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葬儀の本尊
仏教は生きている人が成道、成仏、迷いを転じて悟るためのカリキュラムをたくさん持っていますが、

それをお葬式に応用しているので、ずいぶんと無理があるようなところがあります。

その辺が、葬式仏教の根本的な問題かもしれない。


それはさておき、

一般のかたはお気づきにならないかもしれませんが、

葬儀会場では、宗旨宗派に合わせてご本尊(仏像やお軸)がおまつりされています。

祭壇の上にご本尊さんがあり、その下に故人の遺影とお位牌、そして棺。

でも、多くの会場ではそのご本尊さんが小さくて、よく見えないこともある。


通常、仏教の儀式では本尊が主役です。お寺もそう。坊主は主役ではない。

仏壇も主役はご本尊さま、位牌ではありません。

会場によってはご本尊さんはなく、故人の遺影と位牌に向かって拝むこともあります。

寺院が経営している斎場では、ご本尊さんが固定されているところもある。

真言宗の場合は大日如来がおまつりされることが多いですが、あれ、どうなのでしょうね。


そもそも本尊とは何かといえば

『秘蔵記』に、

「我が本来自性清浄の心は、世間出世間において最勝最尊なり。故に本尊という。

また已成の仏の本来自性清浄の理も本尊という」

とあります。

自分の内なる心を外に表現したものが本尊

真言密教では、

総尊として法身大日如来をたて、他に無量の別尊を立てます。

社長が大日如来で、

そのほか、取締役や部長課長といった役割の仏さまが大勢おわします。

阿弥陀さん、お薬師さん、観音さん、お不動さん、お地蔵さんなど。

大脳が大日如来で、

身体の器官臓器それぞれがいろいろな仏さまみたいなものかな。

でも、みな大日の働きのひとつだから、

どの仏さまを本尊としても、大日如来を拝むことになります。

 
そして、

大日如来はダイナミックな原理で、この世界は大日如来そのものともいえます。


さて、

葬儀は故人を仏道修行者にする出家受戒作法ですから

その本尊はどうすればよいのか。 

悟りを体験している人の弟子になって教わるのですから、

お釈迦さまでも大日如来でも、どの仏さまでも良いでしょうね。



僕らは生きている間に、得度式という出家受戒作法を受けます。

高野山大師教会の集団得度式では、
 
本尊は弘法大師

その脇に不動明王と愛染明王


次男が得度した高室院では、大師堂で得度式

いずれも、受者は准胝観音の真言を唱えます 。


中川善教先生の得度式次第には

「近来の最略作法では

准胝仏母の本尊は掛けず

多くは大師御影なり 」

とあります。 


准堤観音を本尊とするのは、

「度場本尊準堤仏母等記」に、

準低仏母の本誓が剃刀三昧出家得度

とあることによる。

これは準低陀羅尼経などが由来。


真言宗の葬儀作法(引導作法)では、

不動明王の徳を讃じて、亡者の滅罪を祈る

とされています。

これは、

『二巻章』や『金剛峯寺年中行事』によります。

棺の後ろ中央に不動、左右に両界曼荼羅

とかかれている。

いずれにしても、

拝む人と故人と参列者と本尊が

まったく平等である、という心で拝まなければ

故人も残された人も、成仏に近づくことはないでしょう。



葬儀は、いのちを送る儀式です。
 
故人のいのちだけではなく、つながっているもの、流れるものを拝む。 

遺族親族の心が悟りにつながるように拝む。

大いなるいのち(大日)を拝む。それは僕のあなたのすべての命と同じだから。 

送るいのちも、送られるいのちも、違うものではないから。 






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[ 2016/12/17 16:05 | Comments(0) | 眞天庵仏教塾・密教塾 ]

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