「我」と云うのはずいぶんと大きい。
想像するだけで際限がない。
そこには、良い面もあれば、そうでもないところもある。
その我が、
貪り欲望に目がくらんで苦しみにあえば、
布施という修行でその欲を剥ぎ取る。
怒りのために迷い苦しみがあれば、
耐え忍ぶという修行によって怒りを消す。
自分中心のために、他と比較するために、悩み苦しみが生まれれば、
禅や精進という修行で治す。
こういうことは、熱のある時に飲む解熱剤のようなもので、
対症療法に過ぎない。
それに対して、
病気にならないような身体を作る、
病気になりにくい生活をする、
という方法もある。
『秘蔵記』16には、
「諸仏は法界身であるから、我が身は諸仏の中にある
我も法界身であるから、諸仏は我が身中にある」
とある。
法とは、地・水・火・風・空・識の六大
界とは蔵
つまり宇宙全体のこと。
そして、
「よくこの観をなして、諸仏を四明によって自身に引き入れる」
四明は四摂とも云い、
北尾克三郎氏は
「知覚のかぎによってとらえ
それを神経の索によって引き寄せ、
イメージの鎖につなぎ、
感情の鈴を打ち振る」
と訳している。
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つまり、
本来みな仏で在る、
という、あるがままの性に心をすえる。
自分が仏になれば、
自分の心は仏心だから、貪りも怒りも無知もない。
ついでに
仏身になれば、病気もない。
体質改善、心質改善をする、
ということである。
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