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[ 2025/03/15 20:33 | ]
あの日あの時
中学の卒業文集に「ひとことコーナー」があり、

男子はウケ狙いのくだらないことばかり書いていたけれど、

女子の「ひとこと」は良いものがあったように覚えている。

そのなかで、

好きだった子のそれは、
 
「あの日に帰りたい」

そういう歌が流行っていました。

歳をとると、そんな気持ちになることが時々あります。


こだわっていることをあきらめるのが一つの悟りですが、

あきらめられないとか許せないというのは、記憶力が無くなっているからではないだろうか。

なぜなら、

昔のことを思い出してみれば、あきらめられるし、何でも許せる。


子どもが生まれた時の喜びや

成長するにつれての、あの日あの時のかわいかった姿と言葉を思い出す。

そうすると、

今がどんなに生意気でずるがしこくてもかまわない。

本性はかわいいのだから。

それは事実であり、過去にそうだったのだから。

今が本性で過去は繕ったもの、

とは考えにくい。

だから、

思い出したものに真実があるかもしれない。

夫婦恋人友人、誰に対しても同じであるし、

世界で著名なあの人もこの人も、かわいかったに違いなく、

それが本性である可能性が高い。


相手の悪いところしか見えないのは愚か者であり、

昔のかわいさを思い出せないのはバカ者である 。

そう考えれば、平和は案外近いかもしれない。


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[ 2017/09/03 07:33 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
聖俗の立場
日光唐辛子の辛さは上品で、料理に少し混ぜるとさわやかでうまい。



この時期たくさん採れるので、

純米酒と純正醤油同量のみで佃煮にすると、酒にも飯にも合う。


それはさておき、

何か目的のために、初心者初級のトレーニングから始め、

段階を踏んで少しづつ上昇し、ついには目的地に至る。

勉強なら試験に合格し、スポーツなら一等賞になる、というようなこと。

その間、少しづつ練習を積み重ねていくのが年季になり、

一足飛びに栄光はつかめないものである。

このように、

出発点から努力工夫トレーニングによりゴールを目指すことは、何事においても普通のことで、

途中で投げ出してしまうことも少なくない。

でも、

ゴール地点から見れば、スタートからの様子がよくわかる。 


ゴール未経験の場合、

スタート地点ではゴールの様子はよくわからないけれど、

そして、スタートよりゴールのほうが価値あるものだけれど、 

ゴールに到達した目で見れば、

スタートはゴールの一部であり、価値は同じである。


多くの場合、

凡人は出発点で遠いゴールに憧れ、

覚者は到達点にいるから、スタートからの様子がすべて理解できる。

人は皆、心のレベルにおいてはすでにゴールしているのに、

それを忘れてスタート地点であたふたしている。


だから、

もう少し心のことを知れば、すべてのことが解決します。

心は車輪が回転するように、

マグロが泳ぎ続けるように、

とどまることなく動きながら変化しています。

無始から無終、人生の続く限り続いている。

その過程で、

仏のような優しい心になったり、地獄みたいな残忍な気持ちを抱いたり、

クルクル変わりながら続いています。

これを心続生と云い(心は連続して生じるから、固定した実体は無い)

聖俗の立場は、その中の違いに過ぎない。








[ 2017/09/04 11:12 | Comments(0) | 眞天庵仏教塾・密教塾 ]
道草 船橋編

しいたけは春秋に採れますが、


その間はキクラゲが旬。


比較的陽性で、カルシウムがリンの倍以上あるから、抗酸化に優れている。


 


きくらげと油揚げのあんかけ



それはさておき、


久しぶりにサイクリングに出かけた。

快晴で風が涼しい朝、

息子の自転車を借りて8時50分に出発。

まずは船橋市医療センター近くの北谷津川を目指す。

船橋は人口60万を超す都会だけれど、この辺りは畑や森が多い。そして坂が多い。

用水みたいな川だけれど魚も泳いでいる。

両側の道は柵がないから開放的で走りやすい。

念田川と合流して八栄(やさかえ)橋からは海老川となり、

両側は桜並木で、春は美しい。

川にかぶさるように枝が伸びているから、花筏もたくさん流れる。

両側に歩道があり、ジョギングの人が大勢。

下って海へ向かうけれど、サイクリングロ-ドではないので、歩行者ランナー優先。

市場を通り抜け、JRや東関東道をくぐり、河口の船橋橋に来ると、もう海である。

この辺りが本来の船橋、貝と海苔の産地。 

船橋は船を並べて橋としたものだけれど、船橋橋というネーミングはすごいなあ。


南へ向かうとららぽーと。昔の船橋ヘルスセンターがあったところ。

ここまで約7キロ


さらに倉庫が並ぶ埋立地を進む。

海に接した波止場や岸壁は立ち入り禁止なのだけれど、釣りをしている人が多い。

さらに太平洋方面へ走ると、

三代目南極観測船「しらせ」が停泊している。



船は大きく、見ているだけで気分が良い。

この岸壁も進入禁止だけれど、船内は時々公開され、

向かいにあるサッポロビール園からの見学ツアーもある。


ここから東南の幕張方面へ進む。

倉庫の町を抜けると広い通りに出て、

ラウンドワン やイオンが並ぶ通りは、ランニングとサイクリング用の道も沿っているから走りやすい。

千葉マリンのスタジアムを過ぎて、幕張の浜へ。


自転車を止めておむすび休憩。

ここは遊泳禁止の浜だけれど、散歩や砂遊びには楽しい。

眼を細めて海の向こうを見ると、サンフランシスコの金門橋が見える(わけがない)


帰りは成田街道を走る。歩道橋や上り坂が多い。

行列のラーメン屋がある。

ラーメンはそれなりにうまいものだけれど、

あれは本当にうまいのかどうか、よくわからない。

だんだんお尻が痛くなり、立ちこぎしながら13時半に帰宅。

走行距離は約30キロ。


[ 2017/09/05 16:27 | Comments(0) | 道草 ]
高血圧あれこれ
本文を読むにはこちらからパスワードを入力してください。

[ 2017/09/06 05:32 | Comments(0) | 穀菜食の舎 ]
立石寺あれこれ
長野県飯田市 立石寺の話です。


お寺の名前は現在、「りっしゃくじ」で通用していますが、

「立石寺観音堂縁起」を確認すると、
せんとうざん たていしでら(千頭山立石寺)
とあります。


857年(今から1160年前)宥範阿闍梨開創時は、

大悲山普門寺

という名でしたが、一夜のうちに聖石が大地より出現した因縁により立石寺と改め、

復興に尽力した甲賀三郎兼家(鹿射ちの名手、ほぼ伝説上の人物)が九百にあまる鹿を射ち、

その供養のために千頭山と改めた、

と記されています。


また、『下伊那史』は、

市内 伊豆木の天台別院観音寺が移され、

地名によって立石寺に改められた後、真言宗になった

という説を載せています。

これが興味深いのは、

現在の本堂にある台灯籠には菊紋(天台宗)があり、

寺の隣には比叡山の鎮守と同じ日枝神社がある、

とつながるから。

さらに、

創建時、比叡山から杉を持参したという記事もあります。(『南信濃 飯田ものがたり』)
 

かつては寺の境内だったという、立石集落のどこからでも見える夫婦杉(雄杉、雌杉)は

東西に並んでおり、

彼岸中日には、雄杉の陰が伸びて雌杉の根本に至り、

雌杉の陰が雄杉に達する景色が、朝日夕陽の二回見られるようなので、いつか確認したいものです。

年に二回だけ、ふたりが寄り添い語り合うようで、何だかとても美しい。





養蚕が盛んだった地域では、蚕に感謝し供養する風習がいろいろありますが、

立石寺には蚕玉堂があります。近隣のお寺にもあるらしい。

ここには馬鳴菩薩が祀られている、とのこと。


この馬鳴(めみょう)は、

『ブッダ・チャリタ』や『大乗起信論』の馬鳴(Aśvaghoṣa, アシュヴァゴーシャ)とは別人。

 仏典には、馬鳴と蚕が関係する記述は無く、

中国撰述であろう『馬鳴儀軌』が出典
http://www.chisan.or.jp/files/user/pdfD/gendaimikkyo/14pdf/09.pdf 


そこには、

裸形衆生のために衣服を成じようと馬鳴が誓願を立てた。

馬鳴曼荼羅の眷属に蠶(蚕)質がある。

などとあり、

『寶林傳』では、馬鳴が蚕に変化した、とあります(本生譚?)

いずれにしても中国作の民間信仰で、道教の影響かもしれない。 



_____________________________

※「仏教塾・密教塾」では、

研究調査費用の応援・援助を募集しております。

お気持ちがありましたら、よろしくお願いいたします。



[ 2017/09/06 09:47 | Comments(0) | 眞天庵仏教塾・密教塾 ]
食塩中毒について:塩の適正量

陰陽研究塾の記事 55    



●食塩中毒について



https://groups.google.com/forum/?hl=ja#!topic/inyoukenkyu/16oHVvraClE







[ 2017/09/06 16:00 | Comments(0) | 陰陽研究塾 ]
治病法
オクラが不思議なのは 、

同じ苗でも、

小さいのに筋張って固い実があり、

大きくても柔らかいものがあること。


硬いオクラは味噌漬けにするとうまい。



オクラは陰性なので、陽性な古い味噌が合う。

 
それはさておき、

心身の病について、

『三昧耶戒序』や『十住心論』の記述をまとめると

身体の病の種類は多く、それぞれに応じて多くの薬、鍼灸、湯治などの治療法がある。

心の病も人の数だけあり、それぞれに応じて様々な教えがある。

教えのなかで、
 
経(お釈迦さまの教え)
律(規律、規則)
論 (経と律の注釈)
般若 (空の教え)

は軽い病を治し、

陀羅尼(密教)は重病を治す。


身病の原因は、

・四大(地水火風=臓器や血液)の不調:これは薬や医術が有効。

・鬼病:夜叉、羅刹、餓鬼などの鬼が四大五臓に入ること。『首楞厳三昧経』には十種の鬼が

上げられている。「祟り」のようなもので、これは呪法が有効。

代表的なものが「施餓鬼作法」。この中に、餓鬼を解脱させる陀羅尼がある。


・業病:これは過去の行いの報いだから、懺悔法が有効。ポピュラーなものが懺悔礼拝行。


心病の原因は、

根源的な無知。因果の道理や仏性、自分の心を知らないこと。

これの治しかたは、

『菩提心論』に日輪観、月輪観、阿字観、三密行、五相など、

『秘釈』に五臓三摩地観が説かれる。

また、

『戒序』では、

信心、大悲心、勝義心、大菩提心

(慈愛、自分はもっと大きいと知り、落ち着いて自心を観察すること)を説き、

これによって根源的な無知が取り除かれ、

心の平安が訪れて、苦悩は去ります。 


まずは戒めを持つとよろしい。内容は何でも良い。

戒めがあると、心の鍵が開き、風にように説法している仏の声が聞こえる 。



____________________________

※陰陽研究塾年会費、仏教塾密教塾支援金 振込先


○ゆうちょ銀行


通帳口座 18200-33643231

普通口座 八二八店 
3364323

口座名  陰陽研究塾

 


[ 2017/09/07 10:15 | Comments(0) | 眞天庵仏教塾・密教塾 ]
愛と味覚
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[ 2017/09/07 15:59 | Comments(0) | 穀菜食の舎 ]
四十九日の不思議
最近はグルテン粉の種類も多い。

オーサワ 地粉グルテン粉はコシがあるけれど、値段が高い。

イオンなどで手に入る山本貢資商店の小麦グルテンは、

陽性が強い(硬い)けれど、値段が安い。

太陽食品のグルテン粉は比較的陰性で、とても安価。

北海道産食材ユウテックのものは、

コシが弱いけれど、味はまあまあ。


グルテン粉をまとめて野菜スープで15分煮込み、

スライスして秋茄子と油炒め。





それはさておき、

人が亡くなると、初七日から七日おきに七七 四十九日まで追善の供養をする習慣があります。

二七日、三七日と、七日おきに法事をするのは民間信仰から発生したものですが、

四十九日には典拠があります。



[ 2017/09/09 07:25 | Comments(0) | 眞天庵仏教塾・密教塾 ]
解脱と悟り
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[ 2017/09/10 08:14 | Comments(0) | 眞天庵仏教塾・密教塾 ]
そして修行より儀式になった。
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[ 2017/09/11 08:12 | Comments(0) | 眞天庵仏教塾・密教塾 ]
生死の陰陽
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[ 2017/09/13 14:06 | Comments(0) | 陰陽研究塾 ]
秋の陰陽

陰陽研究塾の記事 56   



●秋の陰陽



[ 2017/09/13 15:16 | Comments(0) | 陰陽研究塾 ]
続 故人のしあわせ
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[ 2017/09/14 11:47 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
故人のしあわせ
水切りした木綿豆腐と玉ねぎを炒め、

塩コショウして冷ましてから、

地粉を混ぜてしばらく寝かす。

多めのごま油でカリッと焼いて、

キノコと油揚げの葛煮を餡にする。

ちょっと涼しくなった晩ご飯にうまい。




それはさておき、

質問や疑問に対して、

私はこう思う、そう感じた

では答えになっていない。


文献や儀軌を調べる、

過去の事実を調べる、

自分なりの意見を言いたい場合は、

長年にわたって観察実践してみた結果を、

なぜ、そうなったのかと考える。

そうして、ある程度の答が出ます。 


死んだおばあちゃんは、あの世でしあわせでしょうか?

という質問には、どんな答えがあるだろう。



[ 2017/09/14 11:48 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
糖質制限を陰陽で考える。

陰陽研究塾の記事 57   



●糖質制限を陰陽で考える
https://groups.google.com/forum/?hl=ja#!topic/inyoukenkyu/k8HSloDEcQE







[ 2017/09/14 15:43 | Comments(0) | 陰陽研究塾 ]
イスラム教の天国と密教の浄土
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[ 2017/09/16 09:25 | Comments(0) | 眞天庵仏教塾・密教塾 ]
冥福? そんなものがあるだろうか。
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[ 2017/09/17 09:37 | Comments(0) | 眞天庵仏教塾・密教塾 ]
般若心経小釈
仏教経典の中で最もポピュラーなものであろう『般若心経』は、

二百六十余りの文字数でとても短い。


法相の慈恩大師や華厳の賢首大師(共に唐時代)は、

経題の般若は『大般若経』のことであり、心は心要、としている。

つまり、

600巻に及ぶ膨大な般若経典の心要を抜き出したものが『般若心経』で、

そこには空の思想が説かれる、

と解し、それに追随している人が多いけれど、

はたしてそうだろうか。


般若心経は供養祈祷に関わらず、様々な機会に唱えられるが、

多くはそれによって得られる現世利益の効能が期待されている。

昔も今も、これを唱え写経することにより、病や貧乏が治り、災難を避けるという話は数多い。

つまり、呪文である。


『般若心経』サンスクリット原典の題名は

「Prajñā-pāramitā-hṛdaya」
 般若 波羅蜜多 心

であり、経の文字は無い。


十一面観音や千手観音の儀軌を始め、密教経典では「心」を真言(呪文)の意味で使うことは多い。

十一面観音神呪経では、

十一面観音の陀羅尼を心真言としている。

だから、

原典に「経」の文字が無く、心は般若波羅蜜の真言(呪文)という意味とも考えられる。


修験道では、般若心経の最後の真言部分で九字を切って祈願する作法があり、
 
真言宗でも、真言部分を二十一遍唱える作法がある(阿字観、御宝号念誦など)

つまり、

呪文として使われている。


心経法(供養法、護摩法共)では、

般若菩薩を本尊として迎え、その悟りの境地に住する際、

心経陀羅尼として、ギャテイギャテイの真言を念誦する。

 
多くの場合、

般若心経は、その真言部分(羯諦羯諦、波羅羯諦、波羅僧羯諦、菩提薩婆訶 )のみではなく、

経全体が真言・呪文として唱えられていると云って良い。


その直前に、

般若波羅蜜多、是大神呪、是大明呪、是無上呪、是無等等呪、能除一切苦、
般若波羅蜜多呪

とあるのだから。


冒頭に

観自在菩薩、行深般若波羅蜜多時、照見五蘊皆空、度一切苦厄。

とあるが、観自在菩薩(胎蔵曼荼羅)は金剛界の金剛法菩薩である。

仏教では、

真如と現実に存在しているモノを、同じ「法(ダルマ)」という言葉で表すが、

深般若波羅蜜多を行じる、

ということは、人やモノを見て、その本質(真如)を知る、

ということである。

真実を見ることが、般若という智慧であり、

それは、最終的に、自分の心を知ること。


『秘鍵』には、
 
名医は雑草の中に薬草を見つけ、

名工はただの石ころの中に宝石を見出す目を備えている

と説明している。


この、般若(真実を見出す智慧)をもった菩薩の境地を目指して修行し、

もともと持っている悟りの本性を確認する

ということが、般若波羅蜜である。

だから、 

三世諸仏、依般若波羅蜜多故、得阿耨多羅三藐三菩提。
(般若波羅蜜によって、無上の悟りの境地に至る)

となる。

よって、

『般若心経』は

般若心(智慧の真言)の経

と云えるであろう。 


「『般若心経秘鍵』に聞く」(松長 有慶・『密教学会報』35)には、

インドにおいて、『般若心経』は『大般若経』を摘出した空思想のエッセンスを記した経典として取り扱われていたという記述は、不思議なことに見当たらない。

『般若心経』の異常な人気は、空という思想が素晴らしいからではなくて、この経典を読んだり、書いたり、聞いたりすると、数々の現世の利益がもたらされるという民衆の熱烈な期待がその原因だといってよい。

『般若心経』を『般若経』のエッセンスを説く経とみる現在の通説が、もともと異端の説であったのである。


とあります。




[ 2017/09/21 10:05 | Comments(0) | 眞天庵仏教塾・密教塾 ]
道草 西銀座編
ガード下が好きである。

なぜかといえば、

列車の走行音が聞こえるから。あの音で心弾み胸躍る。

鉄道はその構造上、

カーブが緩やかで優しく、

道床の幅も車が走る道路の半分以下で、環境に優しい。

しかし、

レールも車両も重たいから、

その造りは頑丈で堂々としている。

気は優しくて力持ちなのである。


国会図書館の帰り、

地下鉄有楽町線有楽町で下車。

日比谷側に出て南へ歩く。

僕が若いころ、

日比谷は映画を観に行く街で、

飲みに行くのは数寄屋橋側のガード下だった。


有楽コンコースを左に見て、晴海通りを渡る。

もつ焼き「登運とん」があるガード下に入る。

さあ、

昼間から飲める極楽街の始まりである。

隣はてんぷら「天米」

その隣を右折して、ガード下通路へ。



配管がむき出しで、壁は工事中。

狭い通路の両側に飲食店が並び、

あの、昼間の酒場のにおいがする。



引きずり込まれそうな「有楽町産直飲食街 ぶんか横丁」
http://www.sanchoku-inshokugai.com/yurakucho/

を過ぎ、帝国ホテルがある通りに出る。

その道を渡ると「インターナショナルアーケード」「新橋駅近道」の看板。



この先は店が少なく、事務所と元事務所が並び、壁は崩れたように汚く、

破れた大きなポスターが、気味悪さを演出している。

さっきまでの、

汚い、臭い、うるさい通路から、

薄暗い、湿っぽい通りに変わる。

ここは、

西銀座JRセンターという名称らしく、ガード下だから当然、JRの敷地である。

車は進入禁止、二階へは立ち入り禁止、通路にトイレなし、写真撮影も禁止。

昭和の文化遺産としてもらいたい場所である。

しかし、

人通りはずいぶんある。近道をするサラリーマンや学生だろうか。


半地下の駐車場を抜けると新橋側の出口。

ここから先のガード下は通れず、

東か西へ折れて、線路の両側の道を歩いて新橋駅へ向かう。

明るく賑やかな都会の風景が現れる。



[ 2017/09/22 08:26 | Comments(0) | 道草 ]
ロボット僧
9月23日付朝日新聞「be on satueday」に、

(サザエさんをさがして) デンキ仏教 「全自動化」の日は来るか
http://www.asahi.com/articles/DA3S13143676.html

という記事があります。

ここに登場するのが「ペッパー導師」
https://www.gizmodo.jp/2017/08/pepper-robot-funeral.html

各宗派の読経ができるらしい。法話もOK。

メーカー側は、

人手不足の寺の副住職として開発した、

とのこと。

記事内に、

「ロボットが人に引導をわたせるのか、などと反発もあるようですが」

とあるけれど、

引導を渡せるレベルに達した人間のお坊さんは、現実にはどれくらいいるのでしょうか。

人間のお坊さんの法話も、

修行の実体験より、聞いたり読んだりした引用が多いなら、

ロボットでもいい。

ロボットのほうが無欲無執着で、差別意識もないだろうから。


ロボットやAIが人間にとって代わる、

という論文(というより研究室のレポートに近いけれど)

で著名なのが、

Frey and Osborne (2013) “The Future of Employment: How Susceptible are Jobs to Computerisation?“
『雇用の未来—コンピューター化によって仕事は失われるのか』
http://www.oxfordmartin.ox.ac.uk/downloads/academic/The_Future_of_Employment.pdf


それから、

「わたしの仕事、ロボットに奪われますか?」
Can a robot do your job?(日本経済新聞)
https://vdata.nikkei.com/newsgraphics/ft-ai-job/


これらの中で、

自動化ができない職業として、

歴史家 、鉱山の屋根用ボルト締め作業員、聖職者

が挙げられています。


僕は、

ビッグデータとディープラーニングによって、

人を癒やし、安心させることはできるから、

ある程度、僧侶の活動に代わることはできると考えます。

知らないことが、怖れや不安、迷いになるからです。

むしろ、良い結果があるかもしれない。膨大な知識があるから。


 
問題は、仏教の本質的な部分、「悟り」です。

これは、

自分とは何か、

存在とは何か、

心とは何か、

を理解しなければなりません。

人間がそれを知らなければ、AIに教えることはできないから、

人間が悟らなければ、ロボットも悟れない。



この世の中のすべてのものは存在論的には因果の法則の範囲内ですが、

これはロボットでも理解できます。

しかし、その存在の本性は因果の法則を超えているので、

迷いを離れ静寂な心に至る、

ということがロボットにできるだろうか。

でも、

煩悩によって心が波立つ、

ということがロボットには無いのかな。


いずれにしても、

悟りや心や真理など、

人間がそれを把握できれば、ロボットに応用できるかもしれない。




ところで、

アイザック・アシモフの『アイ・ロボット』に、

「証拠」という章があります。


ここに登場する市長選挙の候補者で凄腕弁護士のスティーヴン・バイアリイは、

ものを食べたり飲んだりしているところを、誰からも見られたことがありません。

なので、

彼はロボットではないか、と

対立候補から疑われます。

人間なのか、ロボットなのか?

緊迫した描写が続く。ドキドキです。




[ 2017/09/24 16:00 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
ひとめぼれ
磯田多佳を知ったのは、

高島俊男著『お言葉ですが』9巻の「文ちゃん文ちゃん」

更に詳しくは『お言葉ですが』10巻の「祇園のお多佳さん」と「漱石祇園に病む」

を読んでから。


そして、この文中に、

うなるほどの名文 と書かれている『磯田多佳女のこと』(谷崎潤一郎 著)を読んで、

完全に心を奪われてしまった。


彼女は明治十二年(1879年)生まれ。祇園甲部の芸妓で、お茶屋『大友』の女将。

姉は祇園一力亭の女将おさだ。

場所柄、当時の著名な文人墨客に接し、通人粋人と交わる。

谷崎潤一郎、吉井勇など交流し、

平塚らいてうや鳩山春子と並んで 、著名な女性だった。

 中でも有名なのは漱石との関係。

どうも漱石は本気で惚れたらしい。

「春の川を隔てて男女哉」

なんていう句を残している。

歌は池辺義象、俳句は水落露石、画は浅井忠に学び、

地唄端唄が上手なのは当たり前だけれど、

舞よりも三味線が得意だった、とのこと。


お多佳さんは、お姉さんが亡くなった時に、

「紫陽花や 見るみる変わる爪の色」

という句を残しているけれど、アジサイが好きだったらしい。

そして、

お多佳さんに贈られた手向けの歌には、

あじさいの 花に心を 残しけん 人のゆくへも しら川の水 (谷崎潤一郎)

年ごとに 君がこのめる 紫陽花の 花は咲けども 多佳女世になし  (吉井 勇)

などがある。


容姿は、

谷崎も画家の津田青楓も、

お多佳さんは色黒で白粉気のない、特に美人というものではない。

と云っているけれど、

女の魅力は十分に聡明であれば、美人不美人にはかかわらぬようである

と高島は書いている。


谷崎の本を片手に、

お多佳さんを偲んで、祇園を歩きたい

というのが今の僕の夢。




[ 2017/09/25 16:54 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
笑ってみる
心は時間や空間の制限がないから自由。

思う世界を広げて、全世界全宇宙を想像することもできる。

その中には、

すべてのものが含まれていて、勿論自分もその中にいる。

そして、

その世界を縮めて自分の心の中に、全世界全宇宙がある、

と想像してみる。

すると、

当然のことながら、自分もその中にいる。

つまり、

心が作った中に、自分の肉体が存在しているということになる。

この心は本来、菩提心という清らかで美しいものなのだけれど、

それが自己の心身を形成していると考えて良い。


菩提心が宇宙いっぱいに広がり

宇宙全体がその中にある。

だから、

肉体も菩提心の表現である。



このように、

ものは思いようだから、

心はどのようにでもなるのだけれど、それが難しい時もある。

そういう時は、笑うのもひとつの方法。

言葉は、

少し寝かせてから、書いたり発言するほうがいい。

書く前、しゃべる前に笑う。



かつては笑いあっていたのに、最近はそれを忘れているなら、

笑ってみる。

コンビニのレジでも笑ってみる。

ひとりの時も、

空や海を見ても笑ってみる。無理やりにでも。

それを続けていると、笑うのが普通になる。

すると、

笑顔が、希望や自信や楽観的な思考に結びつき、

いくつかの困難に打ち勝つことができるかもしれない。





[ 2017/09/26 11:03 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
言亡慮絶 
「ごんもうりょぜつ」

と読みます。

言葉で表現することもできず、思慮も絶したもの。絶対の悟りの世界

のこと。 


信仰には、

神や仏が自分の外(どこか)にいて、それを信じる。

神仏は自分の心の中にいて、それを体験体得する。

の二種類があります。

前者は、

悪いことはしない、悪い思いは持たないようにして、善を求める。

後者は、

悪いこと、悪い思いは、善を反映させるためにあり、

どちらも真実である。

という立場をとることが多い。

 言亡慮絶は後者で体験する世界です。


いくつか引用すると、 

如来の奥地、さらに癈詮照潤の心地に開け、仏樹王の牙、始めて言亡慮絶の空性に生ず。(『大日経開題』) 


言亡慮絶の理をばすなはち言辞相寂滅に証し、悉有仏性の旨をばすなはち無一不成仏の句に成ず。(『法華経秘釈』) 


此の観に住しおわって、字義を失し、言亡慮絶して良く久しくして定を出よ(『不動次第』)

つまり、

瞑想修行は、言亡慮絶すること。


この悟り(言亡慮絶)の世界は、具体的にどういうものかを質問したことがあります。

恩師田中先生は、

広々として風通しの良い、仕切りの無い世界

光り輝き澄み切った世界

と云い、

K師は、

喜怒哀楽は勿論、楽も苦も、幸不幸も無く、全く波の無い寂静の世界

と教えてくれました。 

『華厳経』では、

成道(悟り)の瞬間を、

波が一切無くなって鏡のように澄み渡った大海、

に喩えています。


例えば、満月を観想して、

それが法界に周遍して、全体になれば形がなくなる。

そして、 唯明朗のみとなる。

そこには何もなく、身体も、心もない。

不生にして、虚空の如し。

何も無いから無分別で、妄想も無く、諸仏も姿はない。

無相(姿形がない)ならば、

思慮も言葉も亡失する。


覚鑁さんの『阿字観』には、病者の観法として、

此の阿字を観じさせ玉ひて、至極の場は、言亡慮絶とて、無念に成り候也

とあります。
 
つまり、

息絶える時に至っては、もはや阿字の真言も絶え、悟り(自心を知る)の理法を念慮することもなくなって、ただ無念無想法体そのものとなる、

だから、

何かを思わなくても、口を開けば常に自然と「阿」と発する、

これはまさに阿の真言を唱えていること。

ただ口を開いて呼吸をするだけで、それが阿字になる。

『阿』は宇宙の真如を現す梵字。



もうだめだ、オレは死ぬ

というような時、

世話になったな、今までありがとう

そういう気持ちになって、ただ口を開けて呼吸していれば、

言亡慮絶になる、ということで良いかな。



覚鑁さんの最期は『大悲の海に 覚鑁上人伝』によると、

眠るが如く薪尽き、入寂して燈消ゆ

と弟子の覚満が記している。

そして、

臨終の時がくると、病苦は止まったようで、

息を引き取るまで意識はあきらかで、

手に法印をむすび、口に真言を誦し、本尊の前に端坐のまま遷化した、

とあります。

そこは、言亡慮絶の世界だったのだろうか。





 


[ 2017/09/27 07:56 | Comments(0) | 眞天庵仏教塾・密教塾 ]



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