心頂礼 万徳円満 釈迦如来  
 真身舎利 本地法身 法界塔婆 
 我等礼敬 為我現身 入我我入
 佛加持故 我証菩提 以佛神力
 利益衆生 発菩提心 修菩薩行 
 同入円寂 平等大智 今将頂礼」

これだけ。

栂尾先生の訳では、

まことをささげ おん舎利を
まどかの功徳  仰がなん
釈迦牟尼仏の  肉身の
とわにほろびぬ 舎利こそは
根本の法の   みほとけの
性(さが)そのままの  塔婆なり
われら心に   おろがめば
仏の姿     眼にうかび
われとみ仏   融けあえり
仏のめぐみ   身にうけて
まよいの闇を  われのぞき
ほとけのちから うけもちて 
世のひとびとを 救わなん
ともにさとりを 請いもとめ
すくいのわざを はげみつつ
きよきいこいに 入れよかし
総てをめぐむ  智の性(さが)の
舎利をば礼し  たてまつる


舎利はお釈迦さんの遺骨、

本地法身は真如、大日如来のこと、

法界塔婆は、

大日如来の智慧を象徴したもの。

それを礼拝することで、仏は仏身を現わし、

入我我入し、

仏は我に加持し、

その仏の救済力によって、その力を私も体得し、

一切衆生を救済し、利益する。

そして、

一切衆生に菩提心をおこさせ、

悟りの境地へ入らせる、

自他平等の大智を体得する

ということ。


重要なのは、


大日の象徴である塔婆はイコール法界であること。

(だから、塔婆の表には胎蔵の大日を現す五字の梵字、

 裏には 金剛界大日を示すバン字という梵字が書かれています)

それを拝むことで、

入我我入(にゅうががにゅう)する、

つまり、自分が仏になること。

塔婆を面前に瞑想修行して、

現実に成仏する、悟る。

加持(ちからぞえ)は、入我我入と同じように、

仏の慈悲の光を、僕らの信心が受け取ること。


窓(心)を開けて、風(仏の説法)を入れると、

仏の加持を受け、迷いの闇が除かれます。

窓の鍵は、懺悔と持戒で開きます。だから、誰でも開けられる。

また、

迷いが波立つ海に漂っていても、

思い切って潜れば、

波の無い、寂静の海に入る。

その海は、

大きく広く、たくさんの生命を育んでいる。

 
『秘蔵記』には、

諸仏は満徳円満の眷属囲繞せり
我もまた、満徳円満して眷属囲繞せり
諸仏は遍法界の身なれば、吾が身、諸仏の中にあり
吾が身 遍法界の身なれば、諸仏の身、吾が身中にあり

とあります。

諸仏は、仏の智慧は、悟りは、宇宙全体に満ちています。

宇宙は仏、その中にいる僕らは、身体を構成している細胞みたいなもので、

仏の一部、仏の身。

風(仏)を入れれば、僕らも風になる、風と一体になる。

海(仏)に潜れば、僕らも海の一部になる、海と一体になる。

万徳円満する。


[ 2019/06/11 15:37 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
立石寺の風景・渡り廊下


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[ 2019/06/12 04:33 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
普段の拝みかた

[ 2019/06/13 09:47 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]



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