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差別と平等
政治学者の京極 純一著『文明の作法』(昭和45年発行) に、
 
「明治このかた日本を動かしてきたひとつの底流は、人間平等の信仰である。

しかも、日本の平等主義の背後には、個性と多様性の信仰ではなく、万人同形同質の信仰がある。

中略

万人が背広とマイ・カーの制服でひと色になっても不思議はない」

とある。

これを読んで、いろいろ考えた。


ウチには三人の子がいて、

それぞれ体質も性格も得意なものも違う。全く違う。

当たり前である。違う人間なのだから。 

それは、

妊娠していた時期が違う、

その時に母親が食べていたものが違う、

育った環境、周囲の人間関係が違う、
 
氏は同じだけれど育ちが違うから、違う人間になる。

その違いを僕は好ましく感じる。


違うけれど、同じ子であり、平等に気をもみ、心配する。

三人とも、

できることなら、元気で仲良く、暮して欲しい。

その思いは平等である。



先日、

大阪から帰るときに、

僕は「のぞみ」ではなく「こだま」に乗った。

そのほうが長い時間乗れるから、ゆっくり眠れる。

空いているから気分が良い。

同じ新幹線だけれど、違いがある。

でも、

同じように東京へ着くのは確実である。


もし、

何もかも混ぜ合わせて、同じようにして平等

と考えていたら、良いことは無い。

そう考える人たちが戦争をおこして来た。


差があるのは存在として正しく、重要なことなのである。


もちろん、

その差に上下貴賎善悪の意味は無い。

差があるけれど、存在としては平等なので、

優しさと思いやりが生まれる。


仏と僕は平等である。

けれど、

仏と僕は違う、レベルが違う。

それを、

平等だから、僕と仏は同じだと思ったら、

オウムのようになってしまう。




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[ 2018/10/30 18:00 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]

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