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[ 2024/03/28 23:26 | ]
8-2、入定
お大師さんは承和二年(835年)3月21日寅の刻、

高野山奥の院にご入定されます。

その後、お大師さんは弥勒菩薩とともにすべての人が悟りを開くまで修行をしている、

お大師さんは生きて僕らを救済してくれる、

という入定信仰が生まれます。

天長九年(832年)、お大師さんは万灯・万華会の願文に

「虚空尽き、衆生尽き、涅槃尽きなば、我が願いも尽きん」と記されました。

「生きとし生けるものすべてが悟りを得て仏となり、涅槃を求めるものがいなくなったとき、私の願いは終る」と。

今も奥の院では、毎日二回、お大師さんに食事のお膳を運び、

年に一回、法衣袈裟をお取換えする儀式が行われています。


死ではなく、生きたまま現世に生きる人々の救済にあたっている、という信仰。

これはミイラ(即身仏)とは違います。

禅定(瞑想)に入って世俗的なものを断ち切ることは、禅定の場、修禅の道場である高野山では当然の姿です。


密教の教えの中心的なものである「即身成仏」は

生きているうちに自分の中の仏性を開発する

生きている自分の中に、かけがえのない価値を見出して仏になる

ということで、

肉体を持ったまま死んでいる人、ではありません。
 
本来仏を自覚することです。

お大師さんの教え自体が生きていれば肉体は別問題で、ずっと生きています。

これは深信と言って、理屈ではありません。証拠のあるなしに関わらず信じること。


それに対して、理屈の上から納得しないと信仰に入ってゆけないことを信解と言います。
 

密教の瞑想は、

小宇宙(自分)がそのまま大宇宙である

大宇宙がそのまま小宇宙(自分)である

ということを観想し、その宇宙にあるすべての存在を育てて安楽を与える慈悲と、

迷いの闇を切り開く広大無辺な智慧を体得するものです。


そして、それは、

それ仏法遥かにあらず 心中にして即ち近し

迷悟我にあれば発心すれば即ち到る

(『般若心経秘鍵』)

自分の中に見つけます。

その、見つけた所が即身成仏。



人はみな死にます。誰でも入定というわけにはいかない。

ですが、

死すべき身であることを知り、いのちを喜び、人に生まれたことの意味を問う。

それが 宗教的な人生です。

生まれてきたからには無意味ということはありません。

たとえ一日でも意味はある。生きてその意味を求めるのが求道。

もし、死んでしまったら、周りの人がそれを考えて生きる。

それが供養になります。

『秘蔵宝鑰』には、
 
三界の狂人は狂せることを知らず、四生の盲者は盲なることを識らず。

生れ生れ生れ生れて生の始めに暗く、死に死に死に死んで死の終りに冥し。

(迷いの世界に狂える人は、自分が狂っていることを知らない

事実を見ないものは、自分が何も見えていないということがわからない

生まれ生まれ生まれ生まれて、生のはじめがわからない

死に死に死に死んで、死のおわりをしらない)



一切を慈しみ、幸せになるようにと祈り、

一切の有情非情はひとつのいのちをわけあっている

という平等観に座れば、すべての迷いが晴れます。

生きている意味を考えれば、

自分の運命がわかります。それは、何かが決まっていることではなく、工夫し開発すれば、弱点をより良いものへ運ぶことができるということ

です。


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[ 2015/06/21 14:12 | Comments(0) | 眞天庵仏教塾・密教塾 ]

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