カレー味のみそ汁はうまい、
具はジャガイモに限る、
と誰かが言っていたのだけれど、それが誰なのか思い出せない。
みそ汁の残りにきのこ、白菜、カレー粉とご飯。
箸休めに、冬大根をサッと塩もみ。
洋ナシをリンゴジュースと赤ワインで煮て、
バニラアイスを添える。
それはさておき、
仏教に三法印という思想があり、
諸行無常
諸法無我
涅槃寂静
の三つ。
あらゆるものは変化して実体性が無いと知れば、
執著が無くなり、心は静かで安らぎを得る。
僕も僕のモノも変化しているから、「これだ」と特定できないですからね。
無いものに執着できないから、煩悩も迷いも無い。
ここから、空・縁起・無自性という思想につながります。
無常で無我ですから、
存在としての原理が無い。
何かと何かの関連性でのみ存在している。
「僕」が在るためには「僕以外」のものが必要です。
「僕」とそれ以外の間に仕切り、枠、境目があります。
外野席と内野席には境目があるから
外野席と内野席が存在します。
もし、
その境目を無くしたら、外野席という枠をなくしたら、
内外野が一緒になって、区別が無くなります。
すべてはそのように存在しているので、
すべての枠をはずせば、何もなくなってしまいます。
これが「無」になる、ということに近い。
で、
自分とは何か、
宇宙の根源とは何か、
心とは何かを
分析しても同じことになります。
そういうものは無い。
でも、
ありますね。
ここで、
知性と感性が必要になります。
それぞれ、
智慧と慈悲、とも云います。
なぜここで慈悲という感性が必要になるかと言えば、
僕と僕以外のものは同時に存在し関係性を持っているからです。
僕以外のものを大切にしなければ、僕の存在が危うい。
僕は個別に生まれてきたのではなく、他のすべてのものと同時に全体的に生まれています。
つまり、
ひとつの原因によって一つの結果があるのではなく、
すべてのものが絡まって、すべてのものが存在します。
また、
ひとつのものを分析して、その大元が何であるかを探しても見つかりません。
なぜなら、
その大元がどうやtって発生したのかが分からないからです。
そうなると、
それは元から在る、と考えざるを得ません。そこに時間と空間という概念は無い、と。
宇宙の根源も、
宇宙の外側も、
同じことでしょう。
一度「僕」とか「外野席」という存在を解体してみる。
それから、もう一度元に戻す。
こういう知的作業と、
そこでは他を大切にする思いやりが無ければ存在できないだろうという感性が、
仏教の基本にあります。
具はジャガイモに限る、
と誰かが言っていたのだけれど、それが誰なのか思い出せない。
みそ汁の残りにきのこ、白菜、カレー粉とご飯。
箸休めに、冬大根をサッと塩もみ。
洋ナシをリンゴジュースと赤ワインで煮て、
バニラアイスを添える。
それはさておき、
仏教に三法印という思想があり、
諸行無常
諸法無我
涅槃寂静
の三つ。
あらゆるものは変化して実体性が無いと知れば、
執著が無くなり、心は静かで安らぎを得る。
僕も僕のモノも変化しているから、「これだ」と特定できないですからね。
無いものに執着できないから、煩悩も迷いも無い。
ここから、空・縁起・無自性という思想につながります。
無常で無我ですから、
存在としての原理が無い。
何かと何かの関連性でのみ存在している。
「僕」が在るためには「僕以外」のものが必要です。
「僕」とそれ以外の間に仕切り、枠、境目があります。
外野席と内野席には境目があるから
外野席と内野席が存在します。
もし、
その境目を無くしたら、外野席という枠をなくしたら、
内外野が一緒になって、区別が無くなります。
すべてはそのように存在しているので、
すべての枠をはずせば、何もなくなってしまいます。
これが「無」になる、ということに近い。
で、
自分とは何か、
宇宙の根源とは何か、
心とは何かを
分析しても同じことになります。
そういうものは無い。
でも、
ありますね。
ここで、
知性と感性が必要になります。
それぞれ、
智慧と慈悲、とも云います。
なぜここで慈悲という感性が必要になるかと言えば、
僕と僕以外のものは同時に存在し関係性を持っているからです。
僕以外のものを大切にしなければ、僕の存在が危うい。
僕は個別に生まれてきたのではなく、他のすべてのものと同時に全体的に生まれています。
つまり、
ひとつの原因によって一つの結果があるのではなく、
すべてのものが絡まって、すべてのものが存在します。
また、
ひとつのものを分析して、その大元が何であるかを探しても見つかりません。
なぜなら、
その大元がどうやtって発生したのかが分からないからです。
そうなると、
それは元から在る、と考えざるを得ません。そこに時間と空間という概念は無い、と。
宇宙の根源も、
宇宙の外側も、
同じことでしょう。
一度「僕」とか「外野席」という存在を解体してみる。
それから、もう一度元に戻す。
こういう知的作業と、
そこでは他を大切にする思いやりが無ければ存在できないだろうという感性が、
仏教の基本にあります。
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白菜が採れはじめました。
食養では、
肝臓の滋養にシイタケスープを使うことが多いですが、
最近は白菜のほうが効くみたい。
スープでお小水、漬物の酸味でウンコにするとよろしい。
僕は不調時、
肝臓を温めて脾臓を冷やします。
それはさておき、
50音表の「あ」と「ん」
アルファベットの「A」と「Z」のように、
サンスクリット語では、
阿(あ)と吽(うん)は最初と最後の文字
なので、
阿吽は始まりと終わりのこと。
これを密教では、
根源と結果
求道と悟り
の象徴としています。
根源に戻れば迷い苦しみは消え(まだ迷い苦しみは無いから)、
結果は迷い苦しみを越えたもの。
真理の根源は、原初の本だから、
何かから生じたものではありません。
それは思量を越えた「本不生」というもので、
大日如来のことでもあります。
その存在の本源は、
あるがままに存在している
ということ。
これが、結果、悟りでもある。
かように、
スタートとゴールは同じことを表しているのかもしれない。
覚鑁さんの『阿字観』には、
阿字の本源は迷いを斬り
吽字の息は虚空に普く満ちている
とありますが、
スタートはすべてのよりどころであり、
それはゴールを構成する一部です。
何かを始めて、
迷いながらも進めば、
最後に、それぞれの悟りになる。
食養では、
肝臓の滋養にシイタケスープを使うことが多いですが、
最近は白菜のほうが効くみたい。
スープでお小水、漬物の酸味でウンコにするとよろしい。
僕は不調時、
肝臓を温めて脾臓を冷やします。
それはさておき、
50音表の「あ」と「ん」
アルファベットの「A」と「Z」のように、
サンスクリット語では、
阿(あ)と吽(うん)は最初と最後の文字
なので、
阿吽は始まりと終わりのこと。
これを密教では、
根源と結果
求道と悟り
の象徴としています。
根源に戻れば迷い苦しみは消え(まだ迷い苦しみは無いから)、
結果は迷い苦しみを越えたもの。
真理の根源は、原初の本だから、
何かから生じたものではありません。
それは思量を越えた「本不生」というもので、
大日如来のことでもあります。
その存在の本源は、
あるがままに存在している
ということ。
これが、結果、悟りでもある。
かように、
スタートとゴールは同じことを表しているのかもしれない。
覚鑁さんの『阿字観』には、
阿字の本源は迷いを斬り
吽字の息は虚空に普く満ちている
とありますが、
スタートはすべてのよりどころであり、
それはゴールを構成する一部です。
何かを始めて、
迷いながらも進めば、
最後に、それぞれの悟りになる。
日の出前に起きて外を眺めると、
まだ暗い街に、
街灯やお店の照明
ビルの黒い陰
車や列車のヘッドライトとテールランプ
その向こうに、
朝焼けの黄色オレンジ赤
青くなってきた大空
海の向こうに朝日が上れば、
空と雲と太陽と海と岩と、
黒白金銀赤橙黄青群青などの色。
世界は、宝物が詰まった蔵のようなもので、
ひとつひとつの宝物のなかにも、
世界があります。
様々な色、形、音、匂いは、
その宝物の表現。
密教ではそれを法界とも我とも大日如来とも云い、
それぞれが悟りや本来清浄な心のシンボル。
昔々、
インドのアショカ王が仏塔を建立し、
お釈迦さまの遺骨を納めて仏教宣揚のシンボルとし、
生き物を慈しみ
真実を語り
やさしさと思いやりと忍耐の行いを勤め、
困っている人を助ける、
という思いで仏教を広めました。
その塔をサンスクリット語でストゥーパ(stūpa)と云い、
「卒塔婆」と音訳され、塔婆や塔と略されます。
ストゥーパにはお釈迦さんの遺骨が納められ、
もうひとつ、
チャイトヤ(caitya)は遺骨の無い塔。
『法華経』には明確に区別されているのだけれど、
随分昔から、この二つは混同されている。
板のお塔婆は、上部が五輪の形に刻んであります。
上から、
宝珠、半月、三角、円、方形
それぞれ、
空、風、火、水、地
の象徴。
そこに、
それぞれを表す梵字を書きます。
これは、
慈悲の世界、胎蔵大日如来を現しています。
裏には
智慧の世界、金剛界大日如来のシンボルである梵字を書く。
つまり、
お塔婆は大日如来ですから、
これが法界(宝物が詰まった宇宙)であり、我でもある。
なので、
本来ストゥーパではなくチャイトヤなのだろうけれど、
内部にマンダラが描かれ、仏像が配置されている塔も同じで、
瞑想修行の対象です。
いずれにしても、
卒塔婆も仏塔も、悟りや本来清浄な心のシンボル。
我即塔婆、我即大日、我即法界 、私は即ち宇宙や世界そのもの
と観じて、
心の夜が明けます。
まだ暗い街に、
街灯やお店の照明
ビルの黒い陰
車や列車のヘッドライトとテールランプ
その向こうに、
朝焼けの黄色オレンジ赤
青くなってきた大空
海の向こうに朝日が上れば、
空と雲と太陽と海と岩と、
黒白金銀赤橙黄青群青などの色。
世界は、宝物が詰まった蔵のようなもので、
ひとつひとつの宝物のなかにも、
世界があります。
様々な色、形、音、匂いは、
その宝物の表現。
密教ではそれを法界とも我とも大日如来とも云い、
それぞれが悟りや本来清浄な心のシンボル。
昔々、
インドのアショカ王が仏塔を建立し、
お釈迦さまの遺骨を納めて仏教宣揚のシンボルとし、
生き物を慈しみ
真実を語り
やさしさと思いやりと忍耐の行いを勤め、
困っている人を助ける、
という思いで仏教を広めました。
その塔をサンスクリット語でストゥーパ(stūpa)と云い、
「卒塔婆」と音訳され、塔婆や塔と略されます。
ストゥーパにはお釈迦さんの遺骨が納められ、
もうひとつ、
チャイトヤ(caitya)は遺骨の無い塔。
『法華経』には明確に区別されているのだけれど、
随分昔から、この二つは混同されている。
板のお塔婆は、上部が五輪の形に刻んであります。
上から、
宝珠、半月、三角、円、方形
それぞれ、
空、風、火、水、地
の象徴。
そこに、
それぞれを表す梵字を書きます。
これは、
慈悲の世界、胎蔵大日如来を現しています。
裏には
智慧の世界、金剛界大日如来のシンボルである梵字を書く。
つまり、
お塔婆は大日如来ですから、
これが法界(宝物が詰まった宇宙)であり、我でもある。
なので、
本来ストゥーパではなくチャイトヤなのだろうけれど、
内部にマンダラが描かれ、仏像が配置されている塔も同じで、
瞑想修行の対象です。
いずれにしても、
卒塔婆も仏塔も、悟りや本来清浄な心のシンボル。
我即塔婆、我即大日、我即法界 、私は即ち宇宙や世界そのもの
と観じて、
心の夜が明けます。
・自分の善根
・自然の力添え
・自分以外の人モノすべてが修めた力
この三つが和合すると、一切の願い、悟りが成就します。
その際、
自分の善根に頼り過ぎることがないように注意すべき、
と『中院流諸尊通用次第」にあります。
また、
・一向志求の心
・他を自己と見るような慈悲心
・自己の真面目を自覚しること(心を観察すること)
によって、
菩提は得られると『菩提心論』にあります。
内に懺悔反省し、外に感謝することが、願いをかなえる基本ですが、
心は強く願うところへジャンプします。
世界の平和や、自他の平安を強く思えば、そこへたどり着くでしょう。
来年も毎朝ご祈祷しますので、
お気持ちがあるかたは、祈願お申し込みください。
・申し込み方法
下記の事項をメールまたはFAX、郵便でお送りください。
1、お名前(祈願主、ふりがなをつけてください)
2、〒 ご住所
3、メールアドレス
4、年齢(生年月日)
5、願意(願いごと ひとつ)
6、ご祈祷種別
※願意例
・世間的な願いごと
厄除招福、家内安全、商売繁盛、心願成就、開運厄除、身体健全、無病息災、当病平癒、
良縁成就、安産成就、学業成就、旅行安全、方災消除、交通安全、子宝成就、虫封じ、
如意吉祥、如意円満、開運厄除、報恩感謝
・心中平安の願いごと
滅罪生善、止息煩悩、心身寂静、福智増長、一切調和、諸仏加持、転迷開悟 等。
※ご祈祷種別
①毎朝祈祷一年間 2万円(木札30cmお送りします)
②毎朝祈祷一年間 1万円(紙札15cmお送りします)
③毎朝祈祷一年間 5千円(お札無し)
※お札は、
元旦から21日まで拝んでからお送りします。
※先祖供養
自他の成仏(悟り)と同時に故人の成仏を祈願します。
○供養料 一霊1万円(1年間毎月命日に拝みます)
戒名、命日、続柄をお知らせください。
※お申し込み先
〒329-0412
栃木県下野市柴762-14
FAX:0285-35-4901
メール:sunagakounin@gmail.com
眞天庵 須永 晃仁
※振込先
○ゆうちょ銀行
記号番号:総合:16250-10082001
(普通:六二八店 1008200)
口座名 須永 晃仁(スナガ コウニン)
身体、苦楽、概念、欲望、認識、
これらは固定しておらず、
夢や幻やぱっと消える石火のように、
生まれては消えます。
苦しみや悩みは、
愚かさによる迷いによるものなので、
とにかく心静かに坐り、
心の中を観察して、
元々からある悟りの智慧を探してみます。
心は宇宙に広がり、
有るのでもなく、無いのでもない。
ただ明るさのみがあるだけで、他には何者も無い。
心は(つまり悩みや苦しみや迷いは)
来るのでも去るのでもない。
迷いは元から無く、何かの因縁より生じるだけ。
心は本体がなく、虚空に溶け込んでいるから、
隠れることも現れることも自在で、
昨夜の満月が、いくつもの水面に映るようなもの。
私一人単独では心は存在せず、
何か他のものとの関係性の中で、発生します。
それは
自然のままであり、何の造作もない。
そして、
誰も伝えないけれど、そのままに誰にでも備わり、
万物の根源になる。
根源になるということは、
一切は実体性がなく、
「有る」ことが真実である。
もし、
心に迷いではなく、
真実(中身)を観る智慧が備わっていれば、
万物は潤い、
それは虚空に遍満している。
つまり、
元からある心(これは優しさや思いやりのこと)
は冷静に観察するだけで、
自然に開いて自他を潤す。
これらは固定しておらず、
夢や幻やぱっと消える石火のように、
生まれては消えます。
苦しみや悩みは、
愚かさによる迷いによるものなので、
とにかく心静かに坐り、
心の中を観察して、
元々からある悟りの智慧を探してみます。
心は宇宙に広がり、
有るのでもなく、無いのでもない。
ただ明るさのみがあるだけで、他には何者も無い。
心は(つまり悩みや苦しみや迷いは)
来るのでも去るのでもない。
迷いは元から無く、何かの因縁より生じるだけ。
心は本体がなく、虚空に溶け込んでいるから、
隠れることも現れることも自在で、
昨夜の満月が、いくつもの水面に映るようなもの。
私一人単独では心は存在せず、
何か他のものとの関係性の中で、発生します。
それは
自然のままであり、何の造作もない。
そして、
誰も伝えないけれど、そのままに誰にでも備わり、
万物の根源になる。
根源になるということは、
一切は実体性がなく、
「有る」ことが真実である。
もし、
心に迷いではなく、
真実(中身)を観る智慧が備わっていれば、
万物は潤い、
それは虚空に遍満している。
つまり、
元からある心(これは優しさや思いやりのこと)
は冷静に観察するだけで、
自然に開いて自他を潤す。
北関東道から上信越道へ入り、
浅間山が見えたら佐久で下りる。
ここから、
献上馬の望月、
文人学者の勉強部屋が多い笠取峠、
街道最大の難所であった和田峠、
と旧中仙道を走り、
岡谷からまた高速道路に入って、中央道で飯田まで。
リンゴの季節になっています。
この飯田市の南端、立石集落に立石寺があります。
ここは立石柿、市田柿の産地。
今年は台風の影響で不作らしいけれど、本尊は柿の観音とも呼ばれています。
本堂で十一面法を修法。
十一面とは、
悟りのお顔、慈悲の面、邪悪な心を戒める憤怒の表情、浄らかな心を励ます讃嘆のお顔、
そして、暴悪大笑面という怒りながら笑うお顔の十一。
この笑いながら怒る、怒りながら笑うというのは、
小さなことではなく、自分の都合ではなく、
大きな怒り、笑いで滅する怒り、つまり、余裕のある怒り。
最も密教らしい相です。
『SHINGON ESOTERIC BUDDHISM』の説明が分かりやすい。
「Avalokiteśvara(観音)generally taking on a gentle female form,
Avalokiteśvara is understood to protect living beings with loving compassion,
Avalokiteśvara can also devote her energies to acts of salvation in the guise of many defferent faces」
本尊は藤原期作の秘仏ですが、
お前立も同時期の作。
894 年遣唐使廃止以後の3世紀が藤原時代。
文学美術が充実した時代です。
その他、
四天王やお薬師さんも同時代作。
腕の張りが美しいけれど、破損が激しい。
修復が必要だけれど、どうしよう。
これは蚕の神様。
中国由来で馬鳴菩薩とされ、地元では蚕玉(こだま)さまと呼ばれています。
ほとんど開扉されないので保存状態は良いけれど、
おまつりされているお堂は壊れて危険なレベル。
仏教は心病と身病を治しますが、
そのための基本的姿勢のひとつが、
余裕ある怒り。
※年間祈祷ご案内
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浅間山が見えたら佐久で下りる。
ここから、
献上馬の望月、
文人学者の勉強部屋が多い笠取峠、
街道最大の難所であった和田峠、
と旧中仙道を走り、
岡谷からまた高速道路に入って、中央道で飯田まで。
リンゴの季節になっています。
この飯田市の南端、立石集落に立石寺があります。
ここは立石柿、市田柿の産地。
今年は台風の影響で不作らしいけれど、本尊は柿の観音とも呼ばれています。
本堂で十一面法を修法。
十一面とは、
悟りのお顔、慈悲の面、邪悪な心を戒める憤怒の表情、浄らかな心を励ます讃嘆のお顔、
そして、暴悪大笑面という怒りながら笑うお顔の十一。
この笑いながら怒る、怒りながら笑うというのは、
小さなことではなく、自分の都合ではなく、
大きな怒り、笑いで滅する怒り、つまり、余裕のある怒り。
最も密教らしい相です。
『SHINGON ESOTERIC BUDDHISM』の説明が分かりやすい。
「Avalokiteśvara(観音)generally taking on a gentle female form,
Avalokiteśvara is understood to protect living beings with loving compassion,
Avalokiteśvara can also devote her energies to acts of salvation in the guise of many defferent faces」
本尊は藤原期作の秘仏ですが、
お前立も同時期の作。
894 年遣唐使廃止以後の3世紀が藤原時代。
文学美術が充実した時代です。
その他、
四天王やお薬師さんも同時代作。
腕の張りが美しいけれど、破損が激しい。
修復が必要だけれど、どうしよう。
これは蚕の神様。
中国由来で馬鳴菩薩とされ、地元では蚕玉(こだま)さまと呼ばれています。
ほとんど開扉されないので保存状態は良いけれど、
おまつりされているお堂は壊れて危険なレベル。
仏教は心病と身病を治しますが、
そのための基本的姿勢のひとつが、
余裕ある怒り。
※年間祈祷ご案内
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※精進おせちのレシピ ご案内
http://
※食養相談・健康相談の「穀菜食の舎」ご案内
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真言宗の教科書に『十巻章』という十の文献があります。
そのなかで
『弁顕密二教論』『即身成仏義』『秘蔵宝鑰』『発菩提心論』には、
「不読段」と云う、初学者が読んではいけない
という章(段落)があります。
高野山大学の授業でも、
その部分は飛ばして教わらなかった。
何が書いてあるのかといえば、
どのように修行すると、どのようになるのか、
ということ。
例えば
仏とか心とか悟りとかの本体と、
それが表れた姿の説明の後、
その働きを説くところが不読段になっています。
なぜ、読んではいけないのか、
それは難しいからです。
小学生に高等数学を、
泳げない人にクロールを教えるようなもの。
世の中には、それでも理解体得できる天才がいるかもしれないけれど、
普通、そんなことはない。
科学が、理論を実験や観察で証明するように、
僕らは、心とは何か、
という根源的な哲学的理論を、
修行という実践で証明します。
ある程度、
勉強も実践経験も積まないとわからないし、危険なこともあるから、
初心者は、未熟な段階では、
読んでいけない。
でも、
最近は変わってきました。
そもそも、お大師さんは不読段などと云っていないけれど、
誰でも自由に出版・公開でき、
専門家でなくても、自由に議論勉強できるようになり、
さらに、
インターネットで公開され自由に読めるようになっている。
そして、
本来必要とするべき人たちが、
それを全く読んでいない、関心がないから、
読んではいけない、という意味が無くなった。
そういえば学校で教わったなあ、というレベル。
学校で微分積分を教わったけれど、
それ以降、見たことも考えたことも、思い出すこともないなあ、
ということ。
実践の体験は人によって違います。
それは混じりけの無いものなのか、
錯覚、妄想、勘違いではないのか、
自分流の勝手な解釈ではないのか、
そういう校正をしないと、
オウムのようなことになってしまう可能性がある。
自由にものが言える、
自分流の考えかたを公開できる
というのは民主的で良いことだけれど、
何でも、
よくよく考えて、典拠証拠を示し、
実践で証明し、
それを発言公開することが、人のためになることであるかどうか考える、
そうでなければ危険なこともある、
と、世の中の事件事故を見聞きして感じます。
やはり、
読んではいけないものを読めるように、
努力精進するべきだろうな。
※望診法講座のおしらせ
2018年1月14日(日)横浜市「Umiのいえ」
https:/ /coubic .com/wa nooteat e/26490 9
※年間祈祷ご案内
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※食養相談・健康相談の「穀菜食の舎」ご案内
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そのなかで
『弁顕密二教論』『即身成仏義』『秘蔵宝鑰』『発菩提心論』には、
「不読段」と云う、初学者が読んではいけない
という章(段落)があります。
高野山大学の授業でも、
その部分は飛ばして教わらなかった。
何が書いてあるのかといえば、
どのように修行すると、どのようになるのか、
ということ。
例えば
仏とか心とか悟りとかの本体と、
それが表れた姿の説明の後、
その働きを説くところが不読段になっています。
なぜ、読んではいけないのか、
それは難しいからです。
小学生に高等数学を、
泳げない人にクロールを教えるようなもの。
世の中には、それでも理解体得できる天才がいるかもしれないけれど、
普通、そんなことはない。
科学が、理論を実験や観察で証明するように、
僕らは、心とは何か、
という根源的な哲学的理論を、
修行という実践で証明します。
ある程度、
勉強も実践経験も積まないとわからないし、危険なこともあるから、
初心者は、未熟な段階では、
読んでいけない。
でも、
最近は変わってきました。
そもそも、お大師さんは不読段などと云っていないけれど、
誰でも自由に出版・公開でき、
専門家でなくても、自由に議論勉強できるようになり、
さらに、
インターネットで公開され自由に読めるようになっている。
そして、
本来必要とするべき人たちが、
それを全く読んでいない、関心がないから、
読んではいけない、という意味が無くなった。
そういえば学校で教わったなあ、というレベル。
学校で微分積分を教わったけれど、
それ以降、見たことも考えたことも、思い出すこともないなあ、
ということ。
実践の体験は人によって違います。
それは混じりけの無いものなのか、
錯覚、妄想、勘違いではないのか、
自分流の勝手な解釈ではないのか、
そういう校正をしないと、
オウムのようなことになってしまう可能性がある。
自由にものが言える、
自分流の考えかたを公開できる
というのは民主的で良いことだけれど、
何でも、
よくよく考えて、典拠証拠を示し、
実践で証明し、
それを発言公開することが、人のためになることであるかどうか考える、
そうでなければ危険なこともある、
と、世の中の事件事故を見聞きして感じます。
やはり、
読んではいけないものを読めるように、
努力精進するべきだろうな。
※望診法講座のおしらせ
2018年1月14日(日)横浜市「Umiのいえ」
https:/
※年間祈祷ご案内
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※精進おせちのレシピ ご案内
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※食養相談・健康相談の「穀菜食の舎」ご案内
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仏教に「能生のうしょう)」「所生(しょしょう)」という言葉があります。
能生は生み出すもの、主体、根源。
所生は生み出されるもの、客体。
基本的に能生は目に見えず、
所生が見える形。
で、
この能生、つまり生まれてきた根源、
これを仏教は求めてきました。これ以外のものは関心無い、といっても過言ではない。
苦しみとは何か、幸せとは何か。
迷いとは、悟りとは。
心とは何か、自分とは何か。
宇宙とは何か、どうなっているのか。
なぜ生まれ、なぜ生きているのか。
なぜ死ぬのか、死んだらどうなるのか。
これらの問題は、
宇宙、人間、心などの根源が分かれば解決します。
すべての問題の根底に、
つまり、所生のものの奥に能生の何かがあるはずです。
仏教に限らず、
人生の諸問題にとっても同じでしょう。
この能生が何であるか、
元素とか素粒子である
空や縁起や阿頼耶識である
阿弥陀如来や法華経である
というように、いろいろな考えかたがあります。
密教ではそれを五大(地水火風空)とか六大(五大と識)であると捉えます。
そのものだけではなく、
その姿とその性質働きを含めてです。
この五大・六大は大日如来のこと。
ですから、
すべては大日如来から生まれる、
という云いかたになります。
これが展開して現れたのが所生の世間や身体で、
つまり、根源なモノのシンボルということ。
現れた僕らや周囲の現象宇宙は、基本的にヨーガ(相応)しているので、
単独ではありません。
お父さんとお母さんと子らで家族であり、
おとうさん単独では「お父さん」になれないようなもの。
心身や周囲の現象は六大大日なのですから、
それが能生なら、
すべては事実であり真実、ということになります。
ですから、
僕らの働きはそのまま大日如来の働き、ということになる。
仏教では、
あらゆるものには実体がなく、関係性においてのみ存在している、
という縁起・空の考えかたがありますが、
これでは、個別の存在に価値を認めにくい。
すると、
この身このままで今すぐに悟れること(即身成仏)はあり得ない。
ここが密教の特徴なのですが、
事実は縁起を越えたものと捉えています。
僕らは大日如来、悟りの当体と同じですが、
そのまま何もしなくても悟りが現れるわけではなく、
修行努力工夫が必要。
何もしない現実肯定は危険であり、戒めるべきです。
心を開発して悟るための修行(生きかた)には多くの方法がありますが、
混じり気の無い心をもち
喜びをもち
他を尊重し、いつくしむ
ことと、田中千秋先生の『即身成佛義講話』にあります。
これは難しいことだけれど、できないことではない。
※望診法講座のおしらせ
2018年1月14日(日)横浜市「Umiのいえ」
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※年間祈祷ご案内
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※精進おせちのレシピ ご案内
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最近の葬儀は、
お導師さんも参列者もイスに坐って拝むことが多い。
寺の本堂は多くが畳敷きだけれど、イスを置いている寺が多い。
法事も修行のひとつですから、ちゃんと正坐してください、
と参列者に注意するお坊さんもいる。
でも、僕は時によって、
お楽にしてください、足は崩して良いですよ、
などと言ってしまう。
僕自身は正坐したほうが拝みやすいし、イスより安楽だし、
姿も美しいと思っているけれど。
法事が修行であるというのは正しく、
何よりも仏教は修行の宗教で、
寺は修行するところ。
だから、
法事が修行でなければ、寺はただの斎場になる。
修行は成仏のためにある。
成仏とは仏になることで、
それは悟ること、
悟りとは自分の心を知ること、
自分の心とは仏の象徴である。
成仏のことを、菩提とか、智とか道とか覚などとも云う。
迷いを転じて悟り、
人格を完成し、
物心の根源を知ることであり、
簡単に云えば、
自他ともに、しあわせな人生をめざすこと。
『即身成仏義』では
即身と成仏を別々に説明している。
即身とは、
自身だけではなく、存在世界すべてであり、
それは、真理の象徴である。
成仏は、
一切を如実に覚知する智慧、
智慧とは、
決断し、選びとること。
即身と成仏は、
三密行という修行によって結びつく、
と説かれている。
僕らがいるこの世界の真実は、
修行を通して、
価値ある世界になる。
その時、
僕らはただ存在しているのではなく、意味があることを理解し、
その瞬間、
一切の苦悩が消える。
自分らは本来仏であるけれど、事実としては成仏していない。
即身成仏は、
この身のままで仏になる
などという簡単なことではなく、
僕らは悟りの可能性を持っている、
もともと大きくて素晴らしい存在である
ゆへに、他を救いしあわせにできる、
ことを、修行を通してこの心身に実現させること。
まずは、
自分はだめな人間と思わないこと、
修行(努力工夫勉強トレーニング)すれば、
必ず人間の成長があると信じること、
日々の表情に注意し、
言葉を選んで、
やさしさと思いやりを実践すること。
法事も何もかもが、
それらの練習になります。
※望診法講座のおしらせ
2018年1月14日(日)横浜市「Umiのいえ」
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※年間祈祷ご案内
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お導師さんも参列者もイスに坐って拝むことが多い。
寺の本堂は多くが畳敷きだけれど、イスを置いている寺が多い。
法事も修行のひとつですから、ちゃんと正坐してください、
と参列者に注意するお坊さんもいる。
でも、僕は時によって、
お楽にしてください、足は崩して良いですよ、
などと言ってしまう。
僕自身は正坐したほうが拝みやすいし、イスより安楽だし、
姿も美しいと思っているけれど。
法事が修行であるというのは正しく、
何よりも仏教は修行の宗教で、
寺は修行するところ。
だから、
法事が修行でなければ、寺はただの斎場になる。
修行は成仏のためにある。
成仏とは仏になることで、
それは悟ること、
悟りとは自分の心を知ること、
自分の心とは仏の象徴である。
成仏のことを、菩提とか、智とか道とか覚などとも云う。
迷いを転じて悟り、
人格を完成し、
物心の根源を知ることであり、
簡単に云えば、
自他ともに、しあわせな人生をめざすこと。
『即身成仏義』では
即身と成仏を別々に説明している。
即身とは、
自身だけではなく、存在世界すべてであり、
それは、真理の象徴である。
成仏は、
一切を如実に覚知する智慧、
智慧とは、
決断し、選びとること。
即身と成仏は、
三密行という修行によって結びつく、
と説かれている。
僕らがいるこの世界の真実は、
修行を通して、
価値ある世界になる。
その時、
僕らはただ存在しているのではなく、意味があることを理解し、
その瞬間、
一切の苦悩が消える。
自分らは本来仏であるけれど、事実としては成仏していない。
即身成仏は、
この身のままで仏になる
などという簡単なことではなく、
僕らは悟りの可能性を持っている、
もともと大きくて素晴らしい存在である
ゆへに、他を救いしあわせにできる、
ことを、修行を通してこの心身に実現させること。
まずは、
自分はだめな人間と思わないこと、
修行(努力工夫勉強トレーニング)すれば、
必ず人間の成長があると信じること、
日々の表情に注意し、
言葉を選んで、
やさしさと思いやりを実践すること。
法事も何もかもが、
それらの練習になります。
※望診法講座のおしらせ
2018年1月14日(日)横浜市「Umiのいえ」
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人生問題の多くは、
あるべきもの、と
あるもの
の違いから起こります。
本来清浄であるのに、現実には汚れている。
努力工夫すれば思いは叶うのに、それをしないから思い通りにならずに苦しむ。
また、
いろいろな不幸不満は、
自他を差別することから生じます。
ですから、
見かた受け取りかたの問題。
これも、
自らの中に原因があります。
悩み不幸になる原因は、生きる中に内在しており、
山中独りぼっちで生きるわけにはいかない限り、
あなたとともに生きています。
それゆえに、
差別区別から生じる悩み煩悩の中に生きている、
と云うのが人間の宿命です。
本来、僕らは、
偉大で清浄な仏であり、善悪以前の存在です。
しかし、
現実は喜怒哀楽の中に沈溺している。
このままで、
自分は本来仏であるなどと、現実を肯定するのは危険です。
何も解決しない。
現実を懺悔反省して、
自分の悪い面を知るのが、
本来の仏に戻るための修行になります。
例えば、
正坐して合掌し、
昨日会った人、便りをもらった人すべてを思い出しながら、
ひとりひとりに対して懺悔します。
本人の前で五体投地しながらが良いのですが、
そんなことは難しいので、心の中で行ないます。
あなたの姿をありありと思い出し、合掌して懺悔文を唱える。
我昔所造諸悪業 (僕が作った悪業は)
がしゃくしょぞうしょあくごう
皆由無始貪瞋癡 (貪りと怒りと無知が原因)
かいゆうむしとんじんち
従身語意之所生 (身体ことば心から生じる)
じゅうしんごいししょしょう
一切我今皆懺悔 (すべてを懺悔します)
いっさいがこんかいさんげ
と。
100人いれば百回唱えて拝む。
こうした無条件の自己批判が、
宿命を乗り越え、
人生問題を解決するひとつの方法です。
あるべきもの、と
あるもの
の違いから起こります。
本来清浄であるのに、現実には汚れている。
努力工夫すれば思いは叶うのに、それをしないから思い通りにならずに苦しむ。
また、
いろいろな不幸不満は、
自他を差別することから生じます。
ですから、
見かた受け取りかたの問題。
これも、
自らの中に原因があります。
悩み不幸になる原因は、生きる中に内在しており、
山中独りぼっちで生きるわけにはいかない限り、
あなたとともに生きています。
それゆえに、
差別区別から生じる悩み煩悩の中に生きている、
と云うのが人間の宿命です。
本来、僕らは、
偉大で清浄な仏であり、善悪以前の存在です。
しかし、
現実は喜怒哀楽の中に沈溺している。
このままで、
自分は本来仏であるなどと、現実を肯定するのは危険です。
何も解決しない。
現実を懺悔反省して、
自分の悪い面を知るのが、
本来の仏に戻るための修行になります。
例えば、
正坐して合掌し、
昨日会った人、便りをもらった人すべてを思い出しながら、
ひとりひとりに対して懺悔します。
本人の前で五体投地しながらが良いのですが、
そんなことは難しいので、心の中で行ないます。
あなたの姿をありありと思い出し、合掌して懺悔文を唱える。
我昔所造諸悪業 (僕が作った悪業は)
がしゃくしょぞうしょあくごう
皆由無始貪瞋癡 (貪りと怒りと無知が原因)
かいゆうむしとんじんち
従身語意之所生 (身体ことば心から生じる)
じゅうしんごいししょしょう
一切我今皆懺悔 (すべてを懺悔します)
いっさいがこんかいさんげ
と。
100人いれば百回唱えて拝む。
こうした無条件の自己批判が、
宿命を乗り越え、
人生問題を解決するひとつの方法です。
自分も他人も、
目の前に見える聞こえる匂うすべてのものは、
空とか縁起以前に、現前に存在しています。
しかし、
僕らはそれを正しく理解していないことが多い。
執著偏見差別無く見たり聞いたりすることで、
それらは実在、真実になります。
そのように、
あるものがある、
と知るのが悟りであり、
そこは、分別を離れ無染無著です。
虚空のように広々しているだけ。
人生でうまくいかないことの多くは、
簡単なことができないから、
ということが多い。
早寝早起きをする、
暴飲暴食をしない、
毎日20分だけ勉強する、練習する
など、難しいことではないのにできない。
同じように、
比べない、こだわらない、あきらめる
というような簡単なことが出来れば、
正しく見たり聞いたりできるようになるでしょう。
工夫努力修行無しで現実肯定してはいけませんが、
心を洞察することで、
現実の問題や自他の存在を正しく知る可能性は高くなります。
僕はあなたと同じように、
草木や動物や石などと同じように、
問題もその解決方法も、
あるが如くにあることが分かります。
山が海が他人が仏であるように自分も仏であり、
それらがあるように自分もあります。
自分や他人の中に、
汚れた醜いものを観ることができますが、
そこに高貴なものを求めることもできます。
すべてが仏である、と。
目の前に見える聞こえる匂うすべてのものは、
空とか縁起以前に、現前に存在しています。
しかし、
僕らはそれを正しく理解していないことが多い。
執著偏見差別無く見たり聞いたりすることで、
それらは実在、真実になります。
そのように、
あるものがある、
と知るのが悟りであり、
そこは、分別を離れ無染無著です。
虚空のように広々しているだけ。
人生でうまくいかないことの多くは、
簡単なことができないから、
ということが多い。
早寝早起きをする、
暴飲暴食をしない、
毎日20分だけ勉強する、練習する
など、難しいことではないのにできない。
同じように、
比べない、こだわらない、あきらめる
というような簡単なことが出来れば、
正しく見たり聞いたりできるようになるでしょう。
工夫努力修行無しで現実肯定してはいけませんが、
心を洞察することで、
現実の問題や自他の存在を正しく知る可能性は高くなります。
僕はあなたと同じように、
草木や動物や石などと同じように、
問題もその解決方法も、
あるが如くにあることが分かります。
山が海が他人が仏であるように自分も仏であり、
それらがあるように自分もあります。
自分や他人の中に、
汚れた醜いものを観ることができますが、
そこに高貴なものを求めることもできます。
すべてが仏である、と。
以前書いたように 、
修行の第一は自己批判懺悔です。
これがなければ、人はみな本来清浄で仏である、とはいえない。
勉強はしないけれど、やればできるんだと思っているレベル。
実践しないで肯定してはいけない。
その次が自己拡充。
小学校の勉強では飽き足らず、
中学高校大学と学問を進める。
すると、多くのことが深く理解できる。
真実に近づく。
下働きからはじめて一流の仕事ができるように努力精進するのと同じ。
心のレベルも、
より高い段階を目指してトレーニングします。
そして、
心とは何かを「実の如く」知ることになり、
自他の迷い苦しみを、悟りと幸せに変えます。
そして最後に回向。
多くの場合、
法要や所作の最後に回向文を唱えます。
「願わくは この功徳をもって、
普く一切に及ぼし、
われらと衆生と、皆共に、
仏道を成ぜん」
これは正しい漢訳ではないようですが、
功徳は自分と他者の悟りへ回向するものです。
この回向文に違和感を感じるのは、
法事や先祖供養などの読経やお布施すること、
お参りすることの功徳が回向される、
と思われているような気がするからです。
子や孫が仲良く楽しく暮し、
元気に成長し、
思いやりとやさしさをもった「善い人」になることが、
親の願いです。僕もそれが何より嬉しい。
同じように
僕らの親や先祖は、
僕らがより良く生きること、懸命に冷静に安全に生きることを喜ぶでしょう。
ただ葬儀法事などの儀式を行うことではない。
自己批判し、
自己の拡充につとめ、
その功徳を回向する。
密教の作法では「至心回向」を念じます。
栂尾先生の『和文経典』では、
「懺悔その他の功徳もて
われとこしえに はげまなん
あらゆるほとけ 菩薩たち
よき友にまもられて
さわりなき世に生まれゆき
きよけきこころ みがかなん
まよいをはなれ 悲智を具し
すくいのわざを 身につけて
仏の家の ひととなり
わが子の身内 たすけなん
あらゆる言葉 さわりなく
不思議の力 限りなし
むかし聖者の よせしごと
それらをともに 回向せん
大悲にもゆる みひかりの
仏を礼し たてまつる」
修行の第一は自己批判懺悔です。
これがなければ、人はみな本来清浄で仏である、とはいえない。
勉強はしないけれど、やればできるんだと思っているレベル。
実践しないで肯定してはいけない。
その次が自己拡充。
小学校の勉強では飽き足らず、
中学高校大学と学問を進める。
すると、多くのことが深く理解できる。
真実に近づく。
下働きからはじめて一流の仕事ができるように努力精進するのと同じ。
心のレベルも、
より高い段階を目指してトレーニングします。
そして、
心とは何かを「実の如く」知ることになり、
自他の迷い苦しみを、悟りと幸せに変えます。
そして最後に回向。
多くの場合、
法要や所作の最後に回向文を唱えます。
「願わくは この功徳をもって、
普く一切に及ぼし、
われらと衆生と、皆共に、
仏道を成ぜん」
これは正しい漢訳ではないようですが、
功徳は自分と他者の悟りへ回向するものです。
この回向文に違和感を感じるのは、
法事や先祖供養などの読経やお布施すること、
お参りすることの功徳が回向される、
と思われているような気がするからです。
子や孫が仲良く楽しく暮し、
元気に成長し、
思いやりとやさしさをもった「善い人」になることが、
親の願いです。僕もそれが何より嬉しい。
同じように
僕らの親や先祖は、
僕らがより良く生きること、懸命に冷静に安全に生きることを喜ぶでしょう。
ただ葬儀法事などの儀式を行うことではない。
自己批判し、
自己の拡充につとめ、
その功徳を回向する。
密教の作法では「至心回向」を念じます。
栂尾先生の『和文経典』では、
「懺悔その他の功徳もて
われとこしえに はげまなん
あらゆるほとけ 菩薩たち
よき友にまもられて
さわりなき世に生まれゆき
きよけきこころ みがかなん
まよいをはなれ 悲智を具し
すくいのわざを 身につけて
仏の家の ひととなり
わが子の身内 たすけなん
あらゆる言葉 さわりなく
不思議の力 限りなし
むかし聖者の よせしごと
それらをともに 回向せん
大悲にもゆる みひかりの
仏を礼し たてまつる」
母がストーブの上でカレーを煮ていた。
昔はライスカレーと呼び、
それは誕生日など特別な日の食べ物だった。
肉はほんの少しだけ入っていた、
そして、
まずいカレーを作ることは難しい。
カレーとコロッケは七難隠すのである。
それはさておき、
「あるもの」と「あるべきもの」に違いがあることが、
悩み苦しみ迷いの原因ですが、
それは一体どういうものなのだろうか。
世の中には、
僕、あなた、車、家、パソコン、ネコ、地球、酸素、窒素、二酸化酸素など、
いろいろなものがありますが、それらはそれとそれ以外に分かれているから存在します。
僕、あなた、地球、酸素などを限定したワクをはずせば、
互いの境目が無くなり、
みんな一緒。
つまり、
そこには僕、あなた、地球、酸素などはなくなるわけです。
コーヒーとミルクは別なものだったのに、
混ぜたら分からなくなってしまうように。
僕もあなたも地球も「無」になる。
しかし、
実際には、僕もあなたも地球もある。
これはどういうことかと云えば、
それぞれの関係性で存在しています。
自分以外との関係性。
あなたがいるから僕がいる、
僕がいるから宇宙がある
その反対も同じ。
では、その僕やあなたや地球の本質本性は何か。
分析すれば、
酸素窒素水素炭素などに分けることはできるけれど、
最終的なものは何からできているのか。
そこには
分割できない全体性があります。
この全体性の理解が、仏教各宗派で違うのですが、
いずれにしても、
そこには根本的な原因が無い。
そこを観察し(これが実の如く自心を知ることになる)
慈悲心、探求と向上心、心を制御するトレーニング
を心がけることによって、
即身成仏、つまり、現実のすべてにおいて真実性を発見できます。
あるものと、あるべきものを体得できる。
瞑想修行で自心を知り、
生活の工夫を心がける
ということです。
仏教は、
煩悩からの解脱を目指し、
迷いから仏の智慧を目指す、
仏の心になることを目指しますが、
密教では、
三密五相というトレーニングによって、
仏の身体を獲得することが特徴です。
そして、
自身即宇宙法界、自身即大日となり、
「あるもの」が「あるべきもの」になる。
昔はライスカレーと呼び、
それは誕生日など特別な日の食べ物だった。
肉はほんの少しだけ入っていた、
そして、
まずいカレーを作ることは難しい。
カレーとコロッケは七難隠すのである。
それはさておき、
「あるもの」と「あるべきもの」に違いがあることが、
悩み苦しみ迷いの原因ですが、
それは一体どういうものなのだろうか。
世の中には、
僕、あなた、車、家、パソコン、ネコ、地球、酸素、窒素、二酸化酸素など、
いろいろなものがありますが、それらはそれとそれ以外に分かれているから存在します。
僕、あなた、地球、酸素などを限定したワクをはずせば、
互いの境目が無くなり、
みんな一緒。
つまり、
そこには僕、あなた、地球、酸素などはなくなるわけです。
コーヒーとミルクは別なものだったのに、
混ぜたら分からなくなってしまうように。
僕もあなたも地球も「無」になる。
しかし、
実際には、僕もあなたも地球もある。
これはどういうことかと云えば、
それぞれの関係性で存在しています。
自分以外との関係性。
あなたがいるから僕がいる、
僕がいるから宇宙がある
その反対も同じ。
では、その僕やあなたや地球の本質本性は何か。
分析すれば、
酸素窒素水素炭素などに分けることはできるけれど、
最終的なものは何からできているのか。
そこには
分割できない全体性があります。
この全体性の理解が、仏教各宗派で違うのですが、
いずれにしても、
そこには根本的な原因が無い。
そこを観察し(これが実の如く自心を知ることになる)
慈悲心、探求と向上心、心を制御するトレーニング
を心がけることによって、
即身成仏、つまり、現実のすべてにおいて真実性を発見できます。
あるものと、あるべきものを体得できる。
瞑想修行で自心を知り、
生活の工夫を心がける
ということです。
仏教は、
煩悩からの解脱を目指し、
迷いから仏の智慧を目指す、
仏の心になることを目指しますが、
密教では、
三密五相というトレーニングによって、
仏の身体を獲得することが特徴です。
そして、
自身即宇宙法界、自身即大日となり、
「あるもの」が「あるべきもの」になる。
しいたけ出汁に、
しめじ、ちくわぶ、油揚げ、にんじんを煮込み、
うどんを加えて醤油で調え、
頃合いを見て、ゆでたホウレンソウとネギを載せ、
精進の鍋焼きうどん
それはさておき、
彼岸へ渡るカリキュラムには、
布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧
の六波羅蜜がありますが、
その中の禅定は、
心を集中して、安定させること。
毎日の生活で、心を平静に保つこと、
とされ、
英語では、
メディテーション(meditation)
と訳されます。瞑想ですね。
『密教辞典』には、
禅定(dhyāna)は予備修行であり、
三摩地は終局の境地
とあります。
三摩地(サマーディー:samādhi)は新訳で、
旧訳では三昧。
『密教辞典』では、
妄念を離れて、心を一箇所に集中して、動乱せず、寂静安和の状態
この三摩地に住して、三密の修法を行ずると、
煩悩を断ち切って本尊の内証の智慧を如実に体得することができる。
『日英佛教語辞典』には、
a mental state of concentration and focusing of thought on one object.
The object of concentration can be a physical one a metaphysical principle or a transcendental existence.
This exercise is usually practiced repeatedly for a long period of time until the practitioner against a concentration of thought in which he realizes some reality-principle or visualize a transcendental object.
とある。
『戒序』では、
五部三部の尊、森羅としてまどかに現じ、
刹塵海滴の仏、忽然として湧出せん。
この三昧に住するを秘密の三摩地となづく。
密教では、
生きる行為とは、自他を救うことであり
なぜ生きているかと云えば、道を求めるためであり、
そのためには、
絶対自由の心を体得する三昧(三摩地)の修行が必要
としています。
この心は本来具有しているのだけれど、
それが隠れているので、
三昧によって顕現させます。
具体的には『菩提心論』などに、
日月輪観、阿字観、三密行、五相成身観が説かれていますが、
禅定を続けて、三昧に至ります。
パタンジャリの『ヨーガ・スートラ』では、
凝念
心を特定の場所に縛り付けること
静慮
凝念の連続的な延長で、
同一の場所に対象とする想念が一筋にのびてゆくこと
三昧
静慮が外見上、その思念する客体ばかりになり、自体を無くしてしまったようなとき
とあり、
定義を失し、言亡慮絶(『不動次第』)
延促を須ひずして唯円明のみになる(『無想観』)
のような、
直観(主客未分)、五官不要 な世界。
この状態(悟り)を証と云いますが、
田中先生の
『真言宗における証について』には、
凡人にとっては価値の無い醜や悪や賎や矛盾において、
ついでのように美、善、貴、調和を見る。
したがって、常に歓喜、浄福、自在、光明、経験の中に住するのが覚証である。
とあります。
証と未証を混同しないように、
注意深く勉強しながら行なうべきですが、
いづれにしても、
禅定は心を静め、
三昧は悟りを体験する
ということ。
しめじ、ちくわぶ、油揚げ、にんじんを煮込み、
うどんを加えて醤油で調え、
頃合いを見て、ゆでたホウレンソウとネギを載せ、
精進の鍋焼きうどん
それはさておき、
彼岸へ渡るカリキュラムには、
布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧
の六波羅蜜がありますが、
その中の禅定は、
心を集中して、安定させること。
毎日の生活で、心を平静に保つこと、
とされ、
英語では、
メディテーション(meditation)
と訳されます。瞑想ですね。
『密教辞典』には、
禅定(dhyāna)は予備修行であり、
三摩地は終局の境地
とあります。
三摩地(サマーディー:samādhi)は新訳で、
旧訳では三昧。
『密教辞典』では、
妄念を離れて、心を一箇所に集中して、動乱せず、寂静安和の状態
この三摩地に住して、三密の修法を行ずると、
煩悩を断ち切って本尊の内証の智慧を如実に体得することができる。
『日英佛教語辞典』には、
a mental state of concentration and focusing of thought on one object.
The object of concentration can be a physical one a metaphysical principle or a transcendental existence.
This exercise is usually practiced repeatedly for a long period of time until the practitioner against a concentration of thought in which he realizes some reality-principle or visualize a transcendental object.
とある。
『戒序』では、
五部三部の尊、森羅としてまどかに現じ、
刹塵海滴の仏、忽然として湧出せん。
この三昧に住するを秘密の三摩地となづく。
密教では、
生きる行為とは、自他を救うことであり
なぜ生きているかと云えば、道を求めるためであり、
そのためには、
絶対自由の心を体得する三昧(三摩地)の修行が必要
としています。
この心は本来具有しているのだけれど、
それが隠れているので、
三昧によって顕現させます。
具体的には『菩提心論』などに、
日月輪観、阿字観、三密行、五相成身観が説かれていますが、
禅定を続けて、三昧に至ります。
パタンジャリの『ヨーガ・スートラ』では、
凝念
心を特定の場所に縛り付けること
静慮
凝念の連続的な延長で、
同一の場所に対象とする想念が一筋にのびてゆくこと
三昧
静慮が外見上、その思念する客体ばかりになり、自体を無くしてしまったようなとき
とあり、
定義を失し、言亡慮絶(『不動次第』)
延促を須ひずして唯円明のみになる(『無想観』)
のような、
直観(主客未分)、五官不要 な世界。
この状態(悟り)を証と云いますが、
田中先生の
『真言宗における証について』には、
凡人にとっては価値の無い醜や悪や賎や矛盾において、
ついでのように美、善、貴、調和を見る。
したがって、常に歓喜、浄福、自在、光明、経験の中に住するのが覚証である。
とあります。
証と未証を混同しないように、
注意深く勉強しながら行なうべきですが、
いづれにしても、
禅定は心を静め、
三昧は悟りを体験する
ということ。
覚鑁さんの『末代真言行者用心』には、
「いかなる心を発す者、必ず悉地を成就するや。謂く、深信ある者、よく悉地を得。いかなるを深信をいふ。謂く、久々に修行して法験を得ずと雖も、疑慮を生ぜず、退心を生ぜざるなり。かくの如くの人必定して悉地を成就す。或いは本尊、行者を試さんが為の故に、或いは諸天等、その信心の浅深を試むがために暫くもってこれを抑ふるが故に。或いは宿障重深なるが故に、暫く不成に似たりと雖も、まことによく成就すれども、自ら知らざるが故に。
或いは魔旬、妨を成して暫く覆蔽するが故に。かくの如き等の種種の因縁あるが故に、疑怠
すべからず。」
とある。
どのような心で修行すれば、悟りという願いが叶うのだろうか。
それは、
深く信じる心のある者が、願いを叶えることができる。
深く信じるということは、
長く修行して、たとえお蔭がない、効果が無いと感じても、
疑うことなく、決して止めずに修行を続けることである。
たゆまず続けていれば、必ず成就する。
なぜ、すぐに効果が表れないのか。
それは本尊が、
行者の信仰の度合いを確かめているのだろう。
また、
行者の業が妨げになり、長い目で見れば、いつの間にか願いが叶っているのに、
それに気がついていないのである。
だから、
疑うことなく修行を続けるべきである。
つまり、
淡々と続けること
不放逸であること
そうすれば、
苦境を乗り越え、悟りの願いが叶う。
「いかなる心を発す者、必ず悉地を成就するや。謂く、深信ある者、よく悉地を得。いかなるを深信をいふ。謂く、久々に修行して法験を得ずと雖も、疑慮を生ぜず、退心を生ぜざるなり。かくの如くの人必定して悉地を成就す。或いは本尊、行者を試さんが為の故に、或いは諸天等、その信心の浅深を試むがために暫くもってこれを抑ふるが故に。或いは宿障重深なるが故に、暫く不成に似たりと雖も、まことによく成就すれども、自ら知らざるが故に。
或いは魔旬、妨を成して暫く覆蔽するが故に。かくの如き等の種種の因縁あるが故に、疑怠
すべからず。」
とある。
どのような心で修行すれば、悟りという願いが叶うのだろうか。
それは、
深く信じる心のある者が、願いを叶えることができる。
深く信じるということは、
長く修行して、たとえお蔭がない、効果が無いと感じても、
疑うことなく、決して止めずに修行を続けることである。
たゆまず続けていれば、必ず成就する。
なぜ、すぐに効果が表れないのか。
それは本尊が、
行者の信仰の度合いを確かめているのだろう。
また、
行者の業が妨げになり、長い目で見れば、いつの間にか願いが叶っているのに、
それに気がついていないのである。
だから、
疑うことなく修行を続けるべきである。
つまり、
淡々と続けること
不放逸であること
そうすれば、
苦境を乗り越え、悟りの願いが叶う。
自分が努力して良いプレーをすれば、
それを観たファンも喜ぶ。
自分の成績が上がれば収入も増え、
プレーヤーとしても充実し、ファンもしあわせな気持ちになる。
このように、
自他共に喜びが生まれるのは、理想的な人生である。
仏教の言葉で、
自利とは、菩提(悟り)を求めること、
利他は、衆生を救うこと。悟りに導くこと。
つまり、
みんなのしあわせ、菩薩はこれを同時に達成できると云う。
そんなことができるのだろうか、
と僕はずっと思っている。
2011年10月、高野山大学の講演で
煩悩障と所知障を断滅すれば、
自利と利他が同時に達成される
とダライ・ラマは云っていた。
煩悩障は、
悟りを妨げる全煩悩
所知障 は、
智慧を妨げるもの、煩悩の残りかす。
若い頃から仲間とは、
真言密教の目的は即身成仏であり、
そのために毎日三密行という修行をする。
即身成仏(今、この身のままで悟りを得ること)がなければ、
他を救うことはできないだろう。
行者の心は、
発心修行菩提涅槃の順であり、
自利がなければ、利他は難しいのではないか、
というような話になる。
利他できるレベルに、自分を持っていく、という考えである。
田中千秋先生は、
本来誰もが仏なのだから、すぐにでも一切衆生を救おうとするのが当たり前である。
もっと自分を作ってから先で、
というのは言い訳である。
「外道二乗はこの心をおこさない。ただ、菩薩大士のみがこの心をおこす。
菩薩大士はこの心をもって、法界無縁の一切衆生を観ること自分自身の如くである」
と三昧耶戒序にあるように、
もっと力をつけてから
というのは外道かもしれない
と『菩提心論講義』に書いている。
外道とは、仏教から離れた思想のこと。
そして、
人がすべて値打ちのある満徳を本来円満しているという基本から、
どういう生活を日常に展開するのか
それは、
自分で自分をけがすような恥知らずなことをしない。
周りの人々に対してみなそれぞれ仏さまである尊い人である。
もし人が気の毒な状態にある時は、
個人的な好き嫌いの感情をすてて懸命になって友情の手をさしのべる。
これが自利と利他である
と『仏性を伸ばす』にある。
それを観たファンも喜ぶ。
自分の成績が上がれば収入も増え、
プレーヤーとしても充実し、ファンもしあわせな気持ちになる。
このように、
自他共に喜びが生まれるのは、理想的な人生である。
仏教の言葉で、
自利とは、菩提(悟り)を求めること、
利他は、衆生を救うこと。悟りに導くこと。
つまり、
みんなのしあわせ、菩薩はこれを同時に達成できると云う。
そんなことができるのだろうか、
と僕はずっと思っている。
2011年10月、高野山大学の講演で
煩悩障と所知障を断滅すれば、
自利と利他が同時に達成される
とダライ・ラマは云っていた。
煩悩障は、
悟りを妨げる全煩悩
所知障 は、
智慧を妨げるもの、煩悩の残りかす。
若い頃から仲間とは、
真言密教の目的は即身成仏であり、
そのために毎日三密行という修行をする。
即身成仏(今、この身のままで悟りを得ること)がなければ、
他を救うことはできないだろう。
行者の心は、
発心修行菩提涅槃の順であり、
自利がなければ、利他は難しいのではないか、
というような話になる。
利他できるレベルに、自分を持っていく、という考えである。
田中千秋先生は、
本来誰もが仏なのだから、すぐにでも一切衆生を救おうとするのが当たり前である。
もっと自分を作ってから先で、
というのは言い訳である。
「外道二乗はこの心をおこさない。ただ、菩薩大士のみがこの心をおこす。
菩薩大士はこの心をもって、法界無縁の一切衆生を観ること自分自身の如くである」
と三昧耶戒序にあるように、
もっと力をつけてから
というのは外道かもしれない
と『菩提心論講義』に書いている。
外道とは、仏教から離れた思想のこと。
そして、
人がすべて値打ちのある満徳を本来円満しているという基本から、
どういう生活を日常に展開するのか
それは、
自分で自分をけがすような恥知らずなことをしない。
周りの人々に対してみなそれぞれ仏さまである尊い人である。
もし人が気の毒な状態にある時は、
個人的な好き嫌いの感情をすてて懸命になって友情の手をさしのべる。
これが自利と利他である
と『仏性を伸ばす』にある。
空腹のとき食べ物を求め、
病気のときは薬に頼るように、
心に迷いがある、
または
心とは何か、自分とは何か、を知りたければ、
修行したくなる。
空腹の度合いが高ければ、食べる量も多くなるように、
迷いが多ければ、修行も深くなる。
仏教では、
人はみなもともと仏であるが、
迷い煩悩にまみれて、それに気がつかない、
としている。
満月が雲に隠れているようなものである、と。
多くの場合、
その雲を取り除くことを考える。
迷い煩悩を修行や生活の工夫によって、はぎとれば、
満月が、仏が現れる、と。
僕らが備えている仏の(悟り、しあわせ)の可能性(仏性)を、
覆い隠している雲をいかにして払うかに努力する。
すると、
その雲にとらわれ、月を見失うことが少なくない。
悟りではなく、煩悩に関心を持ってしまう。
だから、
雲(迷い、苦しみ、悩み、不安、悲観的な思考)ではなく、
もともとある月(仏性、しあわせ、悟り)に着目したほうが、
悟る可能性は大きい。
お大師さんの高弟、実慧大徳の『大毘盧遮那経王疏伝』に
直住月宮 (じきじゅうがっくう)という言葉がある。
遠い月を望むのではなく、
そこに行って、直に坐る、ということ。
その月(仏性)がある、ということを知っていれば、
どんな困難も乗り越えられる力になる。
月に坐るのは、
三摩地という瞑想修行によるのだけれど、
これは、
身体と口(言葉)を使う。
能書きを読むのではなく、薬を飲むように、
言い訳をしないで実行するように、
目的地にジャンプするように、
対処療法よりも、体質を改善するように、
クダクダ言わずに遊びに熱中するように、
修法は身体的である。
もちろん、
三摩地などの瞑想修行も、
その基本にあるのは、
他に対する思いやりとやさしさという慈悲の心。
普段の生活で、
ありがとう、
おいしかった、
と誰かをほめれば、仏の口になり、
心の中で誰かに合掌礼拝すれば、仏の身体になる。
雲のような煩悩の根本は、
無始の間隔(けんきゃく)である。
人と仏を間隔(わか)つ微細の迷い
このために人は苦しむ。
しかし、
「三世の諸佛ことごとく中において現じ、本尊の身を証して普賢の一切の行願を満足す」
(『菩提心論』)
とあるように、
月に坐れば、
私の中に一切三世十方が映り、一切が入る。
自と他の間にはしきりが無くなる。
以上は、恩師の講義を僕なりにまとめたもの。
病気のときは薬に頼るように、
心に迷いがある、
または
心とは何か、自分とは何か、を知りたければ、
修行したくなる。
空腹の度合いが高ければ、食べる量も多くなるように、
迷いが多ければ、修行も深くなる。
仏教では、
人はみなもともと仏であるが、
迷い煩悩にまみれて、それに気がつかない、
としている。
満月が雲に隠れているようなものである、と。
多くの場合、
その雲を取り除くことを考える。
迷い煩悩を修行や生活の工夫によって、はぎとれば、
満月が、仏が現れる、と。
僕らが備えている仏の(悟り、しあわせ)の可能性(仏性)を、
覆い隠している雲をいかにして払うかに努力する。
すると、
その雲にとらわれ、月を見失うことが少なくない。
悟りではなく、煩悩に関心を持ってしまう。
だから、
雲(迷い、苦しみ、悩み、不安、悲観的な思考)ではなく、
もともとある月(仏性、しあわせ、悟り)に着目したほうが、
悟る可能性は大きい。
お大師さんの高弟、実慧大徳の『大毘盧遮那経王疏伝』に
直住月宮 (じきじゅうがっくう)という言葉がある。
遠い月を望むのではなく、
そこに行って、直に坐る、ということ。
その月(仏性)がある、ということを知っていれば、
どんな困難も乗り越えられる力になる。
月に坐るのは、
三摩地という瞑想修行によるのだけれど、
これは、
身体と口(言葉)を使う。
能書きを読むのではなく、薬を飲むように、
言い訳をしないで実行するように、
目的地にジャンプするように、
対処療法よりも、体質を改善するように、
クダクダ言わずに遊びに熱中するように、
修法は身体的である。
もちろん、
三摩地などの瞑想修行も、
その基本にあるのは、
他に対する思いやりとやさしさという慈悲の心。
普段の生活で、
ありがとう、
おいしかった、
と誰かをほめれば、仏の口になり、
心の中で誰かに合掌礼拝すれば、仏の身体になる。
雲のような煩悩の根本は、
無始の間隔(けんきゃく)である。
人と仏を間隔(わか)つ微細の迷い
このために人は苦しむ。
しかし、
「三世の諸佛ことごとく中において現じ、本尊の身を証して普賢の一切の行願を満足す」
(『菩提心論』)
とあるように、
月に坐れば、
私の中に一切三世十方が映り、一切が入る。
自と他の間にはしきりが無くなる。
以上は、恩師の講義を僕なりにまとめたもの。
密教では、
我即大日とか我即法界という言葉をよく使う。
大日は大日如来
(仙台市西光院の大日如来 )
大日如来の特徴は、僕らと似ていること。
異形ではなく、
手足が二本づつ、頭はひとつで、身を飾っている
法界の法は五大(地水火風空)のこと、
界は蔵とか入れ物。
つまり、宇宙のこと。
瞑想次第にも、
『五字略頌』には、
我はすなわちアビラウンケン(大日如来の真言)
『五相成身』には、
我即ち卒塔婆のごとく
とある。
卒塔婆は法界を表したもの、
また、
大日を象徴するもの。だから、裏表に大日如来の真言が書かれている。
日の丸が日本をあらわすように
卒塔婆が大日である。
我れが大日、というのは、
どこからかウルトラマンのように大日がやってくるのではなく、
自分の中から現れる。細胞ひとつひとつ大日である。
もちろん、
中身が変わるのである。
大日の智恵が現れる。
それは五つあり、
生活する智恵
創造する智恵
学習して向上する智恵
身体を使って慈悲の行動をする智恵
生命そのものの智恵
即法界だから、
それは僕の中だけではなく、
一切衆生に、宇宙全体に、一塵の土の中にもある。
勉強や練習を重ねたら、
仕事や遊びや試合で自分の能力を発揮するように、
祈りや瞑想修行も、
生活のなかで、食事中でも誰かと会っても、風呂でもトイレでも、
忘れないようにする。
修行を生活化日常化する。
そうして、役に立つ。
我即大日とか我即法界という言葉をよく使う。
大日は大日如来
(仙台市西光院の大日如来 )
大日如来の特徴は、僕らと似ていること。
異形ではなく、
手足が二本づつ、頭はひとつで、身を飾っている
法界の法は五大(地水火風空)のこと、
界は蔵とか入れ物。
つまり、宇宙のこと。
瞑想次第にも、
『五字略頌』には、
我はすなわちアビラウンケン(大日如来の真言)
『五相成身』には、
我即ち卒塔婆のごとく
とある。
卒塔婆は法界を表したもの、
また、
大日を象徴するもの。だから、裏表に大日如来の真言が書かれている。
日の丸が日本をあらわすように
卒塔婆が大日である。
我れが大日、というのは、
どこからかウルトラマンのように大日がやってくるのではなく、
自分の中から現れる。細胞ひとつひとつ大日である。
もちろん、
中身が変わるのである。
大日の智恵が現れる。
それは五つあり、
生活する智恵
創造する智恵
学習して向上する智恵
身体を使って慈悲の行動をする智恵
生命そのものの智恵
即法界だから、
それは僕の中だけではなく、
一切衆生に、宇宙全体に、一塵の土の中にもある。
勉強や練習を重ねたら、
仕事や遊びや試合で自分の能力を発揮するように、
祈りや瞑想修行も、
生活のなかで、食事中でも誰かと会っても、風呂でもトイレでも、
忘れないようにする。
修行を生活化日常化する。
そうして、役に立つ。
Ajikan is an early Shingon meditation practice.
Although it has many forms of varying complexity, it is focused on the sound, the form, and the meaning of the Sanskrit letter A, as a gateway to experience ultimate reality.
This practice is used by lay people and beginners as well as advanced priests to deepen their experience of the universe.
Although this technique seems simple, it provides rich diversity in experience, as one deepens their understanding.
In the Mahāvairocana Sutra it is said that the wisdom of Mahāvairocana is “to know one’s mind as it truly is.’
This is not our mind that is buffeted about through outside forces and experiences joy and sorrow from an ordinary perspective.
From birth we have been conditioned to create our own false ego, created by our own personal desires.
By believing in this ego, which gives you a false sense of reality in the real world, you will experience a sense of loss and suffering in your daily life.
The untainted pure main, before the ego driven views of reality, is the true mind.
In Shingon this true mind is called the mind originally unborn.
This untainted original mind directly links to the essence of the universe.
By using this body as a medium, you will be able to form the body of the self which embodies Mahāvairocana or the infinite universe.
Through learning the techniques of Ajikan the illusions of the desires and passions are dissolved and the nature of the Universe can be experienced.
(From ”SHINGON ESOTERIC BUDDHISM A HANDBOOK for FOLLOWERS")
Although it has many forms of varying complexity, it is focused on the sound, the form, and the meaning of the Sanskrit letter A, as a gateway to experience ultimate reality.
This practice is used by lay people and beginners as well as advanced priests to deepen their experience of the universe.
Although this technique seems simple, it provides rich diversity in experience, as one deepens their understanding.
In the Mahāvairocana Sutra it is said that the wisdom of Mahāvairocana is “to know one’s mind as it truly is.’
This is not our mind that is buffeted about through outside forces and experiences joy and sorrow from an ordinary perspective.
From birth we have been conditioned to create our own false ego, created by our own personal desires.
By believing in this ego, which gives you a false sense of reality in the real world, you will experience a sense of loss and suffering in your daily life.
The untainted pure main, before the ego driven views of reality, is the true mind.
In Shingon this true mind is called the mind originally unborn.
This untainted original mind directly links to the essence of the universe.
By using this body as a medium, you will be able to form the body of the self which embodies Mahāvairocana or the infinite universe.
Through learning the techniques of Ajikan the illusions of the desires and passions are dissolved and the nature of the Universe can be experienced.
(From ”SHINGON ESOTERIC BUDDHISM A HANDBOOK for FOLLOWERS")