または、
子どもがいない、いても跡を継がない、
などによって、先祖代々のお墓に入っても、その後はお参りしてくれる人がいない、
ということになり、いつかお墓は放置されてしまう。
お墓は次に入る人がお参りするものなので、その人がいなければお墓を片付けなければならない。
永代供養塔や合同祀などに移す、散骨する、そのために墓じまいをすることも少なくない。
自分たちは都会に住んでいるけれど、田舎に両親が住みお墓がある。
その両親が亡くなると、田舎で葬儀をして、田舎のお墓に埋葬する。
年忌やお彼岸にはお墓参りに行く。それが年に数回の家族旅行になる。
何より供養の心が育まれる。
そういうご家族の法事を、時折つとめます。
管理は面倒だけれど、生活にメリハリがつき、心は豊かになる。
世の中は手間と時間がかかることを避け、
便利で合理的なものが優先されるけれど、
手間と時間がかかることは、心身の健康に良いだろうな。
でも、
次に入る人がいなければそこまでになってしまう、ということには変わりない。
山椒の若芽とワラビを摘んでテンプラ。揚げるだけ、アク抜きは不要。かき菜のごま和えを添えて。
岐阜のキムラ家でパスタとノカンゾウ。さっとゆでるだけ。
左の小鼻に吹き出物が増え、これは肺か生殖器の疲れ、と望診法では診ます。
そういえば同じ肺系である親指の色も悪い。
こういう時はコーレンやレンコンと葛の飲み物が効果的なのだけれど、
ストレスが強いと何も口に入らない。
そういう時は「安心感」が有効。
そのために心を観察します。
苦しみや悩みは心が作ったもので蜃気楼や幻と同じですから、
楽も心から発生させることができます。
しかも、
苦しみ不安も安心幸福も、その実体は作られ滅するのではなく、どちらも元々あるものです。
どこからかきたものでも、どこかへ消えてゆくのでもなく、ただあるだけのもの。
心は自由です。遠くのこと、昔のこと、未来のこと、何でも今すぐに思うことができます。
その時、何でもが心の中にあるから、心は宇宙より広い。
心の中に宇宙のすべてが詰まっている。
恩師、両親、家族友人知己、植物鉱物動物いろいろ思い浮かべると、
それらの性質が自分の心の中に広がる。
恩師への感謝、両親のあたたかさ、家族のありがたさ、石の硬さ、風のさわやかさ、ごはんのおいしさ、すべてを美化する必要は無いけれど、とりあえず良いところを思えば、その良い点がすべて自分の心の中にひろがる。
自分の外に広がっていたその大きな心を、
自分の身体の中にある心にまとめます。すべての性質が自分の中に吸収される。
見習うべきもの、優しさとおもいやり、感謝反省、もちろん宇宙そのものである仏も自分に入る。
そのように、
心の様子が分かれば、
大地がすべての生き物のよりどころであるように、心もあらゆるものの拠り所であり、
水がすべてを潤すように心もそうであり、
火が薪を燃やすように心は迷いを燃やし、
風が塵を吹き飛ばすように心は不安を消し、
空が大きく広いように、心もそうであると知ります。
その瞬間、仏の心ではなく、仏の身体になります。
仏になれば苦しみは消え、安心感がやってきて、心身が癒される。
そして、
吹き出物も汗と大小便で排毒されて改善する。
陰陽研究塾の記事 42
「心臓が左ではなく正中にある理由」 ⇒ https://groups.google.com/forum/?hl=ja#!topic/inyoukenkyu/nq1p-zBxxjk
楽しめるしばらくが過ぎても、タケノコは次々に発生し成長してしまうので、
薮防止のためにそれを刈り続けるという面倒な時期も近い。
新鮮だから、母は唐辛子だけで、僕は大根おろしだけでアク抜き
田舎だから気合いだけでも抜ける。
タケノコ昆布は食養的(ごま油で強火にして炒め、昆布は1割量、醤油は純正天然醸造、水は使わない、油は飛ばす)に作れば抗がん剤代わりになり、少し陰性にすれば毛髪の滋養になります。ということは小腸の滋養にもなる。小腸は免疫力に関係するところ。
ということは、毛髪で免疫力を望診できる、ということ。
食品成分データベースhttps://fooddb.mext.go.jp/
によれば、
たけのこ 昆布
ナトリウム 無し 2800
カリウム 520 6100
カルシウム 16 710
リン 62 200
(可食部100g中の㎎)
なので、
タケノコはとても陰性、昆布は陰陽両方の要素が多く、アルカリも強い。
これを利用すれば 、いろいろな味と効果が期待できます。
焼いて大根おろしとサラダ
アラメと煮〆る。
山のものは海のものと合い、
白いものは黒いものと合うので、
タケノコと海藻は相性が良く、
腰回りの臓器の滋養や、古い陽性を溶かすのにも効果的です。
何より、季節のものはうまい。
どうして左上から右下に向かって貼り付けてあるのだろうか。
右利きが摂りやすいのかな。
それはさておき、
『食欲の奴隷』(酒井順子)を読んでいたら、
「料理屋さんの煮物は物足りない。
それは野菜自身、まだ煮物になりたてで緊張感が漂っているのと、そのせいで味が染みていないから ・・・」
とあり、おもしろいなあと感じた。
味がこなれる、馴染むのには時間がかかるけれど、そういう煮物を好む人は減っているのではないだろうか。
世間の煮物は甘いものが多い。
砂糖や塩分濃度を高くすると変質しにくいからか、
「甘い」ものは「うまい」と感じる人が多いからだろうけれど、
砂糖の味は強いから、淡い野菜の味が負けてしまうことがある。
砂糖を減らす工夫を教えて欲しい、
という質問が時々あります。
お菓子などは良質な値段の高いものを選ぶと、大切に食べるので量が減り、
陰性な砂糖は排毒されやすいので、良く運動して発汗すれば良い。
問題は調味料としての砂糖、
甘い煮物に慣れていると、砂糖を入れない煮物はおいしく感じない。
砂糖の代わりに蜂蜜や甘味料を使っても、まずくなるだけで解決しない。
砂糖を使わない、おひたしや揚げ物にしたほうが簡単。陰性な砂糖が多いと、陽性な肉も多く食べたくなります。
野菜の味だけでおいしく作る工夫に、先の味を染みらせる、ということがある。
出汁で煮たり置いたり塩気をつかって、素材の味を引き出す。
味覚は経験によって発達するので、
新鮮な野菜や、素材の味を引き出した淡味を知らないと、
甘いものしかおいしくない、と感じるようになるかもしれない。
____________________________
講義録、よろしくお願いします。
『望診法講義録 人相遍』
http://

『望診法講義録 手相編』
http://

掛けて観るより、巻いて仕舞うほうに重きを置いたもので、
着物と同じで日本らしい。もちろん、面前に出せば美しい。
どちらも、
季節や行事によって、また気分によって替えるのが素敵。
ところで、
密教の修法には、真言を唱える念誦法と、護摩法があります。
護摩法には、実際に火を焚いて供物を焼く外護摩と、それを心の中で行う内護摩がある。
そして、護摩法の前行は念誦です。
どちらにも、その作法の中に、観想(瞑想)のプログラムがあります。
瞑想の対象はいろいろありますが、どれもが、
心とは何か、
悟りとは 、
仏とは、
真理とは、
我とは、
というもののシンボルです。
それを対象として心静かに瞑想します。
僕らは自分が本より仏であることを忘れている、または、うまく受け入れられないから、
これら図画によって悟らざる者に開示されています。
これによって、
心とは、迷いとは、苦しみとは何かが分かる。
何においても、知らないと不安になりますが、知っていれば安心する
ということ。
安心するために、一緒に瞑想しましょう。
迷う前の自分に戻る
自心の本宅へ帰る
方法です。
五月病、産後、更年期なども同じ。
季節が陽性になって、しかも陽性な食事をしていると、水分が足りなくなります。
運動によって発汗すれば、脱塩して陽性が排毒されますが、運動不足ではより陽性過多になります。
こういう場合、腎臓も陽性で硬くなっているので、
水分が必要なのにノドが乾かないことが多い。
なので、水分をたくさん摂って運動すれば、陰陽のバランスがとれて、脳の血行も改善すると考えられます。そもそも陰性な野菜が陽性の5倍あれば問題無い。
それはさておき、
ある会に参加して名刺交換をしたら、花屋の社長さんの1枚を除いて他は総て横書き 。
仏教の論文を渉猟してると、こちらはほとんど縦書き。
サンスクリット原文も縦に書かれている。
たまに横書きの論文もあるけれど、ちょっと読みにくい。
最近は住民票も戸籍謄本も横書きで、このブログも横書き。
向田邦子が『無名仮名人名簿』のなかで
「横書きが苦手である。電車の窓から眺める看板も、横書きになっていると、一度では頭に入らないことがある」
と書いているけれど、僕もハガキや原稿は縦のほうが書きやすい。横書きでは文章が長くなってしまいがち。
縦書きは字を崩したり続けて書くのにも便利だけれど、眼が上下に動いて読む形。
横書きは左から読んで右端から左へ戻るときに、眼が追いつかないというか、正確な位置に戻れないことがある。慣れの問題なのだろうけれど。
今後、経典が横書きになるとは思えないけれど、他はどんどん横書きになるのだろうな。
ところで、
仏教では、横を頓悟(一足飛びに悟る)、竪を漸悟(順次進んで悟る)
とします。自力を竪に、他力を横に例える、と云うこともある。
密教では『声字実相義』に、
横(平等):この世のあらゆる音声は、すべて仏の言葉である(悟りの立場)
竪(浅深):この世の音声には、真理の部分と盲の部分との差がある(凡夫の立場)
と、見かたの違いを縦横で示しています。
また、
蓮体和尚の『真言開庫集』(第三真言宗得名之事)には、
「真言法は甚深広大なれば、あまねく一切の機根に応じて世間出世間の所願満足せずということなし。故に大日経疏には横統一切仏教と釈する」
とあり、この場合の横も、平等ということ。
今月に入って二度、葬儀の導師をつとめました。
位牌に戒名を書くのは、もちろん縦書き。
いつか横書きの位牌ができたら、順応できるだろうか。
隣の畑のおじさんが、
腰が痛くならないかい?
と聞いてきた。
望診法では、
腎膀胱系に古塩がたまった陽性症状と診ますので、腰部を温めて大根湯を飲みますが、
股関節が固いと腰痛になりやすい。どこでも痛いのは固いからで陽性過多。
陰性な野菜をたくさん食べて、ストレッチや運動で柔らかくしましょう。
それはさておき、
お位牌に書く戒名の一番上に「ア」という音の梵字を書きます。
これは和尚さんの考えによるので、書かない人もいる。
このアは口を開いて発生する最初の音,
サンスクリット語のアルファベットで最初の文字。
なので、
文字のもと、源泉。アがあるからイ、ウ、エ、オやカ、サ、マ、バなどの音が生まれる。
そういうことから、
ア字はあらゆる言語の本源。
これに対して、
口を閉じて発生する最後の字音がウン。同じくサンスクリット語のアルファベットで最終の字。
だから、
阿吽(アウン) はものの最初と最後のこと、とされます。
仏教、特に密教は悟りをシンボリックに表現しますが、
字音の最初である「阿」は一切の根源、
最後の「吽」は 一切の帰着を象徴します。
つまり、
本来の混じり気無い心と、悟りの象徴。
僕らはすべての物事に名前をつけて認識理解しますが、
それらが何から生じているのか、それをどんどん探してもわからない。
たとえば、肉体は筋肉と骨と血などで出来ていて、
それらは細胞から作られ、
その細胞は、元素から作られ、
といくらたどっても、次から次へと原因が原因を生じさせて、存在の本源は永遠に不明。
だから、
あらゆる存在の本源を極めるなら、それはあるがままに存在しているものであり、原因によって生じたものではないもの。
密教では本不生(ほんぶしょう)と云いますが、それを「ア字」によって象徴します。
そして、
あらゆるものが原因と条件から生じていますが、
すべてのものは常に変化しているから、変化しつづけていることが存在の本質で、
その変化をいくら辿っても、固定的な実体は見つけられない。
それを「ウン字」が象徴している。
つまり、
あなたも僕も宇宙も元素も、
妙なるもので、存在が真実である
ということ。
『吽字義』には、
僕らが本来持っている清浄な心の力を因として、
やさしさと思いやりを根本とし、
それによって自然に湧き出る行動、言葉、思いを究極として、
自他の悟り(平安なしあわせ)に至る。
この、生きることの理念を阿吽が現している、
とあります。
それは、
すべてのいのちとともに生きる喜び
という境地。
今の時期にとてもよろしい。
「豆腐と納豆」
https://groups.google.com/forum/?hl=ja#!topic/shintenan/ELQtC1hQuRI
陰陽研究塾の記事 43
モチ米とウルチ米では、含まれるデンプンの種類が違います。その陰陽は・・・。
https://groups.google.com/forum/?hl=ja#!topic/inyoukenkyu/otIKw4n1s94
小学校4年生の時(1973年)には、年間300日も発表されている。
空がどんよりして視界が低下すると、そろそろだなあ、とみなが思う。
注意報が出ると校庭では遊べない。
休みの日は家の中にいるように言われていた。そんなことは守らないけれど。
光化学スモッグの影響で、運動会や遠足が中止延期になるということもあった。
僕は1962年神奈川県川崎市生まれ。その頃の川崎は公害の街と呼ばれ、
「白い雲をかえせ」というスローガンを覚えている。
※参考「公害の歴史:川崎市ホームページ」
http://

「慢性気管支炎」、「気管支ぜんそく」、「ぜんそく性気管支炎」、「肺気腫」という公害病の子も少なくなかった。
僕は小学校から栃木に移ったけれど、田舎にも光化学スモッグは流れてきた。それでも森があり田畑が広がり、虫も鳥も多く美しい緑が多かったから、公害病は無い。
時折上京すると、東京の空は汚く、隅田川は濁って臭かった。
公害とは、
経済合理性の追求を目的とした社会・経済活動によって、環境が破壊されることにより生じる社会的災害。
便利さを求めた代償。科学がもたらした進歩の副作用。
寺田寅彦は、『科学者とあたま』の中で、
「科学の歴史はある意味では錯覚と失策の歴史である。偉大なる迂愚者の頭の悪い能率の悪い仕事の歴史である」
「頭のいい、ことに年少気鋭の科学者が科学者としては立派な科学者でも、時として陥る一つの錯覚がある。
それは、科学が人間の知恵のすべてであるもののように考えることである。科学は孔子のいわゆる「格物」の学であって「致知」の一部に過ぎない。
しかるに現在の科学の国土はまだウパニシャドや老子やソクラテスの世界との通路を一筋でももっていない 。芭蕉や広重の世界にも手を出す手がかりをもっていない。
そういう別の世界の存在はしかし人間の事実である。理屈ではない。
そういう事実を無視して、科学ばかりが学のように思い誤り思いあがるのは、その人が科学者であるには妨げないとしても、認識の人であるためには少なからざる障害となるであろう」
と云っている。
仏教の目的は悟りであり、極簡単に云えば「しあわせになること」
ダライラマはそれを「心の平和」であると云う(『傷ついた日本人へ』)
科学も人類の幸せのためにあるはずである。
その幸せ、心の平和には人間の意識というものを知らなければならないけれど、科学はそれを捉えられていない。
識と智、精神と感情、という仏教が追求解明してきたことが、
心の科学として自然科学に役立つようになりたい、と考えています。
※陰陽研究熟
「PM2.5と黄砂について」
https://groups.google.com/forum/?hl=ja#!topic/inyoukenkyu/2ZiUCT6AJZw
。
『迦羅摩経』に、お釈迦さまがカーラーマの町で説いた話があります。
あなたがたは、ある説かれたものを真理として受け取るときに、
1、人々の耳に伝えられるもの、例えば秘伝や呪文、神の啓示などに頼ってはいけない
2、世代から世代へと伝え承けたからといって頼ってはいけない
3、古くからの言い伝え、伝説、風説などに頼ってはいけない
4、自分たちの聖書や教典に書いてあるからといって頼ってはいけない
5、経験によらず頭のなかの理性だけで考えることに頼ってはいけない
6、理屈や理論に合っているからといってそれに頼ってはいけない
7、人間がもともと持っている見解等に合っているからというような考察に頼ってはいけない
8、自分の見かたに合っているからというようなことだけで納得してはいけない
9、説くものが立派な姿かたちをしているからといって頼ってはいけない
10、説いた沙門が貴い師であるというような肩書などに誤魔化されてはいけない
真実は自分で確かめ、実証したうえで求めなさい、ということ。
誰かが言ったから、経典に書いているから、では噂話を信じるのと変わらず、
自分を正当化したものではなく、
本当にそうだろうかと勉強し、実践して確かめる。
知識のないままに瞑想修行しても意味は無く、
勉強して実践修行することで覚りに近づきます。
そうすれば危険がなくなり、安心と平安が生まれる
黒豆を昆布と醤油で炊く。
こういう黒くて鹹味のものは、腎臓の滋養になる。
セイタンと生姜を炒め煮して生麩時雨。
この時期、生姜の陰性が殺菌と消化吸収に役立つ。
それはさておき、
現状を分析する方法はいろいろありますが、
例えば、身体に不調がある時
望診して現状を把握し、治病、改善、力をつけるなどの目的があれば、それぞれにあった食事と運動で対応する。
心が不調な時は、
よくよく観察して、状況に合った実践修行をする。
どうなりたいか、という目的がはっきりしていれば、現状を分析することでどのようにでもなる。
目的が無ければどうでも良いけれど。
この時、
不調やトラブルの原因を探すことはそれほど重要ではない。
『不動次第』に、
心月輪の上にहां字有り、是れ因業不可得の義なり。因業不可得なるがゆえに果位もまた不可得なり、因果共に不可得なるがゆえに生死涅槃無差別なり、
とあり、他の心を観察する修法も、みな因業不可得を説いている。
つまり、
結果には原因があり、その原因にはそれを引き起こす原因があるけれど、
原因の原因をたどっても、究極の原因は出てこない。原因をたどる限り、
別の原因が出てくるから。
なので、
すべては妙有、かつ存在が真実であり、
本性として、ただあるだけ。仏と同じように原因がある。
なので、
現状を分析して、その対応をとればよろしい。
葛の料理が合う季節になりました。お腹が冷える梅雨時によろしい。
それはさておき、
誰かの役に立ちたい、誰かを助けたい、より良い人になりたい、
などと思うのは、仏性(仏の性質)や自性清浄心(何にも染まっていない本来の心)がある証拠です。
これがあれば、僕らは成仏できます。迷いを悟りに換え、人格の向上につながる。
教理的には、すでに成仏しているのですが。
そのさとりは幸せのこと
幸せとは平安な心のこと
心を平安にするために瞑想修行をします。
心が平安であるには思いやりと優しさがあること
難しい修行でなくても、
合掌すれば心は平安になります。
花を見る時、笑顔に触れる時、「ありがとう」「おいしかった」と言われる時と同じように、
合掌して怒り出すことは無い。
このように、
合掌するだけでも慈悲の心が生まれ、
さらに、
さまざまなことを勉強すれば、怖れや怒りや不安が無くなります。
知らないと不安だけれど、勉強して知れば不安は消える。
ですから、
慈悲と智慧を体得するために、
たくさん勉強して、心静かに合掌する。
それほど難しくない。
残った味噌汁で高野を戻し、余った衣をつけて焼く。
さあ、食べよう
とか、
買い物に行こう
君が好きだ
世の中を変えたい
などなど、
何でも心が思ってから、行動に移します。
目的を達成するためには、それにかなう勤めをしなければなりませんが、
とにかくまず心が(脳が)思うことから始まる。
朝起きるとか、危ない場面で逃げるなど、思う以前に行動していると感じるかもしれないけれど、
それは深層心理に録画録音されているものが、無意識にリプレイされているもので、心が最初であることに変わりない。
かように、心はすべてのよりどころ、出発点。 強く思えば必ず達する。
その心は、思いようによって、やさしい言葉や行動につながり、それは他を潤す。
その心は、迷いや不安や悩みを吹き飛ばし、焼き尽くすことができる。
その心は、大空のように妨げるものが無く広々として差別が無く、汚れに染まっていない。
分別を離れ無染無着だから、
仏と自分と衆生は平等であるとわかる。これも心をよりどころとしている。
『菩提心論』にあるように、
昔よりこのかた、衆生と仏とを隔てる極細の思いがあるけれど、
これもトレーニングをすることで、仏の心になる。
豆腐、炒り玄米粥、玉ねぎをドレッシングにして混ぜてみる。
砂糖や蜂蜜に漬けたものと違い、そのままの乾燥くだものなので、苦味がちょっと強いかな。
乾燥みかんは陳皮だから、風邪の薬になるかな。
冷蔵庫に古いトマトがあったので、上記の炒り玄米粥、玉ねぎと味噌で炊いて、ローリエ、塩こしょう、パプリカと煮込む。
さて、
王様の格好をして王様らしく振舞っていても、家に帰って衣装を解き、化粧を落とせば素の自分に戻ります。
自分にこだわり、他と比べ、うぬぼれたり、自分を正当化しても、
それを離れれば素の自心に戻ります。
同じように、三密五相と云う密教の瞑想修行によって、
仏身、仏心に戻ることが出来ます。
話としては単純だけれど、なかなかできないことが多い。
早寝早起きも簡単なことですが、実践するのは難しい人もいます。
酒をやめる、ということも簡単、やめるだけのこと。だけど実践は難しい。
身体の病は、身体を作っている食べ物を工夫すれば改善します。
心の病は心を観察して懺悔反省感謝すれば改善します。
簡単な仕組みなのだけれど。
それを実践できるようにするのが、宗教の役割のひとつだと考えています。