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[ 2025/03/17 16:39 | ]
後ろ向きで向上する
こんにゃくを焼いて食べよう、

と思いつき、タケノコと昆布と。



これからしばらく、淡竹(ハチク)が採れる。


野菜をたらふく食べたいと、息子が来たので、

野菜と豆腐の黄檗焼き、野菜スープその他諸々を作る。



寮の食事は野菜が少ないので、

コンビニやイオンで、

千切りキャベツやレタスを買って食べているらしい。

ファミマの袋入りがうまい、と云う。



それはさておき、 

法事の後で話をしていたら、

「南無大師遍照金剛」とは何のことですか?

と聞かれた。

弘法大師空海、お大師さんを礼拝する文句なのだけれど、

なぜ唱えるのだろうか。

お大師さん存命のころに、この言葉は無い。

お大師さんが唱えなさい、と云ったわけでもない。

入定後、

自分のことを、そのように呼び拝まれている、

とお聞きになったら、どうなのだろうか。


古くからの宗教では、

真理真如といったものは既に明らかになっており、

それらは経典聖典に書かれている。

だから、

どんなつまづきがあっても、その経典をひもとき、そこへ立ち返れば良い。

その経典を勉強すること、読み解くこと、

そこに書かれている内容を実践することが重要になる。

これは、

科学技術や社会が、前に向かって進歩発展開拓を目指しているのとは違い、

ずいぶんと後ろ向きの姿勢である。


『迦羅摩経』には、

ただの信仰心で私の教えに随ってはいけない。

私の教えが正しいかどうかを、自分で調べ解き明かしなさい。

と盲目的な信仰を戒めている。

論理的な矛盾や根拠の欠如があれば、受け入れるべきではないのである。


しかしまた、

存在や縁起、心の仕組みなどについて、

仏教は整然な理論をもっているけれど、

それが身体にしみこみ、

日常生活に帰結しているとは云えない部分もある。

頭の中だけにとどまることが少なくない。



「南無大師遍照金剛」と唱えることが、

本来持っている清浄な心を了解するようでなければ、益は無い。


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[ 2018/05/29 12:09 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
遠い目標
冷蔵庫に前日ゆでたお蕎麦が残っていたので、

フライパンでカリカリに焼く。

大根と人参を薄切りにして甘塩を振り、

山椒の葉を採って和え、そばに載せる。

 

ソバはナトリウムが多いから、

しかも焼いて陽性になっているから、

この程度の塩気で食べるとうまい。

最近は、あまり陽性にしたり、塩気が強いと身体がすぐに固くなる。



それはさておき、 

過日、千葉マリンZOZOスタジアムで、

ロッテ対オリックスの試合を観た。

ダッグアウト上の招待席で視界がよく、

何より周囲のファンが穏やかに野球を楽しんでいた。


毎年出かけるタイガースの試合では、

外野応援席のコアな席を取り、

応援歌、ヒッティングマーチ、ヤジが飛び交う中で、

大声をあげながら観ている。

観戦より応援の比重が高い。

同じ野球観戦だけれど、ずいぶんと違う世界に感じた。


 
ひとつのグループ内にいると、

そこで教わることが「人として」正しいのかどうかわからなくなることがある。

だって、他のことを知らないのだもの。



僕らの業界でも、

あるひとりの師に随い、他の意見思想を知らないままでいると、

真言密教の教学と師の理解が乖離してもわからない危険がある。

それで自他をしあわせにできるなら、まだ良いけれど、そうではないこともある。


多くの人と会い、話を聴く。

タイプの違う人が書いたものをいろいろ読む。

修行記や体験記などは最もよろしい。

そして、

自分でトレーニングして体感したことを、

それが適切なことなのか、理論通りなのかを、

また体験者と話したり、文献で確認する。


こういうことは時間がかかるから、

比較的長生きする生物である人間に向いている。

だから、

目標は遠いところにあったほうが、

人間には向いているかもしれない。





[ 2018/05/31 13:30 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
道草 聖心女子大学編
暑い日に塩気の強いものを食べた上、

発汗して排毒しないと、

身体が硬直して、より暑くなり、肩も凝る。

そんな時、

力強くグーを握ったまま、人差し指と親指のみ開放すれば楽になります。


それはさておき、

首都高2号目黒線を天現寺で降り、明治通りへ出て広尾一丁目を右折。

日赤の手前に聖心女子大学の正門がある。

大きな寺社のような旧 久邇宮邸の正門を抜け、

守衛所で入校許可証を提示。

たいていの大学はだれでもキャンパスへ入れるけれど、車は要許可が多い。

参道のような桜並木を進むと、左手に旧久邇宮邸御常御殿。

登録有形文化財で菊の御紋が輝いている。

学内には古い建物と新しいビルが共存している。

何といっても、緑が多い。都心なのに森の中にあるみたい。

木漏れ日が美しく、風が涼しい。

駐車場に止めて、荷物を整理していたら、何ヶ所も蚊に刺された。 


最近は文化祭のほかに、

公開講座やシンポジウムで、誰でも参加できる大学イベントがあり、

学生食堂なども一般利用できるところが多い。

大学は学府であり智の場所であるから、図書館が充実している。

これも学外者利用可能な学校がほとんどである。


今回は、

オーケストラクラブのコンサート、僕は写真係りのスタッフ。

場所は聖堂。

キリスト教の学校なので修道院がいくつもあり 、

うろうろしていたら、黒い聖衣で盲目の信者さんに道を訪ねられた。

もちろん、分からない。

聖堂は大きく美しい。



学内には聖書由来の絵がたくさん掲げられ、

お祈りや洗礼の情報版もある。

坐禅会のお知らせもあった。


コンサートが始まり、
 
ベートヴェンの序曲コリオラン

モーツァルトのディベルティメント、

交響曲35番ハフナー

女子学生らしい華やかで明るい演奏だった。 

丁寧でよく教育され、しっかりとした学生に接して、心晴れやかになる。


校内はカエデの新緑がまぶしい、秋にはさぞきれいなことだろう。







[ 2018/07/02 08:51 | Comments(0) | 道草 ]
相好・ブッダの望診
願いごとを書く護摩木と、

最後の行に願いごとを書く写経用紙と、

願いごとをイメーじするおみくじの用意をしながらちょっと考えた。

故人先祖の菩提も、自分の悟りも、他人の幸せも、

それらはみんな祈願です。

おねがいして、それをかなえるために工夫する。

自分の問題。

なのに、何か難しくしている部分があるような無いような。


それはさておき、

相好は仏教語で、仏の身体的特徴を三十二相八十種好という。

つまり、

仏の優れたありさまとふるまい、のこと。

一般には顔かたちのことをいう。

相はサンスクリット語のラクシャナ(lakşaņa)の訳語 意味は大きな特徴

好はアヌブヤンジャナ(anuvyaňjana) 、意味は 小さな特徴 


仏(ブッダ)の身体的特徴である三十二相は、

いくつかの経典にあるものを、後でまとめたもの。


内容は、

「カラダは金色で光がでている」

オーラですね。

「背後は光輝いている」

これが仏像の光背として表現されています。

「皮膚は細やかで繊細、清浄で汚れがない

 悪いにおいも垢もない、良い香りがでている」
 
極めて健康、ということ。

肌は腎臓の影響が現れますから、きれいで美しいのは、

腎臓(排泄)の機能がよく、たんぱく質を取りすぎていない。

「カラダは柔軟で潤いがある

 ケガ、きず、ホクロ、いぼ、こぶは無い」

「体毛は上にむいて右旋 色は紺青  光沢がある」

「頭のは肉髻層」

ポコンと膨れている。これは智慧の袋らしい。

頭頂は循環器系の様子が現れ、それが膨れている(丸い)のは情緒が安定している。

「髪の毛は長くて紺青色

緻密に生え、抜け毛やハゲは無い

良い香りがして 、一本一本が細く滑らかで光沢がある」


髪の毛は食生活の影響がよく現れるところで、

そこがキレイなのは、正しい食生活をしている証拠。


「額は広く、円満で平ら

 中心に白白毫があり、白い毛が一本、

 右回りで光を放っている」

これは慈悲の光ですね。


「眉毛は長く細く、柔らかい

 光があって潤いがある

 形は三日月のよう

 とても美しくあでやかで、紺瑠璃色」

 眉間に近いほうが幼少時、

目尻のほうが晩年の様子。

優しさが現れる。

髪は腎臓、

他の体毛は小腸のようすが現れます。

キレイなのは、そこの調子が良く、

腎臓が快調なら怖れがなく勇気があり(したがって他を攻撃しない)

小腸が良ければ、興奮せず落ち着いている。


「瞳は金色で、少し青味をおびている

 白目の部分と瞳の部分がはっきりとしている 濁っていない」

 これは重要なことで、

脳の機能が低下すると、白目と瞳の境がはっきりしなくなる。

「鼻は高くまっすぐで、穴が見えない」

これは姿勢が良い、ということ。

「唇の色は赤くて丹色

 光沢と潤いがある」

胃腸が良いのですね。

ということは

不安がなく

理解力同情心にあふれている、

ということ。

「歯の形が整い、真っ白で隙間が無い」 

「唾液は何を食べてもおいしい味に変える」

「声は自由自在、どんな人にも聞き取れる声

 余韻があり、美しく谷間にこだまするよう」


そのほかは、

次回に続く。


※お知らせ

1、7月7日施餓鬼供養(先祖供養)のお知らせ

2、8月4日お盆のお知らせ

3、ご祈祷のお知らせ

4、出張講座・教室のお知らせ

お参りに行けないけれど、供養祈願を頼みたい

というかたも、ぜひどうぞ。

5、心の調えかた:家庭での瞑想修行次第(pdf)

6、仏さまの拝みかた(pdf)

pdfが読み込めない場合はこちらからご覧ください。





[ 2018/07/03 11:22 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
続・ブッダの望診
『やさしい仏像の見方』(西村公朝 飛鳥園 編 新潮社)を参考に、

仏の三十二相と望診法をむりやり関連づける話の続き。


「両頬は膨れる 頬骨は出ない」
 
優しさの表現ですが、

脂肪と塩気の両方が多いと頬骨がでます。肝臓が固い陽性過多ということ。

肝臓が陽性過多ならイライラして忍耐力に欠ける。

魚の陽性の場合が多い。


「耳は厚くて幅広くて大きい

 耳たぶは垂れ下がる」

いわゆる福耳ですね。

たんぱく質、デンプン、ミネラル分が適量ならこうなる。

そして、耳が形良くきれいなのは腎臓機能が良い。

つまり排毒がスムーズなので、心身に汚れがなく、

恐れがないから他を攻撃しない。勇気がある。


「顔全体は円満で荘厳で満月のよう

 観る人が喜びを感じる表情」

三角や四角の顔を比べると 中庸な顔ですね。


「腕は長い」

直立して腕を下げると膝くらいまでありますが、

これは衆生を救うため。
 

「カラダの姿は丹精で、背筋がまっすぐ」

だから、鼻の形がよくなる。


「手の指は長い」

掌より指のほうが長いのは比較的陰性で、思慮深い。

反対に、指が短く相対的に掌が大きい人は、陽性で力強く活発。


「爪は幅が細く長く光沢がある

 指には水かきがある」

これも衆生を救うため


「指紋は深く長くはっきりしている」

最近はこういう人が極めて少ない。

これは陰陽のバランスが崩れているから。

指紋がきれいな渦を巻かず、流れているのは、その方向に身体が傾いている。




「仏の手相は生命線、頭脳線、運命線のみっつのみ」

これは興味深い表現です。

感情線はない。

意志力(生命線=消化器系の力)と智慧(頭脳線=神経系の力)

があれば、良い運命になる、

ということか。


「臍は穴が深く、丸みがある

「陰部は体の中に入っている」


「身体にある穴はみな清浄で円満、丸くて形良い」

生き物の身体でもっとも重要なものが穴。

必要なものを取り入れ、

不要なものを出すから。


「足は赤ちゃんのようにすとーんとした形で、偏平足」

これは安定を現しています。

「掌はふっくらと柔らかい

 赤ん坊のよう

 両肩の肉は豊かで丸みが在る

 手足は柔軟

 赤ん坊のよう

 美しく柔らかい」

赤ちゃんのように表現されるのは、

悩む前の自分、
 
汚れる前の自分が仏、と考えていい。そこに戻る。


さあ、自分の中に仏を探しましょう。

いくつも見つかるはず。

そこから出発できます。 



※お知らせ

1、7月7日施餓鬼供養(先祖供養)のお知らせ

2、8月4日お盆のお知らせ

3、ご祈祷のお知らせ

4、出張講座・教室のお知らせ

お参りに行けないけれど、供養祈願を頼みたい

というかたも、ぜひどうぞ。

5、心の調えかた:家庭での瞑想修行次第(pdf)

6、仏さまの拝みかた(pdf)

pdfが読み込めない場合はこちらからご覧ください。



[ 2018/07/03 15:31 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
角質

知り合いが何人もいる宴会の夢を見た。

会合、パーティー、儀式、お祭りなどの夢をみるのは、

脾臓膵臓胃、つまりお腹が不調なときである。


きゅうりをたくさん食べようと、冷やし中華にした。



他の具は油揚げとエリンギ、モロッコインゲン


朝ごはんで、とろろご飯が食べ切れなかったので、

きゅうりと一緒にトーストの具にした。




足の角質をナイフで削っていたら、

飼い猫が近づいてきて、うまそうに食べた。

動物の皮はご馳走なのだろうな。


胃が不調なときは、足の第二指が固くなったり角質ができる。

皮膚が固く成れば排毒が滞る。
 
それの原因になることをやめれば治るのだけれど、

面倒くさいからそのままにしている。

固いのは陽性だから、

陰性なキュウリやトマトは有効である。


良くない習慣は、心を固くする。

そうすると、心の排毒ができないから、苦しみが生まれる。

柔らかくすれば治る。

心の場合、笑ったり諦めたり、

悪習慣や執著をやめれば良いだけである。


角質はタンパク質で、

鳥のくちばしやウシやサイのツノも角質

だから、

角質があれば攻撃力が増すかもしれない。



仏教は、

ただ居る、

ただ在る、

だけで充実することを教えているけれど、

そうなれば、心身の硬さは取れる。




[ 2018/07/04 16:29 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
幸福論

豪雨等災害お見舞い申し上げます。

また、

被災地の安全とご無事をお祈りしております。



信州飯田も雨が続き、緑色が深くなっています。




ところで、

『ある市井の徒』(長谷川伸 中公文庫)は、

最近読んだ中でもとびきりおもしろかった。

著者は股旅物を世に広めた大衆作家、

代表作はもちろん「瞼の母」

弟子に池波正太郎がいる。


この母がすごいと僕は思う。


歌丸さんが生まれた色街の近く、

横浜日ノ出町の土木請負業の男に嫁ぐけれど、

夫が妾を家に連れ込み、伸が3歳のとき家を出る。

伸は、土方、遊郭の出前持ち、住み込みの走り使いや水撒き人足などとして働く。


母はその後、

三谷宗兵衛という裕福な商人と再婚し、

法学者で哲学者の三谷隆正、

外交官で侍従長の三谷隆信を産む。


社会の底辺と思われるようなところで生きる伸と、

エリート貴公子のような三谷兄弟。

その両方の母である。


一校の良心と云われた三谷隆正の遺稿に『幸福論』がある。

キリスト教に基づく考えかたで、

自己を棄て、

他者に自己を奉げるところに人生の幸福があるとする。

他者とは神のこと。


『幸福論』はヒルティのそれが著名だけれど、

阿川弘之は『エレガントな像』のなかで、

人が求めてやまない幸福の感情のなかには、
 
食の幸福感があるべきなのに、ヒルティ『幸福論』には、それが無い、

生き物が幸福な生涯を送るに必要な基本条件は、

食べたい時食べたいものを充分食べられること、その逆は不幸の始まりと考えている

と書いている。


確かに、

ああ、おいしかった、

という時は、ひとつの幸せである。

さらに、

誰かが、そう言ってくれればもっと幸せを感じる。

手作りの料理はもちろん、

外食でも、駄菓子屋で買ったお菓子ひとつでも、

人に食べさせるのは幸福である。

飼い猫にエサをやるのでさえ、幸福を味わえる。



僕はここ数年、

他人と食事をするのが苦痛で、

できるだけ避けている。

それは面倒臭いから。

食べたくないもの、

食べたくない時、

があるから。

しかし、

こういう僕の姿勢は、

誰かの幸福感を奪うことにつながっているのだろうな。


これは、まったく困ったことである。



[ 2018/07/07 06:41 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
略式の人生 1
平成元年(1989)の夏、

和歌山県中部の田舎町にある自然食品店へ行くと

これからハルマゲドンが起こるから、

まじめに修行しなければ生き残れない

と、店主らしきおばあさんが云いながら、

孫娘に昼ご飯を食べさせていた。

お弁当箱に入った冷たい玄米ご飯に、生卵をかけたものだった。

こんな田舎のおばあさんが、

と驚くとともに、とても奇妙な感じがした。


そこにいた若い男性は、台湾で修行をしてきたと云う。

その内容は、

高野山の僕らが一年かけてやることを一週間で行う。

なんだかすごいもののようだった。



平成2年(1990)

高野山での生活を終えた僕は、東京の小さな寺に世話になる。

密教の修行カリキュラムの中に加行があり、

それは262日を必要とするボリュームである。

高野山の道場では、そのうち90日程度を行う。

残り日数分をどこで行おうかと探していた時、

その寺が、

好きに使っていいよ、

と場所を提供してくれた。

262日+αの作法が終わる頃、

そこの住職が新しい寺を建てることになった。

都会の仕事や生活で疲れた人が、

心を癒やし、のんびり過ごせる寺にすると云う。

写経や座禅や精進料理などでリフレッシュして、また都会に戻ってがんばれるように。

ついては、アンタにその寺を任せたい。



建設予定地へ行くと、

そこは自然豊かな美しい土地で、目の前には富士山が大きくそびえていた。

ここであれをしよう、これもしよう、などと住職と話し合った。


そんなことを考えているすぐ近くで、

強大な施設が作られ始めていた。

サティアンと呼ばれ、

そこの人たちが世間を騒がすようになっていく。 

そして、

こんなところに寺なんて建てらない状況になり、

僕らの夢は頓挫した。


・・・続く、

[ 2018/07/09 07:46 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
略式の人生 2
平成12年(2000)の春、

個人所有の坐禅堂を

ご自由にどうぞ

と使わせてもらうことになった。

そこで

虚空蔵菩薩の修法をするために準備を始めたとき、

近隣の寺院から横やりがはいった。

あいつはヘンなヤツだ。

拝むなんて、修行なんて、余計なことをしている。

オウムみたいなやつかもしれない、アブナイぞ。

と所有者に圧力がかかり、

そこは使えなくなった。

僕は関係ないのに。

ただ、拝むだけなのに。 


平成23年(2011)、

我が家は福島県郡山市で被災した。 

講演会お話会座談会その他で会う人の中に、

僕らを非難攻撃する人たちがいた。

あんたが福島に住み続けるということは、

原発は安全だ、ということになる。

それはまったくけしからん、

ということらしい。

僕らは関係ないのに。

ただ、住んでいるだけなのに。


オウムと原発政策

そこには、

全体を理解することができない人が集い、

略式の思想が充満しているような気がする。






[ 2018/07/10 07:42 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
略式の人生 3
先週土曜日に施餓鬼法会をつとめた。

この中で拝むのは施餓鬼の略作法である。

なぜ略式なのかといえば、

時間と環境の点で、正式なものを行なうには無理があるから。


葬儀も略式である。

フルサイズの葬儀(引導作法)をすると、おそらく三日くらいかかり、

人手もずいぶん必要である。


日々の行法でも、

急ぎの時や旅先など用の略作法が、

『秘蔵記』などに説かれている。



世間でも、

時間的経済的な点から、略式の作法をすることは少なくない。

略式とは、

正式なもののなかから、エッセンスを抜き出してコンパクトにまとめたものである。

なので、

略式では、なぜそうなるかが分からない、省略されている。
 

料理でも、略式のものもそれなりにうまいけれど、

正式なものに比べればちょっと劣る。

そもそも、

正式なものを知らなければ略せないはずである。

だから、

略式しか知らないのは、何も知らないのと同じ。 

略された部分の理由を知らなければ意味はない。

理由を知らない、ということは、危険を伴うことがある。

 
ところで、

煩悩とは迷いのことであり、迷いは無知から生まれる。

だから、

真如真理を知れば苦しみから解脱し、迷い煩悩は智慧に変わる。

これは理論であり、

思いやりと優しさをもって行動する、

という実践と合致することで、

心は平安になり、自他を救うことが可能になる。


理論を勉強する際も、実践面でも、

自己批判自己反省が足りないと、錯覚、妄想、勘違いに気がつかない。

これでよいのだろうか

本当だろうか 

論理的に破綻していないか

誰かを笑顔にできているだろうか

あなたは安心と平安を得ているだろうか


自分で判断できなければ師や先輩に聴く、

過去の文献で確認する、

そしてまた考え実践する。

この繰り返しを、略してはいけない。

 略して自分を正当化すると、

自分独自の危険な思想ができあがる。



理論と実践

智慧と慈悲

を両立させよ、と仏教では説いている。

その根底に、

他人を見ることは、自分もしくは自分の大切な人の如くせよ、

と『戒序』にある。



[ 2018/07/11 13:03 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
Return to the point of origin or departure
ネコは一日の大半、瞑想している。




不安や怖れがあるとき、

イライラ、ドキドキするとき、
 
押しつぶされそうに苦しいとき、

思い通りにならないとき、


そういうことを思う前の心に帰れば、何とかなるかもしれない。

もともとのキレイで混じり気の無い心に戻れば。


ちょっと坐ってみましょう。イスでもよろしい。

背筋を伸ばして、坐禅です。

ポイントはみっつ

1、掌は上に向ける

これで骨格の余計な緊張が取れる。


2、口を閉じ、舌先を上顎につける

これで睡魔、怠惰、邪念から離れる。


3、頭頂に1キロ程度の重さの座布団などを載せる

これで丹田に力が集中する。

 
そして、鼻からゆっくり呼吸するだけ。
 

心を開放し観察する観想は、いくつかのパターンがありますが、

最初は難しいので、

好きな人や憧れている人のこと、など楽しいことを思うだけで良い。


暑いときも、暑いだけになれます。



[ 2018/07/12 09:22 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
暑くなりまして、

どんどん採れるのでいくつか作りました。


夏野菜盛り込み



夏野菜トースト




夏野菜のスープ



バジル漬け



茄子利休焼き

作りかたはどこかに書きます。

野菜をたくさん食べましょう。







[ 2018/07/13 06:08 | Comments(0) | 穀菜食の舎 ]
矛盾
これをやったら

もしくは

これをやらなければ、ここにはいられない

ということがある。

これはやりたくない、

自分の生きかたに反する

理不尽でおかしい
 
しかし、やらなければこの組織にとどまれない 。

やめてしまえばよいのだけれど、それができない。

これは苦しいですね。

こういうことは、会社でも学校でも部活でも町内会でも政治の世界でもあるでしょう。

もちろん、宗教にも。

 

オウムという団体は何を拝んでいたのだろうか。

本尊はあるのだろうか。

wikiにいくつか書かれていた。


最終地点まで導くグル(霊的指導者)の存在

というのはお笑いだけれど、

教義に無常観があり、輪廻転生も信じられているよう。

これは矛盾である。


無常は仏教の基本。あやゆるモノは変化している、ということ。
 
コップでも「私」でも変化しているから、

一瞬前のコップや私ではない。

川の水が流れて、常に新しい水が「そこ」にあるようなもの。


とうことは、コップとか私には、絶対に変化しない自性実体が無い、ということ。

宇宙でも時間でも、

「これが”宇宙”だ」

「これが”今”だ」

というものを取り出すことはできないのは、無常だからである。


輪廻転生は生まれ変わり。

教祖にはいろいろ前世があったらしい。


無常ならば輪廻転生しない。輪廻する主体が無いのだから。

そもそも、

存在苦しみなどの、

やらなければならない、などの、

無常無我を悟ることが、迷いからの解脱悟りである。
 
迷っているから、

怒り貪り嫉妬無知の世界を輪廻する。 

それに、

もし「私」という主体が存在するなら、

それは不変なものか変化するものか、どちらかである。

不変であるなら「私」は決して生滅せず、永久に輪廻を続けるから解脱できない。

変化するなら「私」はいずれ滅びてなくなるので輪廻は成立しない。


輪廻転生はあったら面白いけれど、

それと無常とは絶対に矛盾する。


無常であるからこそ、大切なのは心のあるようである。

勇気、忍耐、落ち着き、

同情慈悲、他人を理解しようとすること、
 

ところで、

三密行によって速疾に成仏するのが、密教の目的である。

三密行には次第があり、それに随って修法するのだけれど、

続けていくうちに、なぜこうするのだろうか、と疑問がわく。

そうすると原典を調べる。 なるほど、元々はそういう意味なのか、と理解する。


仏教の作法には如来菩薩明王などの仏さまが登場する。

次第の文章だけではイメージがつかめないけれど、仏像や仏画で表現されているので、

それらを文献や、各地の寺にまつられているものを観る。

ああ、こういうことだったのか、と理解する。
 
言葉ではわからなくても、モノを観ればわかる。

つまり、

やることが決まっていても、自分で疑問を解決しながら前進する。

こういう工夫が無く、妄信するだけでは何も解決できない。


これはカルトに限らず、

原発賛成もしくは反対運動でも、

部活動でも政治でも何でも、

同じである。



[ 2018/07/14 06:14 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
現代医学では分からないこと

陰陽研究塾の記事 85   

現代医学では分からないこと
  





 

[ 2018/07/17 07:00 | Comments(0) | 陰陽研究塾 ]
風心
エゴマの葉が繁ってきたので収穫して精進揚げ



衣は地粉とリブレフラワー同量

こうすると失敗が少なく、油をはじく。



竹炭粉を入れた夏野菜カレー

炭素はとても陽性、

なので適度に摂ればお腹が冷えない。

 
それはさておき、

檀家というのは寺または本尊のファンクラブと考えれば、

その御宝前で行なう坐禅瞑想はゲームである。

ゲームだからルールがあり到達点がある。

これは、なるべくぼんやりするのがいい。

あれもこれもとせず、どちらかといえば何もせず、大切のものをみつける。

宝探しである。


ファンクラブの特典として、

宝探しゲームに参加できる。


その場所はもちろん自心中。


せっかくだから何かしないと損をしたような気になるのが世間だけれど、

何もしないと不安になってしまうこともあるけれど、

人間は動物だか動くことが適しているのだけれど、

ただぼんやりする。

これは結構難しいもので、ただ坐っていることに耐えられないこともあるかもしれない。

スマホも触らない。


暑いけれど、時折悟りの風が吹く。

心の窓を開ければ、風が入る。

その窓の鍵は、宝探しである。

風と心が一つになった時、

一切の苦悩が消える。



[ 2018/07/17 08:04 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
古本屋
土門拳『古寺巡礼』小学館  全7冊



表紙背中にキズ破れ日焼けがありますが

本文はキレイです。

どなたかもらってください、差し上げます。

送料着払いで送ります。


こちらも、もらっていただけるとありがたい


[ 2018/07/17 17:21 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
夏の料理
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[ 2018/07/18 07:52 | Comments(0) | 穀菜食の舎 ]
脳談義
油が余ったので利休茄子




昔読んだ本に

坊さんは数珠を擦るが、

それによって掌のツボを刺激するから健康的である、

というようなことが書いてあり、

へえー、と思った。数珠を擦るのは、あまり品の良いものでは無い。

それよりも、

掌と指ををうんと反らすことができれば、動脈が硬化していない証拠であり、

親指の力が強くれば、肺が強いということだから死なない。

手首の骨が癒着していると脳が硬化して働きが悪くなるけれど、

打撃線をよく叩けば、手頚の八個の骨が癒着せず、自由に動くようになる。

すると、

物事の判断見通しがよくなる。

さらに、

足先と足首が固いと、脳の血行が渋滞しトラブルを招くから、柔らかくするとよろしい。  


 
この脳には、あらゆるものが含まれている。

過去現在未来総ての時間

全宇宙の全空間が入っている。

あの世、来世、霊魂、死後の世界、先祖、ウルトラマン、仮面ライダー、

地獄餓鬼畜生天国極楽、

それらは総て脳の中にある。

脳の中には亡くなった人がいて、供養すれば成仏する

などという理屈も脳内にある。

悟りも迷いも、好きも嫌いも脳の中にあり、

僕らが認識する限りにおいて、

脳の外には何も無い。


興奮するか落ち着くか

楽しくなるか不安になるか

安心するか悲しいか

勇気があるか、恐れおののくか
 
耐えるか、キレるか

これらも脳の中でのことであり、

脳内を流れる血の質で変わる。

その質は、

血を作る食べ物を始め、

呼吸、睡眠、精神状態、運動、休憩、

対人関係、自然環境によって変化し、

それによって、

無我になれるか、執著するか

と分かれる。 


言葉遣いひとつでも、

脳の血の性質が決定される。

そして、

僕の脳内にあるイメージは僕流のものだから、他人には分からない。

何とか言葉で調整することは出来ても、

あなたのイメージとはおそらく違う。

たとえば、

1000年前の飯田市立石寺門前で、

若い男女が手を合わせて祈っている、

その風景は、

僕の脳に在るのと、あなたのとではずいぶんと違う。

そして、

僕以外に見えないものだから、事実かどうかは何も証明できない。

多くの場合、

脳内で想像し、創造して、それを方便にしている。

証明できない世界をコトバで言いくるめているのが現実である。


そのとき

嘘か本当か、
 
思いやりがあるか、損得勘定か

それらは顔や手に現れる。


縁起の大本が脳にあるといって良く、

脳の中にあるからこそ議論し、その意味を追求することができる。

無いものの話をすることはできないのだから。 


できることなら、


その脳内イメージで、

生きる力、勇気と希望が生まれれば素敵である。

そして、

事実ではなく、脳内の世界なのだから、

冷静に理論的バックボーンを調えなければならない。





[ 2018/07/18 09:24 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
Be Kind To All Life
『Shingon Esoteric Buddhism: A Handbook for Followers』(1997)

をパラパラめくっていたら、

Be Kind To All Life

という言葉があった。

どういう意味なのかと思って読んでみると、

高野山のスローガン「生かせ いのち」の英訳なんですね。

みんながしあわせに

ということですが、

その根底には、

総ての存在はすばらしい、尊い価値を持っている、

という、お大師さんの思想があります。

どんな石ころでも雑草でも、

その中には宝石の原石や薬草の成分があるように、

貴重で素敵なもの。


 
総ての人は仏のように素晴らしいけれど、

いろいろ事情があって、または迷っていて、

困ったことになっているようなこともある。

迷っている苦しんでいるのは執著があるから。

でも、本来は清らかで美しい。

そして、

精神的にも社会的にも平等平等である。


そういう気持ちがあれば、

生かせ いのち になる。



当山本尊十一面観音には11のお顔がありますが、

慈悲深い、優しさと思いやりに満ちた顔

ちょっと道を外れると叱ってくれる顔

がんばれば応援してくれる顔

悪戯やウソをつけば、

コラコラと注意修正してくれる顔

それらの顔を持てるバックグラウンドには、

常に真如を追求する姿勢がある。



いろんな顔で僕らを見守り包む。

それぞれが慈悲のカタチで、

それも「生かせ いのち」


上記本には、お大師さんの言葉がいろいろと英訳されて、

それがとても美しい。

生かせ いのち

を象徴するお大師さんの言葉は『性霊集』にある、

When the sky no longer exists,

when all living beings have reached enlightenment, and

when Nirvâņa is expended,

only then shall my vow be completed,


[ 2018/07/19 11:05 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
心うきうき
この歳になっても上京の予定があると心がウキウキする。

今日は恵比寿、来週は池袋に用事がある。

東京には貨物専用線が多く、

用事の合間にそれを訪ねようと考えればまた、ウキウキする。


加藤純章博士は、

いろは歌「うゐの奥山けふ越ゑて」の「うゐ」はこの有為であり、

つねに変化してやまない迷いの世界を表している

と『日本大百科全書』に書いている。


宮坂先生の『暮らしの中の仏教語小事典』「有為」の頁には、

有為の奥山今日越えて、

この有為は「憂(う)い」と音の通づるところから、

憂いの多いこの世、という意味に解される。

憂き世は、江戸時代には浮世と書き、この世を意味し、

浮きうきしている世の中ということで、

当世風、色事、好色の意を表すようになった

とある。




有為はサンスクリットのsaṃskṛtaで、

「つくられたもの」「この一切の現象世界」のこと

無為はasaṃskṛtaで、「つくられないもの」「絶対の真理」

この有為無為の「為」は造作のことで、

有為は造作あること、原因と結果の因果因縁という造作のあること。

無為は、因縁所成の造作がないから、真如実相。


仏教ではあらゆるものを有為と無為の両面から考える。

現実と真如の両面から観る、ということ。

有為の立場から見れば、

あらゆるものは生滅変化しているから始めがあり終わりがある。

永遠不滅のものは無い、と云うのが有為からみた真理。

しかし、

あらゆるものが生滅変化するということは、

そのもの自体の本性がないということだから、

総てのものは生まれることも滅することもない、不生不滅である、

というのが無為の立場の真理。


僕らの心や身体も、

有為の立場では、生まれて変化して死ぬものだけれど、

無為から観れば、

本来不生不滅で、だから、他との妨げが一切無く、総てと相応瑜伽している。

これが即身成仏なのだけれど、

心がウキウキするのは有為の世界だから、

無常で、生滅のある世界。

しかしながら、

心もウキウキも空だと知れば、

それは不生不滅の真如悟りの世界である。

 

[ 2018/07/21 07:58 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
静座念光
納骨をして墓前で拝む。

墓地は暑いですねえ、

と、みなさんが云う。

帰りに寄ったガソリンスタンドの店員に、

暑いねえ、

と言ったら、

ここはコンクリートだからまだマシですよ、

アスファルトは堪らないです

と云う。

へえー、そんなことは気にしていなかった。

コンクリートは放射性同位元素を多く含 むから、放射線量が比較的高くなる、

というのは、あの日以降、知っていたけれど。


それはさておき、

お盆の前にお墓参りをするところは多いでしょう。

ご先祖様を迎えに行くとか、

家に来てもらう準備をする、

ということかもしれない。

いろいろ風習がある。

ご先祖さまは、お墓にいるのか、

極楽にいるのか、それとも仏壇の中か、

と考えれば、心の中にいる。


水に映る月のように、

水面の数だけご先祖様は映る。

心の水鏡がきれいなら何でもよく映る。

その鏡を磨いて、よく見えるようにするのが修行。


祈りの基本は自分の内側に懺悔し外に感謝する。

お墓はそこにご先祖さんがいるように感じられるから、

懺悔感謝しやすい。場所の力がある。

故人に対する自分の行いを懺悔反省し、

故人の言動に感謝すれば、

同じように現在生きている人にも、

それができるようになるかもしれない。

場所に関わらずそれができるようになれば、

自心は平安になる。


懺悔と感謝によって今の自分の生活がより良くなり、

健康で楽しく仲良く立派に生きていれば、

ご先祖さまも、生きている家族友人も喜ぶ。

故人のため、

というのはそういうことで、お経を唱えるだけでは供養にならない。



供養はその相手を尊敬することですが、

供養の最大は菩提心を発すること。

誰でも懺悔反省すれば仏になれるのだから、そうしようと勧めること。

誰でも仏なのだから、軽んじないこと。

例えば、わがままな心から優しい心に変わるように、

怨みねたみが慈悲深い心にかわるように、

子どもの考えかたが大人の思考に変わるように、

心は変化するから固定した実体はない。

だから執著せず、より良い心を目指すこと。

そして、

ご先祖さんにも有縁無縁の縁者にも、

懺悔反省できるよう、何でも映るきれいな心になるように観ずる。

その方法は、

「 息を調え心を鎮め清く妙なる光明を念じながら、

 息の自然の出入りとともに静かに徐に遍照無碍の霊光を心身全体に呼吸する

 心おのづから霊光と融合して明朗の一念に安住す」

と『大日の光』にある。






[ 2018/07/23 08:00 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
苦い野菜

陰陽研究塾の記事 8

苦い野菜
  



 


[ 2018/07/23 19:09 | Comments(0) | 陰陽研究塾 ]
不調が治るしくみ
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[ 2018/07/24 10:43 | Comments(0) | 穀菜食の舎 ]
道草 亀戸辺り編
人生は旅である、

などという文章を見たことがあるような無いような。
 
お大師さんは、

「迷いの世の人々は

 あたかも宿屋における客の如くである

 しかも、その人々の一心こそ、

 仏の本心にして本来の住居である」

と『秘鍵』で云っている。

人生は旅、ということになるだろうか。


ちなみに、一心とは、

自分のことしか見ない心ではなく、

すべての人の楽しみも苦しみも、宇宙全体を観る心。


それはさておき、

いつもと違う道を曲がれば、それが旅の始まり。
 
普段は東武伊勢崎線が乗り入れる半蔵門線で錦糸町まで行き、

JR総武線に乗り換えるのだけれど、

過日は曳舟で降り、東武亀戸線に乗り換える。



全線3.4キロ、途中駅みっつの短い路線。

日中でも10分ヘッドで走るのはやはり都会である。


途中の東あずまで下車。

「東あずま」は東の東ではなく、東の吾嬬町(あづまちょう)



赤いのも黄色いのも、

東武のリバイバルカラー塗装。他に深緑色がある。


終点亀戸でJR総武線に乗り換え、いつもの道程へ戻る。




別の日、

亀戸駅から明治通りを新木場方面へ歩く。

小名木川橋で待っていれば、

やってきたのはEast-i-D



信号、通信、軌道などを測定する検測車、ドクターイエローの仲間。

ここは越中島支線という貨物線で、

通常は越中島貨物駅へレール輸送の貨物列車が走る、非電化(ディーゼル機関車)路線。



線路沿いの一部には、南砂線路公園があり、
 
一日3往復の貨物列車が見られます、

と看板にある。 


今回のこの列車、

新小岩発12:21→越中島貨物駅着12:29で、
 
帰りは13:42発と思っていたのに、すぐに折り返してきた。



この締川踏切に戻ってきたのは13:03 

鉄道ダイヤ情報に載っている時刻とも違う。どうなっているのだろうか。

何かミステリーに使えるかな。



仕事帰りの僧形で、荷物も多く、重ね着しているからとても暑い。

歩く元気がなくなったので、都バスに乗って東陽町駅へ。

そこから地下鉄で帰る。


今年の夏は暑いのに、

キレイな青空と入道雲を見ない。

夕立が懐かしい。







[ 2018/07/26 14:52 | Comments(0) | 道草 ]



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