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智慧と慈悲
お坊さんの集まりに出席して、いろいろ話を聞iいた。

仏教とは何か、寺はどうするべきか、

いろいろな意見があっておもしろかった。


ダライ・ラマがどこかで書いていたけれど、

チベットでは儀式ばかりして、仏教とは何かという勉強をおろそかにしている僧侶が多い。

勉強しないで修行しても無意味である、

と。

そういうことは、仏教に限らず、どんな社会でも同じかもしれない。


それはさておき、

『宗秘論』に、

球を持てば善念生じ、剱を把るは殺心の器

とある。

同じように、

合掌すれば拝む心になる。

袈裟をつければ拝む心になる。

お墓参りに行けば、仏壇の前に坐れば拝む気持ちになる。

いやいや、

恰好なんて、持ち物なんて、場所なんてどうでもよいのだ。

拝む心さえあれば、どこでも何でもよいのだ

というものでも無い。

形を調えたほうが、濁りが減る。

どこでも拝めるけれど、場所を利用すれば、場所の力がある。

道場で拝むほうが拝みやすい。

そうして、

純度が高まれば、文殊や不動のように、剣を持ってもそれは殺心の器ではなく、

煩悩迷いを断じる智慧の剱となる。


墓前や位牌の前で合掌すれば慈悲の心が生じる。

勉強すれば知識が増えて知らないことが減り、迷いが減る。

これによって心の平安が訪れる。

これは、

どちらか一方ではいけない。


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[ 2017/05/28 07:59 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]

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