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言葉という行為
昨夜は満月を見ながら運転しました。

空がだんだん暗くなり、

月は少しづつ明るくなる。

きれいなものです。


月を観る時 

僕らは、月そのものを見ているのではなく 

「月」という言葉の意味を見ています。
 
その言葉の意味を本物の月に与えている。
 
すると、月は常住で普遍的なものになってします。

それは空(くう)や因果の法則の原理に反し、事実では無い。


『中論』第十八章第五頌には、
 
人は行為と煩悩が無くなれば解脱する。

行為と煩悩は思惟にもとづいて起こる。

後者は言語的多元性より起こる。

多元性は空性を会得したときに滅する。

とあります。

つまり、

空の理論では、 

言葉とその対象との結びつきは否定されます。
 
言葉の対象(今の話では「月」)は言葉の意味に他ならないから、

言葉の無意味性を主張し、
 
沈黙の重要性を空論では説きます。 



密教では、

象徴と象徴されるもののの一致 

(仏と自分の相応)

を目指します。

似ているものは同じものである 

なぜなら、

全ては如来の三昧耶(象徴するもの、変身したもの) 

全ては如来(仏)と考えるからです。


ですから、

密教では、沈黙ではなく仏の言葉である真言を唱え、

それは「月」のように合理的な言葉では無く、普遍性を持たないので、

修行によって意味を発見しようとします。

そうすると、

僕が真言を唱える、

ということが、

仏が真言を唱えることになります。

そこでは、

真言は、言葉ではなく修行の行為です。


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[ 2019/03/21 08:13 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]

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