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慈悲の力
「優しさと思いやり」という慈悲の心によって、

心は平安になり、

それが「しあわせ」な心であるから、

慈悲は、

自分が「しあわせ」という恩恵を受けることにつながるはずです。

しかし、

津田真一博士の『和訳 金剛頂経』(東京美術)には、

大乗仏教の本質をなす利他行(他人を助け救うこと)では、

苦しんでいる相手に対する慈悲の働きかけが基本だけれど、

この慈悲は、

心とは何か、人間とは何か、生きるとは何か、

ということにも、

ブッダの悟りにも、

その根拠を有していない。

慈悲は、

あるべきものではなく、選択されるべきものである。

とあります。


確かに、お釈迦さんが、

苦行の末に、菩提樹下の瞑想によって成道したことを考えれば、

そこに慈悲の行いは無いかもしれない。



津田先生は、
 
苦しんでいる他者を目の前にして、

慈悲を選択しても、しなくてもよい。

ただしその場合、

慈悲を選ぶなら、苦しみを抜き楽を与える実践を一生の間、行わなければならず、

慈悲をとらないなら、人間的な愛を断念しなければならない。

と続けています。


大乗仏教では、

悟り(成仏、菩提)のために、他者の苦しみを抜き楽を与える、

慈悲の集積という修行が必要です。

そして、

慈悲の行いを常に行なうためには、

一瞬もとどまらず変化している自分の心の現状を分析し、

空や縁起の理解によって、乗り越えなければなりません。

苦しくて悩む心を乗り越えなければ、他者を救えないから。

その、心の変化を如実に知る過程が人生です。


しかし、

密教では瞑想と真言により、

絶対的な真理とその場でヨーガ(相応)しようとするのが修行です。

これを即身成仏と云い、

ここに慈悲は必要無い。


なので、

真言宗徒の理想は即身成仏にあるのではなく、

それとは対照的な大日経の三句にある、

と津田先生は『仏教経典散策「金剛頂経」の頁』に書いています。

三句とは、

仏の智慧は、

「菩提心を因とし、大悲を根とし、方便を究竟とす」

この菩提心が、ありのままに自心を知ること。

それが因になって、他者への思いやりとやさしさが生まれ、

慈悲の行為が究極の目標である、ということ。


ところが、

金剛頂経の密教では、

瞑想に入りさえすれば心中に金剛界マンダラが現れ、

瞑想の手段を経れば、大日如来と相応します。

瞑想修行によって、

実際的な行動ではなく、心に対応する実在界を変化させることができる

という立場なので、

慈悲や助けは必要無いし、規制も倫理性もありません。


大乗では、

自分の行為と、その結果の連続が人生であり、

大日如来(悟り、清浄な自心を知ること)に向かって歩き続けます。

その歩みを止める時、悟りは消滅する。

しかし、

密教では、

一気に頂上の平地に坐ります。

かように、

大乗仏教と密教には、両立しない大きな相違点がある。


村上保壽先生は『弘法大師の救済論』の中で、

救済のための修法は仏、行者、衆生の三平等が原則(これがヨーガにあたる)で、

これを修法する行者は、正しい行者でなければならない。

正しいとは「三昧耶戒」の精神に立っているかどうかにある。

と書いています。


三昧耶戒の中心のひとつが、大悲心。

その心があれば、

総ての人は我が最愛の子と同じだと想うようになり、

一切衆生を自分自身とも思うことにもなる。

自他が平等になる。

そうすれば、

一切の悪は滅び、心は清涼になります。



先の話に戻れば、

菩提樹下の瞑想(ヨーガ)中、

ブッダの心中は慈悲にあふれ、

それによって悟りが得られた、

と考えることができます。






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[ 2017/10/20 14:07 | Comments(0) | 眞天庵仏教塾・密教塾 ]

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