野菜を切って塩と酢を振り、
味噌汁の残りでお揚げを煮しめ、
ゆでた中華麺と和える。
ごま油とコショウを少し。
麺と野菜は同量くらいがいい。
それはさておき、
地下深いところに地獄があって、悪いことをするとそこへ堕ちる。
人は死んで四十九日経つと生まれ変わる。
お盆にはご先祖さまが帰ってくる。
こういうことが、そのまま生活に溶け込んでいるような人もいますし、
そんなバカバカしいことがあるもんか、という人もいる。
いやいや、
それは何かの象徴で、真実を説明するための方便なんだ、という人もいる。
お盆はご存知のように盂蘭盆の略ですが、
その語源は、
サンスクリット語のウランバナ(倒懸・逆さづり)という説があるけれど、
僕はアヴェスター語のウルヴァン(霊魂)だと考えています。
サンスクリット語とアヴェスター語は同じインド・ヨーロッパ語族。
日本では、
606年推古天皇の時、盂蘭盆の斎会で、七世の父母の恩に報いるといったことが行われており、古い習慣です。
お盆も地獄極楽も生まれ変わりも、
それを信じていると、自分の行いを正し、自分の死を冷静に考えるきっかけになりますから、
まったく無意味では無い。
もし、貪り怒り愚痴疑い慢心があれば、
そこから苦しみや迷いが生まれます。
ということは、
貪り怒り愚痴疑い慢心が無ければ、苦しみ迷いという執著(これがあるものを生と云う)も無く、
生がなければ(迷いとしての)死も無い。
実際には、僕らはいつか死んでしまうけれど、
死すべき身であることを知り、命を喜び、人に生まれたことの意味を探すのが求道。
既に死んでしまった人には、
生きている周りの人がそれを考えて生きる。
故人の長所に学んで自分の生きかたを考えることを供養と云い、
拝むことで、他への心遣いを練習することを回向といいます。
味噌汁の残りでお揚げを煮しめ、
ゆでた中華麺と和える。
ごま油とコショウを少し。
麺と野菜は同量くらいがいい。
それはさておき、
地下深いところに地獄があって、悪いことをするとそこへ堕ちる。
人は死んで四十九日経つと生まれ変わる。
お盆にはご先祖さまが帰ってくる。
こういうことが、そのまま生活に溶け込んでいるような人もいますし、
そんなバカバカしいことがあるもんか、という人もいる。
いやいや、
それは何かの象徴で、真実を説明するための方便なんだ、という人もいる。
お盆はご存知のように盂蘭盆の略ですが、
その語源は、
サンスクリット語のウランバナ(倒懸・逆さづり)という説があるけれど、
僕はアヴェスター語のウルヴァン(霊魂)だと考えています。
サンスクリット語とアヴェスター語は同じインド・ヨーロッパ語族。
日本では、
606年推古天皇の時、盂蘭盆の斎会で、七世の父母の恩に報いるといったことが行われており、古い習慣です。
お盆も地獄極楽も生まれ変わりも、
それを信じていると、自分の行いを正し、自分の死を冷静に考えるきっかけになりますから、
まったく無意味では無い。
もし、貪り怒り愚痴疑い慢心があれば、
そこから苦しみや迷いが生まれます。
ということは、
貪り怒り愚痴疑い慢心が無ければ、苦しみ迷いという執著(これがあるものを生と云う)も無く、
生がなければ(迷いとしての)死も無い。
実際には、僕らはいつか死んでしまうけれど、
死すべき身であることを知り、命を喜び、人に生まれたことの意味を探すのが求道。
既に死んでしまった人には、
生きている周りの人がそれを考えて生きる。
故人の長所に学んで自分の生きかたを考えることを供養と云い、
拝むことで、他への心遣いを練習することを回向といいます。
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薬を信用していれば、
病人は薬があることで安心し、
貧乏は金銭により安心する。
医薬金銭が病貧乏に効験あることを信じている人は多い。
同じように、
僕らは、悟りとそれに向かう修行方法を信じています。
でも、
貧乏や病気と違い、
すぐに効用が現れないし、
そもそも、悟りを必要と考えている人は多くないだろうな。
そのあたりが、仏教の大きな問題なのだけれど、
お盆には多くの人が祈ります。
何を祈っているのだろうか。
祈れば功徳があるけれど、
それは与えられる報償ではなくて、
修行できることが功徳。
修行できるということは、
心に潤いを受けること。
心が乾燥していると、怒りや貪りの火種になる。
世界はそういう人が少なくないらしいと、
毎日のニュースで感じる。
仏教は慈悲を大切にしているけれど、
それは単なる施しではなく、苦楽を分かち合うこと。
それが心楽しいことなのは、
夫婦恋人親子師弟なら感じることなのだけれど、
忘れていることが多いのだろうな。
O157の写真を見ると、陰性な形状をしています。症状も極めて陰性。
ですから、陰性な体調で感染し、手当ては陽性な飲み物
マダニのSFTS ウイルスは丸い陽性な形。
なので、陽性な体調で感染し、手当ては陰性なもの
と考えられます。
それはさておき、
夏は先祖供養の季節ですが、先祖供養とはいったい何だろうか。
『性霊集』には、
故人の周忌に法要を営んだ時の願文や表白が二十八あります。
内容は、
死者の追善菩提を願う
死霊が悟りの世界に至ること(成仏)を祈願する
こと。
僕らは仏性(仏の性質、悟る可能性)を持っていますから、
修行して仏になる(成仏する)、悟りにいたる可能性があります。
もし、
死霊や霊魂があるならば、それにも仏性があるはず。
霊は仏性そのもの、とも云えます。
悟る可能性を持ったまま亡くなった人に対して、
悟る可能性が確実な僕らが供養します。
これは、
死者を拝むのではなく、
仏菩薩に供養することで、故人の菩提(悟り=成仏)を祈願します。
ですから、
家内安全商売繁盛息災延命試験合格交通安全を願うことと同じ。
供養の原理は三密行(供養法)という修法ですが、
これは仏・自分・衆生が三平等であるという立場です。
そして、
悟りを願うが故に救済されます。
僕が知らないところで、誰かが僕の幸せを祈っている。
そのことで僕が救済される。
供養は、サンスクリット語のプージャー(pūjā)の訳で、本来の意味は「尊敬する」
仏、菩薩、諸天に香・華・燈明・飲食などの供物を捧げます。
それらの供物は供養の象徴で、
香は持戒すること、華は耐え忍ぶこと、灯明は勉強すること、飲食は心静かに瞑想すること
これらの行為で、
自心中の仏に対して、供養します。
さらに、
『理趣経』には、
「発菩提心則為於諸如來廣大供養」
とあり、
菩提心をおこすことが供養の第一。
悟りを求める心を起すことですが、
『菩提心論』に、
悟りを求めるものに必要なのは、
向上心と慈悲心と秘観を修法すること。
具体的には、
何かをしてあげようとする心、喜びを表すこと、他人のために日常生活で実践すること、心を探求しコントロールすること。
それが、自他ともに悟りへ導こうとする心になり、
故人の成仏につながります。
ですから、陰性な体調で感染し、手当ては陽性な飲み物
マダニのSFTS ウイルスは丸い陽性な形。
なので、陽性な体調で感染し、手当ては陰性なもの
と考えられます。
それはさておき、
夏は先祖供養の季節ですが、先祖供養とはいったい何だろうか。
『性霊集』には、
故人の周忌に法要を営んだ時の願文や表白が二十八あります。
内容は、
死者の追善菩提を願う
死霊が悟りの世界に至ること(成仏)を祈願する
こと。
僕らは仏性(仏の性質、悟る可能性)を持っていますから、
修行して仏になる(成仏する)、悟りにいたる可能性があります。
もし、
死霊や霊魂があるならば、それにも仏性があるはず。
霊は仏性そのもの、とも云えます。
悟る可能性を持ったまま亡くなった人に対して、
悟る可能性が確実な僕らが供養します。
これは、
死者を拝むのではなく、
仏菩薩に供養することで、故人の菩提(悟り=成仏)を祈願します。
ですから、
家内安全商売繁盛息災延命試験合格交通安全を願うことと同じ。
供養の原理は三密行(供養法)という修法ですが、
これは仏・自分・衆生が三平等であるという立場です。
そして、
悟りを願うが故に救済されます。
僕が知らないところで、誰かが僕の幸せを祈っている。
そのことで僕が救済される。
供養は、サンスクリット語のプージャー(pūjā)の訳で、本来の意味は「尊敬する」
仏、菩薩、諸天に香・華・燈明・飲食などの供物を捧げます。
それらの供物は供養の象徴で、
香は持戒すること、華は耐え忍ぶこと、灯明は勉強すること、飲食は心静かに瞑想すること
これらの行為で、
自心中の仏に対して、供養します。
さらに、
『理趣経』には、
「発菩提心則為於諸如來廣大供養」
とあり、
菩提心をおこすことが供養の第一。
悟りを求める心を起すことですが、
『菩提心論』に、
悟りを求めるものに必要なのは、
向上心と慈悲心と秘観を修法すること。
具体的には、
何かをしてあげようとする心、喜びを表すこと、他人のために日常生活で実践すること、心を探求しコントロールすること。
それが、自他ともに悟りへ導こうとする心になり、
故人の成仏につながります。
1、真言密教と真言宗の違い
弘法大師空海像 (金剛峰寺ホームページから)
お大師さんは少し右向きである。
以前から、
真言宗というグループの中にいて、何となく違和感を感じていたのだけれど、
「真言八祖像の成立と弘法大師信仰ー空海御影と「仏教三国」をめぐってー」
(『立命館史学』23、2002)
を読んで、そのモヤモヤが少し氷解した。
それは、
真言密教と真言宗は違う、ということ。
真言密教は『大日経』と『金剛頂経』をよりどころとし、
悟り(即身成仏)を目的に、数々の修行方法を実践する。
大悲(自他を救うこと)
勝義(道を求めること)
三摩地(心を静かにまとめる瞑想修行)
が基本。
祖師は金剛智、不空、一行、善無畏、恵果の五人。(実在の人のみ)
真言宗も、よりどころとする経典や目的は同じだけれど、
お大師さんの思想が中心になり、祖師は弘法大師空海。
当然、インド中国から伝わった大日経・金剛頂経にお大師さんは登場しない。
真言宗で必修とされている十巻章には、
お大師さんが引用した両経典の文章があるけれど、それはお大師さんの思想を経ているから、
原典を読むのとは理解が少し違う。
そして、
真言宗はお大師さんが入定した後、お大師さんを祖師(大師堂や御影堂の本尊)として拝み、
お大師さんが入定した21日に行う御影供(みえく)は重要な儀式になっており、
真言密教よりは民衆に近い仏教であると云える。
真理の体得は人によるのか、教えによるか、考えかたが二通りある。
お釈迦さまを礼拝するのか、お釈迦さまが説いた四諦八正道の勉強と実践によるのか。
お大師さんを拝むのか、お大師さんが体系づけた実践修行によるのか。
人を拝む場合、
勉強と実践は二の次でもしなくてもかまわない。ただ、心から拝めばよろしいという雰囲気になる。
したがって、
即身成仏(悟り)は薄れ、思想の外に出てしまいがちである。
特に、
お大師さんは十住心思想などによって、
霊魂の存続という非仏教的な思想を、
成仏への祈願という仏教的行為に転換させたから、
死者に対する儀礼が重要視され、
修行による悟りを求めなくても、
葬送儀礼先祖供養ができればよい宗教になってきた一面がある。
お大師さんを礼拝するけれど、
お大師さんの教理、成仏論、仏身論は知らない人が少なくない。そこに真言密教があるのだけれど、
以下、明日。
弘法大師空海像 (金剛峰寺ホームページから)
お大師さんは少し右向きである。
以前から、
真言宗というグループの中にいて、何となく違和感を感じていたのだけれど、
「真言八祖像の成立と弘法大師信仰ー空海御影と「仏教三国」をめぐってー」
(『立命館史学』23、2002)
を読んで、そのモヤモヤが少し氷解した。
それは、
真言密教と真言宗は違う、ということ。
真言密教は『大日経』と『金剛頂経』をよりどころとし、
悟り(即身成仏)を目的に、数々の修行方法を実践する。
大悲(自他を救うこと)
勝義(道を求めること)
三摩地(心を静かにまとめる瞑想修行)
が基本。
祖師は金剛智、不空、一行、善無畏、恵果の五人。(実在の人のみ)
真言宗も、よりどころとする経典や目的は同じだけれど、
お大師さんの思想が中心になり、祖師は弘法大師空海。
当然、インド中国から伝わった大日経・金剛頂経にお大師さんは登場しない。
真言宗で必修とされている十巻章には、
お大師さんが引用した両経典の文章があるけれど、それはお大師さんの思想を経ているから、
原典を読むのとは理解が少し違う。
そして、
真言宗はお大師さんが入定した後、お大師さんを祖師(大師堂や御影堂の本尊)として拝み、
お大師さんが入定した21日に行う御影供(みえく)は重要な儀式になっており、
真言密教よりは民衆に近い仏教であると云える。
真理の体得は人によるのか、教えによるか、考えかたが二通りある。
お釈迦さまを礼拝するのか、お釈迦さまが説いた四諦八正道の勉強と実践によるのか。
お大師さんを拝むのか、お大師さんが体系づけた実践修行によるのか。
人を拝む場合、
勉強と実践は二の次でもしなくてもかまわない。ただ、心から拝めばよろしいという雰囲気になる。
したがって、
即身成仏(悟り)は薄れ、思想の外に出てしまいがちである。
特に、
お大師さんは十住心思想などによって、
霊魂の存続という非仏教的な思想を、
成仏への祈願という仏教的行為に転換させたから、
死者に対する儀礼が重要視され、
修行による悟りを求めなくても、
葬送儀礼先祖供養ができればよい宗教になってきた一面がある。
お大師さんを礼拝するけれど、
お大師さんの教理、成仏論、仏身論は知らない人が少なくない。そこに真言密教があるのだけれど、
以下、明日。
2、事実と信仰の空海
『大日経』も『金剛頂経』もそれがあるだけでは広まらず、
お大師さんによって弘通された。『菩提心論』も『般若心経』も同じ。
僕ら末徒は、それによって教化され理解を深めている。
偉人といわれるような人は、永遠のいのちを持つ。
お釈迦さまやキリストさま、お大師さんもそうである。
遺族が故人先祖を思うのと、構造は同じ。
仏教は空無我の教えであるから、
ある特定の人を実在のように拝むのはおかしいけれど、
父を慕うように、
師に憧れるように、
学ぶべき存在として、
行き詰まりがある時の支えとして、
拝むことは信仰の入り口である。
そこから、混じり気の無い心が生まれ、
自分だけではなく他を思う気持ちにつながり、
自分にとってより良い教えを取勝捨劣し、
心をコントロールできるようにする。
お大師さんは垂迹である、という論文がある。
http:// ci.nii. ac.jp/n aid/400 1935555 8
本地は第三地の菩薩で、だから、同行二人であり、奥の院で今でも修行している。
これは『御遺告』「初めに真言宗成立の由来を示す縁起第一」による。
さて、
お大師さんの画像がなぜ、右を向いているのか、ということについて、
正面より斜めのほうが図画として効果的なのか、という僕の質問に、
仏師・木村光秀師は、
「特に祖師像はその人の見た目から、内面性迄も後世に残さないといけませんので、絵師が本人を見ながらというのならいいのですが、第三者が特徴を伝えながら描かせる場合、斜めの方が描きやすいと思います」
と教えてくれた。
『弘法大師影像図考』(水原尭栄 著)には、
畫面はたいてい横向きの線に書かれてありまして、御頭の曲線あたりの特徴は骨相学上より見まして大師様の諸芸通達見諦の大阿闍梨として発達せる有様を骨相の上よりも書き出されてゐるのでないか
とある。
真言八祖像を見ると、
龍猛、善無畏、お大師さんは右向き
龍智、金剛智、不空、一行、恵果の六師は左向きである。
描かれている印相を見ると、
龍猛、善無畏、お大師さんは加持をしている姿で、他は違う。
右向きというのは、加持をしている姿なのだろうか。
それも、
お大師さんが持っているのは五鈷であるから、
本尊ではなく衆生(人)、拝む僕らを加持している姿である。
『大日経』も『金剛頂経』もそれがあるだけでは広まらず、
お大師さんによって弘通された。『菩提心論』も『般若心経』も同じ。
僕ら末徒は、それによって教化され理解を深めている。
偉人といわれるような人は、永遠のいのちを持つ。
お釈迦さまやキリストさま、お大師さんもそうである。
遺族が故人先祖を思うのと、構造は同じ。
仏教は空無我の教えであるから、
ある特定の人を実在のように拝むのはおかしいけれど、
父を慕うように、
師に憧れるように、
学ぶべき存在として、
行き詰まりがある時の支えとして、
拝むことは信仰の入り口である。
そこから、混じり気の無い心が生まれ、
自分だけではなく他を思う気持ちにつながり、
自分にとってより良い教えを取勝捨劣し、
心をコントロールできるようにする。
お大師さんは垂迹である、という論文がある。
http://
本地は第三地の菩薩で、だから、同行二人であり、奥の院で今でも修行している。
これは『御遺告』「初めに真言宗成立の由来を示す縁起第一」による。
さて、
お大師さんの画像がなぜ、右を向いているのか、ということについて、
正面より斜めのほうが図画として効果的なのか、という僕の質問に、
仏師・木村光秀師は、
「特に祖師像はその人の見た目から、内面性迄も後世に残さないといけませんので、絵師が本人を見ながらというのならいいのですが、第三者が特徴を伝えながら描かせる場合、斜めの方が描きやすいと思います」
と教えてくれた。
『弘法大師影像図考』(水原尭栄 著)には、
畫面はたいてい横向きの線に書かれてありまして、御頭の曲線あたりの特徴は骨相学上より見まして大師様の諸芸通達見諦の大阿闍梨として発達せる有様を骨相の上よりも書き出されてゐるのでないか
とある。
真言八祖像を見ると、
龍猛、善無畏、お大師さんは右向き
龍智、金剛智、不空、一行、恵果の六師は左向きである。
描かれている印相を見ると、
龍猛、善無畏、お大師さんは加持をしている姿で、他は違う。
右向きというのは、加持をしている姿なのだろうか。
それも、
お大師さんが持っているのは五鈷であるから、
本尊ではなく衆生(人)、拝む僕らを加持している姿である。
『六大新報』460-462(1912年)に、
栂尾祥雲先生の「引導法の研究」が連載されていたので、
担当者に頼んで複写を送ってもらう。
個人的意見を加えてまとめました。
1、引導の起源
引導と云う言葉は
「衆生を引導す」(『法華経』方便品)
「仏自ら浄飯王を引導した」(『浄飯王般泥涅経』)
が始まりか。
大乗以前は、
僧侶が俗家の葬儀に関与することを禁じていた(『善見律』)
2、仏式葬儀の起源(日本)
622年 聖徳太子薨去のとき、
高麗の僧 恵慈が僧を請じ、齋を設けた(『日本書紀』第二十二)
702年(大寶2年)持統天皇を飛鳥の岡に火葬。 元興寺道昭により始行
756年(天平勝寶8年)聖武天皇崩御 香、華鬘、蓋繖などの仏器を用い、僧侶が讃唄を唱える。 これは誅詞のようなもの
まだ、引導作法というものは無い。
当時の一般庶民は、
家長が葬り、土葬、水葬、風葬などで棺は無く、遺体は山野に捨て置くことが多かった。
822年ころ、『日本霊異記』(薬師寺 景戒)で、
漢の「冥報記」に擬して、追善の修すべきこと、写経読誦の功徳を説く。
__________
同時期の『性霊集』に、忌日追善の願文・表白が28編ある。
空海は宝亀5年(774年) - 承和2年(835年)
__________
3、その後、
『引導大事』御流(大師作とあるが偽作)流通。
内容は、
授戒名、授戒、引導大事(智拳印)、アビラウンケン、仏眼、オン字、血脈、撥遣、
純粋に密教思想(即身成仏為本)に基づき、浄土思想は無い。
空海の時代、戒名をつけることは無かった。
支那では、
黄檗の希運禅師が引導の開祖(『山海里』)
「北星河水流不尽 我子五逆入無所
一子出家九族生天 此語妄語諸佛亦妄語」
(死せる母に対する引導)
延喜以降、日本では陰陽師が陰陽道によって葬儀を行う。
1036年(長元9年)後一条天皇の葬儀(『類聚雑例』)
入棺後、殯宮に奉還し、翌日葬送
時日方角は陰陽師による
次第は、
黄幡
炬火者 十二人
御前僧 二十人 ⇒ 『浄飯王般泥涅経』棺前引導に擬したもの 天台僧が担当。
歩障
火輿
行障
御輿
香与
御膳辛櫃
開白相府
以下行列
引導法の基礎は、仁海僧正(951-1046)による。
それは、
宇治の関白頼道公のため経帷子に、
即身成仏の真言、決定往生の真言を書く
さらに、
陰陽師が行う地鎮法に密教の根拠を調えた。(地鎮法「付真言宗取葬所事」)
覚鑁上人(1095-1144)の「一期大要秘密集」に、
決定用心の事 、引導大事の次第がある。
______________
ここには、
大日如来の教令輪真にして、諸魔降伏忿怒の尊たる不動尊を祈念して、
天魔外道の障礙を避けることが書かれている。
葬儀の本尊は不動、という根拠のひとつかもしれない。
_______________
覚鑁さんの次第は、
まず死者に授戒、授戒名 仏弟子ならしめる。
これは、『善見律』などに、仏弟子にあらざるものを引導する事を禁じているから。
そして、
導師自身がまず成仏してから、亡者を成仏させる次第になっている。
_________________
現代でも、
引導の前に、自坊で不動法一座を修法すること
が伝授されるので、導師はそうするべきであろう。
_____________
鎌倉時代
成賢師『作法集』中の『葬送作法』では、
導師みづから成仏の観を成じたる後、初めて亡者を加持する
墓所を浄土とする
とある。
室町時代
浄土思想が取り入れられる(世間で大流行していたから)
具体的には、
阿弥陀如来来迎印、六地蔵、十三仏の思想など。
1254年(建長6年)の『十王讃嘆鈔』には、
年忌は三回忌まで(10回)
これによって、人死すれば直ちに不動を本尊として不動印明を結誦する、となった。
http:// base1.n ijl.ac. jp/ivie w/Frame .jsp?DB _ID=G00 03917KT M&C_COD E=0026- 51101&I MG_SIZE =&PROC_ TYPE=nu ll&SHOM EI=%E3% 80%90%E 5%8D%81 %E7%8E% 8B%E8%A E%83%E5 %98%86% E4%BF%A E%E5%96 %84%E9% 88%94%E 5%9B%B3 %E7%B5% B5%E3%8 0%91&RE QUEST_M ARK=nul l&OWNER =null&I MG_NO=3 6
当時の次第は、往生浄土系の印言と、即身成仏の印言で構成された。
その後、高野山では『二巻疏』が著されるが、中の「引導作法」は不調和であり、
「引導略作法」は調和した内容になっている。
_______________
現在では、
『引導作法上・下』(東方出版 伊藤真城監修)
に、その引導略作法がある。
略作法といっても、
実際に使うには、とても煩雑で長い時間が必要。
________________
さて、
引導は、相手を仏道に引き入れることだけれど、
死者に対して行う、というのはどういうことだろうか。
当然のことながら、
死者も死者の魂も、墓や仏壇や寺にあるのではなく、心の中にある。
死者が行くとされる浄土も地獄も心の中にあり、密教では現世が浄土と考える。
ということは、拝む人を引導することになる。
そのような次第になっているのだろうか。
そして、
引導する資格があるのかどうかを自らに問い、
その資質が保てるよう、導師は普段から努力精進しなければならない。
栂尾祥雲先生の「引導法の研究」が連載されていたので、
担当者に頼んで複写を送ってもらう。
個人的意見を加えてまとめました。
1、引導の起源
引導と云う言葉は
「衆生を引導す」(『法華経』方便品)
「仏自ら浄飯王を引導した」(『浄飯王般泥涅経』)
が始まりか。
大乗以前は、
僧侶が俗家の葬儀に関与することを禁じていた(『善見律』)
2、仏式葬儀の起源(日本)
622年 聖徳太子薨去のとき、
高麗の僧 恵慈が僧を請じ、齋を設けた(『日本書紀』第二十二)
702年(大寶2年)持統天皇を飛鳥の岡に火葬。 元興寺道昭により始行
756年(天平勝寶8年)聖武天皇崩御 香、華鬘、蓋繖などの仏器を用い、僧侶が讃唄を唱える。 これは誅詞のようなもの
まだ、引導作法というものは無い。
当時の一般庶民は、
家長が葬り、土葬、水葬、風葬などで棺は無く、遺体は山野に捨て置くことが多かった。
822年ころ、『日本霊異記』(薬師寺 景戒)で、
漢の「冥報記」に擬して、追善の修すべきこと、写経読誦の功徳を説く。
__________
同時期の『性霊集』に、忌日追善の願文・表白が28編ある。
空海は宝亀5年(774年) - 承和2年(835年)
__________
3、その後、
『引導大事』御流(大師作とあるが偽作)流通。
内容は、
授戒名、授戒、引導大事(智拳印)、アビラウンケン、仏眼、オン字、血脈、撥遣、
純粋に密教思想(即身成仏為本)に基づき、浄土思想は無い。
空海の時代、戒名をつけることは無かった。
支那では、
黄檗の希運禅師が引導の開祖(『山海里』)
「北星河水流不尽 我子五逆入無所
一子出家九族生天 此語妄語諸佛亦妄語」
(死せる母に対する引導)
延喜以降、日本では陰陽師が陰陽道によって葬儀を行う。
1036年(長元9年)後一条天皇の葬儀(『類聚雑例』)
入棺後、殯宮に奉還し、翌日葬送
時日方角は陰陽師による
次第は、
黄幡
炬火者 十二人
御前僧 二十人 ⇒ 『浄飯王般泥涅経』棺前引導に擬したもの 天台僧が担当。
歩障
火輿
行障
御輿
香与
御膳辛櫃
開白相府
以下行列
引導法の基礎は、仁海僧正(951-1046)による。
それは、
宇治の関白頼道公のため経帷子に、
即身成仏の真言、決定往生の真言を書く
さらに、
陰陽師が行う地鎮法に密教の根拠を調えた。(地鎮法「付真言宗取葬所事」)
覚鑁上人(1095-1144)の「一期大要秘密集」に、
決定用心の事 、引導大事の次第がある。
______________
ここには、
大日如来の教令輪真にして、諸魔降伏忿怒の尊たる不動尊を祈念して、
天魔外道の障礙を避けることが書かれている。
葬儀の本尊は不動、という根拠のひとつかもしれない。
_______________
覚鑁さんの次第は、
まず死者に授戒、授戒名 仏弟子ならしめる。
これは、『善見律』などに、仏弟子にあらざるものを引導する事を禁じているから。
そして、
導師自身がまず成仏してから、亡者を成仏させる次第になっている。
_________________
現代でも、
引導の前に、自坊で不動法一座を修法すること
が伝授されるので、導師はそうするべきであろう。
_____________
鎌倉時代
成賢師『作法集』中の『葬送作法』では、
導師みづから成仏の観を成じたる後、初めて亡者を加持する
墓所を浄土とする
とある。
室町時代
浄土思想が取り入れられる(世間で大流行していたから)
具体的には、
阿弥陀如来来迎印、六地蔵、十三仏の思想など。
1254年(建長6年)の『十王讃嘆鈔』には、
年忌は三回忌まで(10回)
これによって、人死すれば直ちに不動を本尊として不動印明を結誦する、となった。
http://
当時の次第は、往生浄土系の印言と、即身成仏の印言で構成された。
その後、高野山では『二巻疏』が著されるが、中の「引導作法」は不調和であり、
「引導略作法」は調和した内容になっている。
_______________
現在では、
『引導作法上・下』(東方出版 伊藤真城監修)
に、その引導略作法がある。
略作法といっても、
実際に使うには、とても煩雑で長い時間が必要。
________________
さて、
引導は、相手を仏道に引き入れることだけれど、
死者に対して行う、というのはどういうことだろうか。
当然のことながら、
死者も死者の魂も、墓や仏壇や寺にあるのではなく、心の中にある。
死者が行くとされる浄土も地獄も心の中にあり、密教では現世が浄土と考える。
ということは、拝む人を引導することになる。
そのような次第になっているのだろうか。
そして、
引導する資格があるのかどうかを自らに問い、
その資質が保てるよう、導師は普段から努力精進しなければならない。
日光唐辛子の辛さは上品で、料理に少し混ぜるとさわやかでうまい。
この時期たくさん採れるので、
純米酒と純正醤油同量のみで佃煮にすると、酒にも飯にも合う。
それはさておき、
何か目的のために、初心者初級のトレーニングから始め、
段階を踏んで少しづつ上昇し、ついには目的地に至る。
勉強なら試験に合格し、スポーツなら一等賞になる、というようなこと。
その間、少しづつ練習を積み重ねていくのが年季になり、
一足飛びに栄光はつかめないものである。
このように、
出発点から努力工夫トレーニングによりゴールを目指すことは、何事においても普通のことで、
途中で投げ出してしまうことも少なくない。
でも、
ゴール地点から見れば、スタートからの様子がよくわかる。
ゴール未経験の場合、
スタート地点ではゴールの様子はよくわからないけれど、
そして、スタートよりゴールのほうが価値あるものだけれど、
ゴールに到達した目で見れば、
スタートはゴールの一部であり、価値は同じである。
多くの場合、
凡人は出発点で遠いゴールに憧れ、
覚者は到達点にいるから、スタートからの様子がすべて理解できる。
人は皆、心のレベルにおいてはすでにゴールしているのに、
それを忘れてスタート地点であたふたしている。
だから、
もう少し心のことを知れば、すべてのことが解決します。
心は車輪が回転するように、
マグロが泳ぎ続けるように、
とどまることなく動きながら変化しています。
無始から無終、人生の続く限り続いている。
その過程で、
仏のような優しい心になったり、地獄みたいな残忍な気持ちを抱いたり、
クルクル変わりながら続いています。
これを心続生と云い(心は連続して生じるから、固定した実体は無い)
聖俗の立場は、その中の違いに過ぎない。
この時期たくさん採れるので、
純米酒と純正醤油同量のみで佃煮にすると、酒にも飯にも合う。
それはさておき、
何か目的のために、初心者初級のトレーニングから始め、
段階を踏んで少しづつ上昇し、ついには目的地に至る。
勉強なら試験に合格し、スポーツなら一等賞になる、というようなこと。
その間、少しづつ練習を積み重ねていくのが年季になり、
一足飛びに栄光はつかめないものである。
このように、
出発点から努力工夫トレーニングによりゴールを目指すことは、何事においても普通のことで、
途中で投げ出してしまうことも少なくない。
でも、
ゴール地点から見れば、スタートからの様子がよくわかる。
ゴール未経験の場合、
スタート地点ではゴールの様子はよくわからないけれど、
そして、スタートよりゴールのほうが価値あるものだけれど、
ゴールに到達した目で見れば、
スタートはゴールの一部であり、価値は同じである。
多くの場合、
凡人は出発点で遠いゴールに憧れ、
覚者は到達点にいるから、スタートからの様子がすべて理解できる。
人は皆、心のレベルにおいてはすでにゴールしているのに、
それを忘れてスタート地点であたふたしている。
だから、
もう少し心のことを知れば、すべてのことが解決します。
心は車輪が回転するように、
マグロが泳ぎ続けるように、
とどまることなく動きながら変化しています。
無始から無終、人生の続く限り続いている。
その過程で、
仏のような優しい心になったり、地獄みたいな残忍な気持ちを抱いたり、
クルクル変わりながら続いています。
これを心続生と云い(心は連続して生じるから、固定した実体は無い)
聖俗の立場は、その中の違いに過ぎない。
長野県飯田市 立石寺の話です。
お寺の名前は現在、「りっしゃくじ」で通用していますが、
「立石寺観音堂縁起」を確認すると、
857年(今から1160年前)宥範阿闍梨開創時は、
大悲山普門寺
という名でしたが、一夜のうちに聖石が大地より出現した因縁により立石寺と改め、
復興に尽力した甲賀三郎兼家(鹿射ちの名手、ほぼ伝説上の人物)が九百にあまる鹿を射ち、
その供養のために千頭山と改めた、
と記されています。
また、『下伊那史』は、
市内 伊豆木の天台別院観音寺が移され、
地名によって立石寺に改められた後、真言宗になった
という説を載せています。
これが興味深いのは、
現在の本堂にある台灯籠には菊紋(天台宗)があり、
寺の隣には比叡山の鎮守と同じ日枝神社がある、
とつながるから。
さらに、
創建時、比叡山から杉を持参したという記事もあります。(『南信濃 飯田ものがたり』)
かつては寺の境内だったという、立石集落のどこからでも見える夫婦杉(雄杉、雌杉)は
東西に並んでおり、
彼岸中日には、雄杉の陰が伸びて雌杉の根本に至り、
雌杉の陰が雄杉に達する景色が、朝日夕陽の二回見られるようなので、いつか確認したいものです。
年に二回だけ、ふたりが寄り添い語り合うようで、何だかとても美しい。
養蚕が盛んだった地域では、蚕に感謝し供養する風習がいろいろありますが、
立石寺には蚕玉堂があります。近隣のお寺にもあるらしい。
ここには馬鳴菩薩が祀られている、とのこと。
この馬鳴(めみょう)は、
『ブッダ・チャリタ』や『大乗起信論』の馬鳴(Aśvaghoṣa, アシュヴァゴーシャ)とは別人。
仏典には、馬鳴と蚕が関係する記述は無く、
中国撰述であろう『馬鳴儀軌』が出典
http:// www.chi san.or. jp/file s/user/ pdfD/ge ndaimik kyo/14p df/09.p df
そこには、
裸形衆生のために衣服を成じようと馬鳴が誓願を立てた。
馬鳴曼荼羅の眷属に蠶(蚕)質がある。
などとあり、
『寶林傳』では、馬鳴が蚕に変化した、とあります(本生譚?)
いずれにしても中国作の民間信仰で、道教の影響かもしれない。
_____________________________
※「仏教塾・密教塾」では、
研究調査費用の応援・援助を募集しております。
お気持ちがありましたら、よろしくお願いいたします。
お寺の名前は現在、「りっしゃくじ」で通用していますが、
「立石寺観音堂縁起」を確認すると、
せんとうざん たていしでら(千頭山立石寺)
とあります。 857年(今から1160年前)宥範阿闍梨開創時は、
大悲山普門寺
という名でしたが、一夜のうちに聖石が大地より出現した因縁により立石寺と改め、
復興に尽力した甲賀三郎兼家(鹿射ちの名手、ほぼ伝説上の人物)が九百にあまる鹿を射ち、
その供養のために千頭山と改めた、
と記されています。
また、『下伊那史』は、
市内 伊豆木の天台別院観音寺が移され、
地名によって立石寺に改められた後、真言宗になった
という説を載せています。
これが興味深いのは、
現在の本堂にある台灯籠には菊紋(天台宗)があり、
寺の隣には比叡山の鎮守と同じ日枝神社がある、
とつながるから。
さらに、
創建時、比叡山から杉を持参したという記事もあります。(『南信濃 飯田ものがたり』)
かつては寺の境内だったという、立石集落のどこからでも見える夫婦杉(雄杉、雌杉)は
東西に並んでおり、
彼岸中日には、雄杉の陰が伸びて雌杉の根本に至り、
雌杉の陰が雄杉に達する景色が、朝日夕陽の二回見られるようなので、いつか確認したいものです。
年に二回だけ、ふたりが寄り添い語り合うようで、何だかとても美しい。
養蚕が盛んだった地域では、蚕に感謝し供養する風習がいろいろありますが、
立石寺には蚕玉堂があります。近隣のお寺にもあるらしい。
ここには馬鳴菩薩が祀られている、とのこと。
この馬鳴(めみょう)は、
『ブッダ・チャリタ』や『大乗起信論』の馬鳴(Aśvaghoṣa, アシュヴァゴーシャ)とは別人。
仏典には、馬鳴と蚕が関係する記述は無く、
中国撰述であろう『馬鳴儀軌』が出典
http://
そこには、
裸形衆生のために衣服を成じようと馬鳴が誓願を立てた。
馬鳴曼荼羅の眷属に蠶(蚕)質がある。
などとあり、
『寶林傳』では、馬鳴が蚕に変化した、とあります(本生譚?)
いずれにしても中国作の民間信仰で、道教の影響かもしれない。
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オクラが不思議なのは 、
同じ苗でも、
小さいのに筋張って固い実があり、
大きくても柔らかいものがあること。
硬いオクラは味噌漬けにするとうまい。
オクラは陰性なので、陽性な古い味噌が合う。
それはさておき、
心身の病について、
『三昧耶戒序』や『十住心論』の記述をまとめると
身体の病の種類は多く、それぞれに応じて多くの薬、鍼灸、湯治などの治療法がある。
心の病も人の数だけあり、それぞれに応じて様々な教えがある。
教えのなかで、
経(お釈迦さまの教え)
律(規律、規則)
論 (経と律の注釈)
般若 (空の教え)
は軽い病を治し、
陀羅尼(密教)は重病を治す。
身病の原因は、
・四大(地水火風=臓器や血液)の不調:これは薬や医術が有効。
・鬼病:夜叉、羅刹、餓鬼などの鬼が四大五臓に入ること。『首楞厳三昧経』には十種の鬼が
上げられている。「祟り」のようなもので、これは呪法が有効。
代表的なものが「施餓鬼作法」。この中に、餓鬼を解脱させる陀羅尼がある。
・業病:これは過去の行いの報いだから、懺悔法が有効。ポピュラーなものが懺悔礼拝行。
心病の原因は、
根源的な無知。因果の道理や仏性、自分の心を知らないこと。
これの治しかたは、
『菩提心論』に日輪観、月輪観、阿字観、三密行、五相など、
『秘釈』に五臓三摩地観が説かれる。
また、
『戒序』では、
信心、大悲心、勝義心、大菩提心
(慈愛、自分はもっと大きいと知り、落ち着いて自心を観察すること)を説き、
これによって根源的な無知が取り除かれ、
心の平安が訪れて、苦悩は去ります。
まずは戒めを持つとよろしい。内容は何でも良い。
戒めがあると、心の鍵が開き、風にように説法している仏の声が聞こえる 。
____________________________
※陰陽研究塾年会費、仏教塾密教塾支援金 振込先
同じ苗でも、
小さいのに筋張って固い実があり、
大きくても柔らかいものがあること。
硬いオクラは味噌漬けにするとうまい。
オクラは陰性なので、陽性な古い味噌が合う。
それはさておき、
心身の病について、
『三昧耶戒序』や『十住心論』の記述をまとめると
身体の病の種類は多く、それぞれに応じて多くの薬、鍼灸、湯治などの治療法がある。
心の病も人の数だけあり、それぞれに応じて様々な教えがある。
教えのなかで、
経(お釈迦さまの教え)
律(規律、規則)
論 (経と律の注釈)
般若 (空の教え)
は軽い病を治し、
陀羅尼(密教)は重病を治す。
身病の原因は、
・四大(地水火風=臓器や血液)の不調:これは薬や医術が有効。
・鬼病:夜叉、羅刹、餓鬼などの鬼が四大五臓に入ること。『首楞厳三昧経』には十種の鬼が
上げられている。「祟り」のようなもので、これは呪法が有効。
代表的なものが「施餓鬼作法」。この中に、餓鬼を解脱させる陀羅尼がある。
・業病:これは過去の行いの報いだから、懺悔法が有効。ポピュラーなものが懺悔礼拝行。
心病の原因は、
根源的な無知。因果の道理や仏性、自分の心を知らないこと。
これの治しかたは、
『菩提心論』に日輪観、月輪観、阿字観、三密行、五相など、
『秘釈』に五臓三摩地観が説かれる。
また、
『戒序』では、
信心、大悲心、勝義心、大菩提心
(慈愛、自分はもっと大きいと知り、落ち着いて自心を観察すること)を説き、
これによって根源的な無知が取り除かれ、
心の平安が訪れて、苦悩は去ります。
まずは戒めを持つとよろしい。内容は何でも良い。
戒めがあると、心の鍵が開き、風にように説法している仏の声が聞こえる 。
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口座名 陰陽研究塾
最近はグルテン粉の種類も多い。
オーサワ 地粉グルテン粉はコシがあるけれど、値段が高い。
イオンなどで手に入る山本貢資商店の小麦グルテンは、
陽性が強い(硬い)けれど、値段が安い。
太陽食品のグルテン粉は比較的陰性で、とても安価。
北海道産食材ユウテックのものは、
コシが弱いけれど、味はまあまあ。
グルテン粉をまとめて野菜スープで15分煮込み、
スライスして秋茄子と油炒め。
それはさておき、
人が亡くなると、初七日から七日おきに七七 四十九日まで追善の供養をする習慣があります。
二七日、三七日と、七日おきに法事をするのは民間信仰から発生したものですが、
四十九日には典拠があります。
オーサワ 地粉グルテン粉はコシがあるけれど、値段が高い。
イオンなどで手に入る山本貢資商店の小麦グルテンは、
陽性が強い(硬い)けれど、値段が安い。
太陽食品のグルテン粉は比較的陰性で、とても安価。
北海道産食材ユウテックのものは、
コシが弱いけれど、味はまあまあ。
グルテン粉をまとめて野菜スープで15分煮込み、
スライスして秋茄子と油炒め。
それはさておき、
人が亡くなると、初七日から七日おきに七七 四十九日まで追善の供養をする習慣があります。
二七日、三七日と、七日おきに法事をするのは民間信仰から発生したものですが、
四十九日には典拠があります。
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仏教経典の中で最もポピュラーなものであろう『般若心経』は、
二百六十余りの文字数でとても短い。
法相の慈恩大師や華厳の賢首大師(共に唐時代)は、
経題の般若は『大般若経』のことであり、心は心要、としている。
つまり、
600巻に及ぶ膨大な般若経典の心要を抜き出したものが『般若心経』で、
そこには空の思想が説かれる、
と解し、それに追随している人が多いけれど、
はたしてそうだろうか。
般若心経は供養祈祷に関わらず、様々な機会に唱えられるが、
多くはそれによって得られる現世利益の効能が期待されている。
昔も今も、これを唱え写経することにより、病や貧乏が治り、災難を避けるという話は数多い。
つまり、呪文である。
『般若心経』サンスクリット原典の題名は
「Prajñā-pāramitā-hṛdaya」
般若 波羅蜜多 心
であり、経の文字は無い。
十一面観音や千手観音の儀軌を始め、密教経典では「心」を真言(呪文)の意味で使うことは多い。
十一面観音神呪経では、
十一面観音の陀羅尼を心真言としている。
だから、
原典に「経」の文字が無く、心は般若波羅蜜の真言(呪文)という意味とも考えられる。
修験道では、般若心経の最後の真言部分で九字を切って祈願する作法があり、
真言宗でも、真言部分を二十一遍唱える作法がある(阿字観、御宝号念誦など)
つまり、
呪文として使われている。
心経法(供養法、護摩法共)では、
般若菩薩を本尊として迎え、その悟りの境地に住する際、
心経陀羅尼として、ギャテイギャテイの真言を念誦する。
多くの場合、
般若心経は、その真言部分(羯諦羯諦、波羅羯諦、波羅僧羯諦、菩提薩婆訶 )のみではなく、
経全体が真言・呪文として唱えられていると云って良い。
その直前に、
般若波羅蜜多、是大神呪、是大明呪、是無上呪、是無等等呪、能除一切苦、
般若波羅蜜多呪
とあるのだから。
冒頭に
観自在菩薩、行深般若波羅蜜多時、照見五蘊皆空、度一切苦厄。
とあるが、観自在菩薩(胎蔵曼荼羅)は金剛界の金剛法菩薩である。
仏教では、
真如と現実に存在しているモノを、同じ「法(ダルマ)」という言葉で表すが、
深般若波羅蜜多を行じる、
ということは、人やモノを見て、その本質(真如)を知る、
ということである。
真実を見ることが、般若という智慧であり、
それは、最終的に、自分の心を知ること。
『秘鍵』には、
名医は雑草の中に薬草を見つけ、
名工はただの石ころの中に宝石を見出す目を備えている
と説明している。
この、般若(真実を見出す智慧)をもった菩薩の境地を目指して修行し、
もともと持っている悟りの本性を確認する
ということが、般若波羅蜜である。
だから、
三世諸仏、依般若波羅蜜多故、得阿耨多羅三藐三菩提。
(般若波羅蜜によって、無上の悟りの境地に至る)
となる。
よって、
『般若心経』は
般若心(智慧の真言)の経
と云えるであろう。
「『般若心経秘鍵』に聞く」(松長 有慶・『密教学会報』35)には、
インドにおいて、『般若心経』は『大般若経』を摘出した空思想のエッセンスを記した経典として取り扱われていたという記述は、不思議なことに見当たらない。
『般若心経』の異常な人気は、空という思想が素晴らしいからではなくて、この経典を読んだり、書いたり、聞いたりすると、数々の現世の利益がもたらされるという民衆の熱烈な期待がその原因だといってよい。
『般若心経』を『般若経』のエッセンスを説く経とみる現在の通説が、もともと異端の説であったのである。
とあります。
二百六十余りの文字数でとても短い。
法相の慈恩大師や華厳の賢首大師(共に唐時代)は、
経題の般若は『大般若経』のことであり、心は心要、としている。
つまり、
600巻に及ぶ膨大な般若経典の心要を抜き出したものが『般若心経』で、
そこには空の思想が説かれる、
と解し、それに追随している人が多いけれど、
はたしてそうだろうか。
般若心経は供養祈祷に関わらず、様々な機会に唱えられるが、
多くはそれによって得られる現世利益の効能が期待されている。
昔も今も、これを唱え写経することにより、病や貧乏が治り、災難を避けるという話は数多い。
つまり、呪文である。
『般若心経』サンスクリット原典の題名は
「Prajñā-pāramitā-hṛdaya」
般若 波羅蜜多 心
であり、経の文字は無い。
十一面観音や千手観音の儀軌を始め、密教経典では「心」を真言(呪文)の意味で使うことは多い。
十一面観音神呪経では、
十一面観音の陀羅尼を心真言としている。
だから、
原典に「経」の文字が無く、心は般若波羅蜜の真言(呪文)という意味とも考えられる。
修験道では、般若心経の最後の真言部分で九字を切って祈願する作法があり、
真言宗でも、真言部分を二十一遍唱える作法がある(阿字観、御宝号念誦など)
つまり、
呪文として使われている。
心経法(供養法、護摩法共)では、
般若菩薩を本尊として迎え、その悟りの境地に住する際、
心経陀羅尼として、ギャテイギャテイの真言を念誦する。
多くの場合、
般若心経は、その真言部分(羯諦羯諦、波羅羯諦、波羅僧羯諦、菩提薩婆訶 )のみではなく、
経全体が真言・呪文として唱えられていると云って良い。
その直前に、
般若波羅蜜多、是大神呪、是大明呪、是無上呪、是無等等呪、能除一切苦、
般若波羅蜜多呪
とあるのだから。
冒頭に
観自在菩薩、行深般若波羅蜜多時、照見五蘊皆空、度一切苦厄。
とあるが、観自在菩薩(胎蔵曼荼羅)は金剛界の金剛法菩薩である。
仏教では、
真如と現実に存在しているモノを、同じ「法(ダルマ)」という言葉で表すが、
深般若波羅蜜多を行じる、
ということは、人やモノを見て、その本質(真如)を知る、
ということである。
真実を見ることが、般若という智慧であり、
それは、最終的に、自分の心を知ること。
『秘鍵』には、
名医は雑草の中に薬草を見つけ、
名工はただの石ころの中に宝石を見出す目を備えている
と説明している。
この、般若(真実を見出す智慧)をもった菩薩の境地を目指して修行し、
もともと持っている悟りの本性を確認する
ということが、般若波羅蜜である。
だから、
三世諸仏、依般若波羅蜜多故、得阿耨多羅三藐三菩提。
(般若波羅蜜によって、無上の悟りの境地に至る)
となる。
よって、
『般若心経』は
般若心(智慧の真言)の経
と云えるであろう。
「『般若心経秘鍵』に聞く」(松長 有慶・『密教学会報』35)には、
インドにおいて、『般若心経』は『大般若経』を摘出した空思想のエッセンスを記した経典として取り扱われていたという記述は、不思議なことに見当たらない。
『般若心経』の異常な人気は、空という思想が素晴らしいからではなくて、この経典を読んだり、書いたり、聞いたりすると、数々の現世の利益がもたらされるという民衆の熱烈な期待がその原因だといってよい。
『般若心経』を『般若経』のエッセンスを説く経とみる現在の通説が、もともと異端の説であったのである。
とあります。
「ごんもうりょぜつ」
と読みます。
言葉で表現することもできず、思慮も絶したもの。絶対の悟りの世界
のこと。
信仰には、
神や仏が自分の外(どこか)にいて、それを信じる。
神仏は自分の心の中にいて、それを体験体得する。
の二種類があります。
前者は、
悪いことはしない、悪い思いは持たないようにして、善を求める。
後者は、
悪いこと、悪い思いは、善を反映させるためにあり、
どちらも真実である。
という立場をとることが多い。
言亡慮絶は後者で体験する世界です。
いくつか引用すると、
如来の奥地、さらに癈詮照潤の心地に開け、仏樹王の牙、始めて言亡慮絶の空性に生ず。(『大日経開題』)
言亡慮絶の理をばすなはち言辞相寂滅に証し、悉有仏性の旨をばすなはち無一不成仏の句に成ず。(『法華経秘釈』)
此の観に住しおわって、字義を失し、言亡慮絶して良く久しくして定を出よ(『不動次第』)
つまり、
瞑想修行は、言亡慮絶すること。
この悟り(言亡慮絶)の世界は、具体的にどういうものかを質問したことがあります。
恩師田中先生は、
広々として風通しの良い、仕切りの無い世界
光り輝き澄み切った世界
と云い、
K師は、
喜怒哀楽は勿論、楽も苦も、幸不幸も無く、全く波の無い寂静の世界
と教えてくれました。
『華厳経』では、
成道(悟り)の瞬間を、
波が一切無くなって鏡のように澄み渡った大海、
に喩えています。
例えば、満月を観想して、
それが法界に周遍して、全体になれば形がなくなる。
そして、 唯明朗のみとなる。
そこには何もなく、身体も、心もない。
不生にして、虚空の如し。
何も無いから無分別で、妄想も無く、諸仏も姿はない。
無相(姿形がない)ならば、
思慮も言葉も亡失する。
覚鑁さんの『阿字観』には、病者の観法として、
此の阿字を観じさせ玉ひて、至極の場は、言亡慮絶とて、無念に成り候也
とあります。
つまり、
息絶える時に至っては、もはや阿字の真言も絶え、悟り(自心を知る)の理法を念慮することもなくなって、ただ無念無想法体そのものとなる、
だから、
何かを思わなくても、口を開けば常に自然と「阿」と発する、
これはまさに阿の真言を唱えていること。
ただ口を開いて呼吸をするだけで、それが阿字になる。
『阿』は宇宙の真如を現す梵字。
もうだめだ、オレは死ぬ
というような時、
世話になったな、今までありがとう
そういう気持ちになって、ただ口を開けて呼吸していれば、
言亡慮絶になる、ということで良いかな。
覚鑁さんの最期は『大悲の海に 覚鑁上人伝』によると、
眠るが如く薪尽き、入寂して燈消ゆ
と弟子の覚満が記している。
そして、
臨終の時がくると、病苦は止まったようで、
息を引き取るまで意識はあきらかで、
手に法印をむすび、口に真言を誦し、本尊の前に端坐のまま遷化した、
とあります。
そこは、言亡慮絶の世界だったのだろうか。
と読みます。
言葉で表現することもできず、思慮も絶したもの。絶対の悟りの世界
のこと。
信仰には、
神や仏が自分の外(どこか)にいて、それを信じる。
神仏は自分の心の中にいて、それを体験体得する。
の二種類があります。
前者は、
悪いことはしない、悪い思いは持たないようにして、善を求める。
後者は、
悪いこと、悪い思いは、善を反映させるためにあり、
どちらも真実である。
という立場をとることが多い。
言亡慮絶は後者で体験する世界です。
いくつか引用すると、
如来の奥地、さらに癈詮照潤の心地に開け、仏樹王の牙、始めて言亡慮絶の空性に生ず。(『大日経開題』)
言亡慮絶の理をばすなはち言辞相寂滅に証し、悉有仏性の旨をばすなはち無一不成仏の句に成ず。(『法華経秘釈』)
此の観に住しおわって、字義を失し、言亡慮絶して良く久しくして定を出よ(『不動次第』)
つまり、
瞑想修行は、言亡慮絶すること。
この悟り(言亡慮絶)の世界は、具体的にどういうものかを質問したことがあります。
恩師田中先生は、
広々として風通しの良い、仕切りの無い世界
光り輝き澄み切った世界
と云い、
K師は、
喜怒哀楽は勿論、楽も苦も、幸不幸も無く、全く波の無い寂静の世界
と教えてくれました。
『華厳経』では、
成道(悟り)の瞬間を、
波が一切無くなって鏡のように澄み渡った大海、
に喩えています。
例えば、満月を観想して、
それが法界に周遍して、全体になれば形がなくなる。
そして、 唯明朗のみとなる。
そこには何もなく、身体も、心もない。
不生にして、虚空の如し。
何も無いから無分別で、妄想も無く、諸仏も姿はない。
無相(姿形がない)ならば、
思慮も言葉も亡失する。
覚鑁さんの『阿字観』には、病者の観法として、
此の阿字を観じさせ玉ひて、至極の場は、言亡慮絶とて、無念に成り候也
とあります。
つまり、
息絶える時に至っては、もはや阿字の真言も絶え、悟り(自心を知る)の理法を念慮することもなくなって、ただ無念無想法体そのものとなる、
だから、
何かを思わなくても、口を開けば常に自然と「阿」と発する、
これはまさに阿の真言を唱えていること。
ただ口を開いて呼吸をするだけで、それが阿字になる。
『阿』は宇宙の真如を現す梵字。
もうだめだ、オレは死ぬ
というような時、
世話になったな、今までありがとう
そういう気持ちになって、ただ口を開けて呼吸していれば、
言亡慮絶になる、ということで良いかな。
覚鑁さんの最期は『大悲の海に 覚鑁上人伝』によると、
眠るが如く薪尽き、入寂して燈消ゆ
と弟子の覚満が記している。
そして、
臨終の時がくると、病苦は止まったようで、
息を引き取るまで意識はあきらかで、
手に法印をむすび、口に真言を誦し、本尊の前に端坐のまま遷化した、
とあります。
そこは、言亡慮絶の世界だったのだろうか。
『摩訶止観』などには、
冷病には火をふくようにする呼吸
熱病には口を広くあけてする呼吸
などの気療法が書かれていますが、
坐禅瞑想時は、
口は閉じ、呼吸は鼻を通したほうがうまくいく。
理由のひとつは、
口を閉じれば陽性になり、
肛門が締まり、
丹田に意識を集中しやすいから。
瞑想に限らず、
呼吸、特に吸気は鼻でしたほうがいい。
鼻は入ってくる空気(酸素)の浄化と温度調節の役割があるから。
鼻が不調な時は、口で呼吸します。
鼻が詰まっている時は洗うか、大根湯などの陰性なものを飲めば良い。
透明な鼻水の時は、
お腹が冷えているので、ネギ味噌湯などを飲みます。
呼吸では、
出る息で不要な二酸化炭素を出し、
吸う息は必要な酸素を取り入れます。
酸素は陰性で、
二酸化炭素は重く陽性です。
呼気は陰性な力で、吸気は陽性な力で行われます。
ですから、
肉食が多いなどの陽性過多になると、
陰性が少ないので、ゆっくり長く息を吐くことが難しくなります。
交感神経は陰性なもので、
副交感神経は陽性なもので刺激されます。
ですから、
口を閉じ陽性にしていたほうが、リラックスできます。
そして、
呼気を調える(陰性な力を使うので身体は陽性になり、副交感神経を刺激する)
ことでリラックスすると考えられます。
密教では瞑想中に真言を唱えるので、
念誦するため口を開けて息を吐くようになっています。
覚鑁さんの『阿字観儀』には、
「口を少し開いて、出入の息を阿々と唱念すべし」
『無畏三蔵禅要」には、
「調気とは、先ず出入の息を想え、自身の中の一一の支節筋脈よりまた皆流出す。然して後に口より徐々にして出ず」
とある。
念誦は、
『秘蔵記』に五種が説かれています。
蓮華 :耳に聞こえる
金剛 :唇が少し動く 舌端を動かす
三摩地:舌を動かさず心において蓮華月輪阿字を観じて
声生 :心蓮華の上に 鈴を振るが如し
光明 :口より光明を出すと観じる
『石山次第』は金剛念誦を選んでいますが、
初心者は口を少し開けて、
修練を積んだら口を閉じて心の中で唱えるのが良いかもしれない。
上手になれば、
『無畏三蔵禅要」にあるように、
口か鼻かではなく、
身体全体で、一々の毛穴で呼吸するようなイメージで呼吸して、
我と仏と衆生と、宇宙と我と、が交流し相応します。
呼吸は姿勢が影響します。
慣れないうちは、
頭上に1キロくらいの座布団を載せて、背筋を伸ばして坐ると効果的です。
個人的な経験では、
口からゆっくり長い呼気を続けていると、
それが不自然な止息を生じさせ、
横隔膜が下がりすぎるためか、内臓が下垂する傾向がある
(しかも口を開けているので肛門が陰性になり緩む)ので、
鼻を使ったほうが安全であると考えています。
冷病には火をふくようにする呼吸
熱病には口を広くあけてする呼吸
などの気療法が書かれていますが、
坐禅瞑想時は、
口は閉じ、呼吸は鼻を通したほうがうまくいく。
理由のひとつは、
口を閉じれば陽性になり、
肛門が締まり、
丹田に意識を集中しやすいから。
瞑想に限らず、
呼吸、特に吸気は鼻でしたほうがいい。
鼻は入ってくる空気(酸素)の浄化と温度調節の役割があるから。
鼻が不調な時は、口で呼吸します。
鼻が詰まっている時は洗うか、大根湯などの陰性なものを飲めば良い。
透明な鼻水の時は、
お腹が冷えているので、ネギ味噌湯などを飲みます。
呼吸では、
出る息で不要な二酸化炭素を出し、
吸う息は必要な酸素を取り入れます。
酸素は陰性で、
二酸化炭素は重く陽性です。
呼気は陰性な力で、吸気は陽性な力で行われます。
ですから、
肉食が多いなどの陽性過多になると、
陰性が少ないので、ゆっくり長く息を吐くことが難しくなります。
交感神経は陰性なもので、
副交感神経は陽性なもので刺激されます。
ですから、
口を閉じ陽性にしていたほうが、リラックスできます。
そして、
呼気を調える(陰性な力を使うので身体は陽性になり、副交感神経を刺激する)
ことでリラックスすると考えられます。
密教では瞑想中に真言を唱えるので、
念誦するため口を開けて息を吐くようになっています。
覚鑁さんの『阿字観儀』には、
「口を少し開いて、出入の息を阿々と唱念すべし」
『無畏三蔵禅要」には、
「調気とは、先ず出入の息を想え、自身の中の一一の支節筋脈よりまた皆流出す。然して後に口より徐々にして出ず」
とある。
念誦は、
『秘蔵記』に五種が説かれています。
蓮華 :耳に聞こえる
金剛 :唇が少し動く 舌端を動かす
三摩地:舌を動かさず心において蓮華月輪阿字を観じて
声生 :心蓮華の上に 鈴を振るが如し
光明 :口より光明を出すと観じる
『石山次第』は金剛念誦を選んでいますが、
初心者は口を少し開けて、
修練を積んだら口を閉じて心の中で唱えるのが良いかもしれない。
上手になれば、
『無畏三蔵禅要」にあるように、
口か鼻かではなく、
身体全体で、一々の毛穴で呼吸するようなイメージで呼吸して、
我と仏と衆生と、宇宙と我と、が交流し相応します。
呼吸は姿勢が影響します。
慣れないうちは、
頭上に1キロくらいの座布団を載せて、背筋を伸ばして坐ると効果的です。
個人的な経験では、
口からゆっくり長い呼気を続けていると、
それが不自然な止息を生じさせ、
横隔膜が下がりすぎるためか、内臓が下垂する傾向がある
(しかも口を開けているので肛門が陰性になり緩む)ので、
鼻を使ったほうが安全であると考えています。
「優しさと思いやり」という慈悲の心によって、
心は平安になり、
それが「しあわせ」な心であるから、
慈悲は、
自分が「しあわせ」という恩恵を受けることにつながるはずです。
しかし、
津田真一博士の『和訳 金剛頂経』(東京美術)には、
大乗仏教の本質をなす利他行(他人を助け救うこと)では、
苦しんでいる相手に対する慈悲の働きかけが基本だけれど、
この慈悲は、
心とは何か、人間とは何か、生きるとは何か、
ということにも、
ブッダの悟りにも、
その根拠を有していない。
慈悲は、
あるべきものではなく、選択されるべきものである。
とあります。
確かに、お釈迦さんが、
苦行の末に、菩提樹下の瞑想によって成道したことを考えれば、
そこに慈悲の行いは無いかもしれない。
津田先生は、
苦しんでいる他者を目の前にして、
慈悲を選択しても、しなくてもよい。
ただしその場合、
慈悲を選ぶなら、苦しみを抜き楽を与える実践を一生の間、行わなければならず、
慈悲をとらないなら、人間的な愛を断念しなければならない。
と続けています。
大乗仏教では、
悟り(成仏、菩提)のために、他者の苦しみを抜き楽を与える、
慈悲の集積という修行が必要です。
そして、
慈悲の行いを常に行なうためには、
一瞬もとどまらず変化している自分の心の現状を分析し、
空や縁起の理解によって、乗り越えなければなりません。
苦しくて悩む心を乗り越えなければ、他者を救えないから。
その、心の変化を如実に知る過程が人生です。
しかし、
密教では瞑想と真言により、
絶対的な真理とその場でヨーガ(相応)しようとするのが修行です。
これを即身成仏と云い、
ここに慈悲は必要無い。
なので、
真言宗徒の理想は即身成仏にあるのではなく、
それとは対照的な大日経の三句にある、
と津田先生は『仏教経典散策「金剛頂経」の頁』に書いています。
三句とは、
仏の智慧は、
「菩提心を因とし、大悲を根とし、方便を究竟とす」
この菩提心が、ありのままに自心を知ること。
それが因になって、他者への思いやりとやさしさが生まれ、
慈悲の行為が究極の目標である、ということ。
ところが、
金剛頂経の密教では、
瞑想に入りさえすれば心中に金剛界マンダラが現れ、
瞑想の手段を経れば、大日如来と相応します。
瞑想修行によって、
実際的な行動ではなく、心に対応する実在界を変化させることができる
という立場なので、
慈悲や助けは必要無いし、規制も倫理性もありません。
大乗では、
自分の行為と、その結果の連続が人生であり、
大日如来(悟り、清浄な自心を知ること)に向かって歩き続けます。
その歩みを止める時、悟りは消滅する。
しかし、
密教では、
一気に頂上の平地に坐ります。
かように、
大乗仏教と密教には、両立しない大きな相違点がある。
村上保壽先生は『弘法大師の救済論』の中で、
救済のための修法は仏、行者、衆生の三平等が原則(これがヨーガにあたる)で、
これを修法する行者は、正しい行者でなければならない。
正しいとは「三昧耶戒」の精神に立っているかどうかにある。
と書いています。
三昧耶戒の中心のひとつが、大悲心。
その心があれば、
総ての人は我が最愛の子と同じだと想うようになり、
一切衆生を自分自身とも思うことにもなる。
自他が平等になる。
そうすれば、
一切の悪は滅び、心は清涼になります。
先の話に戻れば、
菩提樹下の瞑想(ヨーガ)中、
ブッダの心中は慈悲にあふれ、
それによって悟りが得られた、
と考えることができます。
心は平安になり、
それが「しあわせ」な心であるから、
慈悲は、
自分が「しあわせ」という恩恵を受けることにつながるはずです。
しかし、
津田真一博士の『和訳 金剛頂経』(東京美術)には、
大乗仏教の本質をなす利他行(他人を助け救うこと)では、
苦しんでいる相手に対する慈悲の働きかけが基本だけれど、
この慈悲は、
心とは何か、人間とは何か、生きるとは何か、
ということにも、
ブッダの悟りにも、
その根拠を有していない。
慈悲は、
あるべきものではなく、選択されるべきものである。
とあります。
確かに、お釈迦さんが、
苦行の末に、菩提樹下の瞑想によって成道したことを考えれば、
そこに慈悲の行いは無いかもしれない。
津田先生は、
苦しんでいる他者を目の前にして、
慈悲を選択しても、しなくてもよい。
ただしその場合、
慈悲を選ぶなら、苦しみを抜き楽を与える実践を一生の間、行わなければならず、
慈悲をとらないなら、人間的な愛を断念しなければならない。
と続けています。
大乗仏教では、
悟り(成仏、菩提)のために、他者の苦しみを抜き楽を与える、
慈悲の集積という修行が必要です。
そして、
慈悲の行いを常に行なうためには、
一瞬もとどまらず変化している自分の心の現状を分析し、
空や縁起の理解によって、乗り越えなければなりません。
苦しくて悩む心を乗り越えなければ、他者を救えないから。
その、心の変化を如実に知る過程が人生です。
しかし、
密教では瞑想と真言により、
絶対的な真理とその場でヨーガ(相応)しようとするのが修行です。
これを即身成仏と云い、
ここに慈悲は必要無い。
なので、
真言宗徒の理想は即身成仏にあるのではなく、
それとは対照的な大日経の三句にある、
と津田先生は『仏教経典散策「金剛頂経」の頁』に書いています。
三句とは、
仏の智慧は、
「菩提心を因とし、大悲を根とし、方便を究竟とす」
この菩提心が、ありのままに自心を知ること。
それが因になって、他者への思いやりとやさしさが生まれ、
慈悲の行為が究極の目標である、ということ。
ところが、
金剛頂経の密教では、
瞑想に入りさえすれば心中に金剛界マンダラが現れ、
瞑想の手段を経れば、大日如来と相応します。
瞑想修行によって、
実際的な行動ではなく、心に対応する実在界を変化させることができる
という立場なので、
慈悲や助けは必要無いし、規制も倫理性もありません。
大乗では、
自分の行為と、その結果の連続が人生であり、
大日如来(悟り、清浄な自心を知ること)に向かって歩き続けます。
その歩みを止める時、悟りは消滅する。
しかし、
密教では、
一気に頂上の平地に坐ります。
かように、
大乗仏教と密教には、両立しない大きな相違点がある。
村上保壽先生は『弘法大師の救済論』の中で、
救済のための修法は仏、行者、衆生の三平等が原則(これがヨーガにあたる)で、
これを修法する行者は、正しい行者でなければならない。
正しいとは「三昧耶戒」の精神に立っているかどうかにある。
と書いています。
三昧耶戒の中心のひとつが、大悲心。
その心があれば、
総ての人は我が最愛の子と同じだと想うようになり、
一切衆生を自分自身とも思うことにもなる。
自他が平等になる。
そうすれば、
一切の悪は滅び、心は清涼になります。
先の話に戻れば、
菩提樹下の瞑想(ヨーガ)中、
ブッダの心中は慈悲にあふれ、
それによって悟りが得られた、
と考えることができます。
総ての事象には、
1、その本性(本質)
2、その姿形
3、その働き
がありますが、
心は3、の働きのみ。
これは「生命(いのち)」も同じです。
医学生理学機能的な生命ではなく、
「キミは僕のイノチだ」
「商売は信用がいのち」
などの大切なもの、真髄ということ。
ところで、
「弘法大師空海は『即身成仏義』、『声字実相義』、『吽字義』を著し、高野山を開創した」
というのは事実であり、
「弘法大師空海は日本で最も偉大な宗教者である」
と言うのは意見、感想に過ぎない。
事実によって証明された意見のみが科学的知見になるのだろうけれど、
心や生命は、事実を証明することが非常に難しい。
生命科学の中村桂子博士は、
固体と固体との「あいだ」にあるとしか言えないような主体的な力を生命と呼び、
それが心
と「物語としての生命」(『宗教と科学』第6巻)に書いています。
これを元に、
村上保壽先生の意見は、
生命は関係性であり、その生命を心とする。
心とは、固体と固体との関係のなかで、自己のありかたを自ら決定する主体的な意志
と『密教と現代』とあります。
密教的には、
『即身成仏義』にあるように、
われらの肉身といっても、それがそのまま宇宙の一切につながっており、
その心といっても、宇宙一切の心に通じている。
そこで、この一身の実体いかん、実相いかん、妙用いかん、無碍の当体いかんが問題であり、
また仏になるといっても、われらの心の他に悟りがあるわけではなく、
この心が宇宙一切を貫く仏の智慧(心、本性)といかに通ずるものなりや。
大師が十住心論十の初に云える如くに、
実の如くに自心の源底を覚知し、
究竟して自身の数量をさとることを、
いかに体現するかということが当面の問題である。
と栂尾先生は書いています。(『現代語の十巻章と解説』149頁)
心やイノチが関係性の中にあるものとすれば、
少し理解できることがあります。
世界には多くの国があり、
ひとつの国にもいろいろな社会やグループがあります。
国や社会が違っても仲良くする人がいる反面、
ケンカしたり争っている関係もある。
これをミクロ的視点から考えれば、
この世で自分と同じ世界に住んでいる人はいません。
夫婦や子でも違う世界にいる。
その世界が自心です。
ですから、
違う世界の人と仲良くして思いやりを持つか、
それとも対立するかは、
まったく自分の中の問題になります。
1、その本性(本質)
2、その姿形
3、その働き
がありますが、
心は3、の働きのみ。
これは「生命(いのち)」も同じです。
医学生理学機能的な生命ではなく、
「キミは僕のイノチだ」
「商売は信用がいのち」
などの大切なもの、真髄ということ。
ところで、
「弘法大師空海は『即身成仏義』、『声字実相義』、『吽字義』を著し、高野山を開創した」
というのは事実であり、
「弘法大師空海は日本で最も偉大な宗教者である」
と言うのは意見、感想に過ぎない。
事実によって証明された意見のみが科学的知見になるのだろうけれど、
心や生命は、事実を証明することが非常に難しい。
生命科学の中村桂子博士は、
固体と固体との「あいだ」にあるとしか言えないような主体的な力を生命と呼び、
それが心
と「物語としての生命」(『宗教と科学』第6巻)に書いています。
これを元に、
村上保壽先生の意見は、
生命は関係性であり、その生命を心とする。
心とは、固体と固体との関係のなかで、自己のありかたを自ら決定する主体的な意志
と『密教と現代』とあります。
密教的には、
『即身成仏義』にあるように、
われらの肉身といっても、それがそのまま宇宙の一切につながっており、
その心といっても、宇宙一切の心に通じている。
そこで、この一身の実体いかん、実相いかん、妙用いかん、無碍の当体いかんが問題であり、
また仏になるといっても、われらの心の他に悟りがあるわけではなく、
この心が宇宙一切を貫く仏の智慧(心、本性)といかに通ずるものなりや。
大師が十住心論十の初に云える如くに、
実の如くに自心の源底を覚知し、
究竟して自身の数量をさとることを、
いかに体現するかということが当面の問題である。
と栂尾先生は書いています。(『現代語の十巻章と解説』149頁)
心やイノチが関係性の中にあるものとすれば、
少し理解できることがあります。
世界には多くの国があり、
ひとつの国にもいろいろな社会やグループがあります。
国や社会が違っても仲良くする人がいる反面、
ケンカしたり争っている関係もある。
これをミクロ的視点から考えれば、
この世で自分と同じ世界に住んでいる人はいません。
夫婦や子でも違う世界にいる。
その世界が自心です。
ですから、
違う世界の人と仲良くして思いやりを持つか、
それとも対立するかは、
まったく自分の中の問題になります。
アインシュタインのエッセイ「科学と宗教」(1954)に、
「宗教のない科学は不完全であり、科学のない宗教は盲目である」
という有名な文章があります。
密教では、
学問と実践、の二つの車輪があり、どちらも同じように習得するべきとしています。
学問だけでは頭でっかちの理屈屋になり、
実践だけでは錯覚や妄想につながり危険であるから。
人生の苦しみとは何か、
その解決法は何か、
を知るためには、
苦しみを感じる心とは何か、
それを感じる人間とは何か、
そもそも、宇宙の中にあるもの総て、
その存在とは何かを証明しなければなりません。
仏教のあるグループは、
モノを構成する、これ以上分割できない最小単位(極微)を想定しました。
それはモノとしても、真如としても最小の単位です。
それは余りにも小さいので眼に見えず、触ることもできない。
あらゆるものはそれからできている。
しかし、
目に見えない小さな物質がいくつ集まっても、
目に見える物質にはならないのではないか?
目に見えず、触れることもできないものが、
「存在する」ということを証明出来るのか?
これらは、科学が元素や素粒子を発見して証明している方法と似ています。
では、
そのこれ以上分割できない最小の、根本的なモノがあるとしたら、
それはどのように作られ発生したのでしょうか。
仏教は縁起の法則が前提です。総てには関係性がある。
父と母がいて僕がいる、
というような縁と条件と結果が必ずあります。
ところが、
大元のモノはそれしか無いのですから、依るべき縁が無い。
アダムとイヴによって人類が生まれたとしても、
そのアダムとイヴはどこからきたのか。
神様が創ったとか、自然に生まれた
などというのは論理的に崩壊しています。
そこで、
すべてのものは分割できない全体性を持っている、
というのが密教の考えかたです。
存在しているものの本質は初めとか終わりの概念が無い不生なものである。
だから、
存在しているという事実が真実である、と。
そう考えると、
総ては仏を内蔵し、仏の現れであると立場をとれば、
世界は仏(真如、悟り)の象徴となります。
不生なものが不生な世界をつくり、
世界の中に、それぞれの不生なものがあります。
「宗教のない科学は不完全であり、科学のない宗教は盲目である」
という有名な文章があります。
密教では、
学問と実践、の二つの車輪があり、どちらも同じように習得するべきとしています。
学問だけでは頭でっかちの理屈屋になり、
実践だけでは錯覚や妄想につながり危険であるから。
人生の苦しみとは何か、
その解決法は何か、
を知るためには、
苦しみを感じる心とは何か、
それを感じる人間とは何か、
そもそも、宇宙の中にあるもの総て、
その存在とは何かを証明しなければなりません。
仏教のあるグループは、
モノを構成する、これ以上分割できない最小単位(極微)を想定しました。
それはモノとしても、真如としても最小の単位です。
それは余りにも小さいので眼に見えず、触ることもできない。
あらゆるものはそれからできている。
しかし、
目に見えない小さな物質がいくつ集まっても、
目に見える物質にはならないのではないか?
目に見えず、触れることもできないものが、
「存在する」ということを証明出来るのか?
これらは、科学が元素や素粒子を発見して証明している方法と似ています。
では、
そのこれ以上分割できない最小の、根本的なモノがあるとしたら、
それはどのように作られ発生したのでしょうか。
仏教は縁起の法則が前提です。総てには関係性がある。
父と母がいて僕がいる、
というような縁と条件と結果が必ずあります。
ところが、
大元のモノはそれしか無いのですから、依るべき縁が無い。
アダムとイヴによって人類が生まれたとしても、
そのアダムとイヴはどこからきたのか。
神様が創ったとか、自然に生まれた
などというのは論理的に崩壊しています。
そこで、
すべてのものは分割できない全体性を持っている、
というのが密教の考えかたです。
存在しているものの本質は初めとか終わりの概念が無い不生なものである。
だから、
存在しているという事実が真実である、と。
そう考えると、
総ては仏を内蔵し、仏の現れであると立場をとれば、
世界は仏(真如、悟り)の象徴となります。
不生なものが不生な世界をつくり、
世界の中に、それぞれの不生なものがあります。
存在するものは
仏のいのちの現れであり、
それらは互いに行き来して自在。
そして、
空気中の酸素と窒素と二酸化炭素のように、
混ざり合い交流している。
人間もそうであり、地球上の生き物もそういう関係です。
それらが仏であるならば、
言葉声字は仏の言葉声字であり、
その活動行為も仏のそれのはずです。
宗教はそれを、瞑想や慈悲の実践などの行により体得しようとします。
実在がそのまま現象世界であり、
宇宙の働きが仏の身体言葉心であり、
それが縁起の主体であると。
『密教と現代』のなかで、村上博士は、
「仏教や密教は、世界の総ての現象を科学技術化することの不可能性を知っている。
一切を物質に還元し、科学技術化しようとする心や精神のありかたに、苦しみの根源、無知を見ようとする 。
いのちの尊厳、存在の実相とは、物質(自我と欲望)の流れから自由になること。
その自由の境地にいのちの価値を見出す」
「宗教を科学のレベルで捕らえる思考は、
かえって物質の流れにとらわれて自由の境地を失っている。
しかも、その流れの中にいのちの価値を見出そうとして苦闘すればするほど、
その価値が遠ざかっていくことに気がつかない。
その結果、即物的な結論を求めて、技術性、呪術性を強めることとなる」
そして、
観念的(抽象的)になり、現実をありのままに見ようとはしない
と書いています。
科学は、
DNAなどが自己を創出して、いのちや心の本質が表れるという立場で、
密教では、
日常の自分たちから、存在の真実を観ようとしている、
という違いが有るのかもしれない。
いずれにしても、
いのちや心は、
一時も止まらずに、
ビデオテープやDVDのように流れています。
それは、巻戻して思い出すことはできるけれど、
録画が止まることはありません。
連続している。
それが止まった瞬間、
心は勿論、悟りや幸せといった目的も生滅します。
そして、
次のコマをより良くしようとするのが向上心や慈悲心です。
仏のいのちの現れであり、
それらは互いに行き来して自在。
そして、
空気中の酸素と窒素と二酸化炭素のように、
混ざり合い交流している。
人間もそうであり、地球上の生き物もそういう関係です。
それらが仏であるならば、
言葉声字は仏の言葉声字であり、
その活動行為も仏のそれのはずです。
宗教はそれを、瞑想や慈悲の実践などの行により体得しようとします。
実在がそのまま現象世界であり、
宇宙の働きが仏の身体言葉心であり、
それが縁起の主体であると。
『密教と現代』のなかで、村上博士は、
「仏教や密教は、世界の総ての現象を科学技術化することの不可能性を知っている。
一切を物質に還元し、科学技術化しようとする心や精神のありかたに、苦しみの根源、無知を見ようとする 。
いのちの尊厳、存在の実相とは、物質(自我と欲望)の流れから自由になること。
その自由の境地にいのちの価値を見出す」
「宗教を科学のレベルで捕らえる思考は、
かえって物質の流れにとらわれて自由の境地を失っている。
しかも、その流れの中にいのちの価値を見出そうとして苦闘すればするほど、
その価値が遠ざかっていくことに気がつかない。
その結果、即物的な結論を求めて、技術性、呪術性を強めることとなる」
そして、
観念的(抽象的)になり、現実をありのままに見ようとはしない
と書いています。
科学は、
DNAなどが自己を創出して、いのちや心の本質が表れるという立場で、
密教では、
日常の自分たちから、存在の真実を観ようとしている、
という違いが有るのかもしれない。
いずれにしても、
いのちや心は、
一時も止まらずに、
ビデオテープやDVDのように流れています。
それは、巻戻して思い出すことはできるけれど、
録画が止まることはありません。
連続している。
それが止まった瞬間、
心は勿論、悟りや幸せといった目的も生滅します。
そして、
次のコマをより良くしようとするのが向上心や慈悲心です。
金剛界三十七尊をシンボライズした線香護摩
燃え残った灰で吉凶を占う。
昔は祈祷を頼んだ家に伺って修法したものです。
それはさておき、
ある人から
みんなが小乗仏教の修行をして、しあわせになれば良い。
修行しない人を救うなんて、大乗仏教の驕りではないか。
といわれて、
なるほどなあ、と思いました。
そもそも、
小乗と大乗とは何が違うのでしょうか。
小乗は心の分析をするために、
眼識,耳識,鼻識,舌識,身識,意識の六識を説き、
それぞれが眼,耳,鼻,舌,身,意の認識器官に依存して,
色 (物質) ,声,香,味,触,法 を認識する、
としますが、
大乗は、
さらに阿頼耶識(あらやしき・心の種子)、未那識(まなしき・自我)
の二つを加えて八識とします。
この識というのは妄想迷い煩悩であり、
これをトレーニングによって智慧に転換させます。
『十住心論』では、
自我とは、
色・受・想・行・識の五つの存在要素(五蘊)のみが仮に和合したものにすぎない、
とする声聞(しょうもん)の教えと、
根本的な迷いを断つために、新しい業が生起するのを完全に除く縁覚(えんがく)
の二つを小乗とします。(まとめて二乗と云う)
どちらも、実体的な自我の存在を否定していますが、
声聞と縁覚とでは、その瞑想の浅深に差があります。
声聞はただ迷い苦しみの現象を除くだけですが、
縁覚はその根本を断つ。
思想と実践方法が少し違う。
『三昧耶戒序』には、
このふたつは、とてつもなく長い修行の年月がかかるので、
気楽な気持ちで求めるべきではない、とあります。
そして、
小乗は、
自己の修行に終始するだけで、
他を利益する大悲のはたらきを欠く
と考えられています。
大乗に特徴的な考えかたが、
仏性とか如来蔵で、
だれでも本来、仏の性質・本性を持っている、
ということ。
この仏性を「トレーニングによって自由自在に発揮する」ことで、
小乗では滅するべき煩悩が残された状態でも、
苦しみに煩わされることなく、また他の衆生の苦しみをも救っていける
としています。
大乗は基本的に本覚(ほんがく・元々覚っている)で
小乗は始覚(しがく・修行によって煩悩をうち破り、悟りの智慧が現れる)
なのも違いのひとつです。
この点では、
迷い煩悩と共に苦しみが始まるとするお釈迦さんの教えと大乗は、ちょっと違うものになります。
ところで、
『般若心経秘鍵』は、
弘法大師著作の中でも、のびのびと制限制約無く、リズムよく自由に書かれているので、
読んで楽しいものですが、
この中にも小乗大乗について書かれています。
縁覚 は、
師につかず、そよぐ風や揺れる花を縁として無常を観じ、
長い時間を経て根本的な迷いの種子を除く。
声聞 は、
苦を滅する道理を覚るために、不浄観などの瞑想をする。
大乗仏教のそれぞれを解説すると、
普賢菩薩の法門である華厳の教えは、
存在と存在が互いに溶け合い 、
存在と真理、真理と真理も互いに溶け合うと悟り、
文殊菩薩の法門である三論では、
不生不滅不断不常不一不異不去不来によって戯論を断ち、
絶対空を身証しようとする。
弥勒の法門・法相では、
眼に映る境界(耳鼻舌身意)が固定的に有るとする執著を破る。
とあります。
いずれにしても、
小乗大乗の違いは、
人の資質によって段階があるということで、
病に応じて薬があるように、
心のレベルに応じて教えがあります。
大切なのは、
薬の能書きを読むだけでは効果なく、
飲んで初めて効くように、
小乗でも大乗でも、修行して初めて意味があります。
それは、
表面だけではなく、本質を見通す眼を持つトレーニング です。
『秘鍵』には、
般若心経にある最初の「是大神呪」は声聞の真言、
「是大明呪」は縁覚の真言、「是無上呪」は大乗の真言、
「是無等等呪」は密教の真言であり、
「羯諦」は声聞、次の「羯諦」は縁覚、
「波羅羯諦」は大乗の修行の結果を指し、
「波羅僧羯諦」は、密教の修行の結果を明らかにし、
「菩提薩婆訶」は、総ての教えの究極的なさとりに入る意義を説明している
とあります。
大乗も小乗も、
人による、ということです。
燃え残った灰で吉凶を占う。
昔は祈祷を頼んだ家に伺って修法したものです。
それはさておき、
ある人から
みんなが小乗仏教の修行をして、しあわせになれば良い。
修行しない人を救うなんて、大乗仏教の驕りではないか。
といわれて、
なるほどなあ、と思いました。
そもそも、
小乗と大乗とは何が違うのでしょうか。
小乗は心の分析をするために、
眼識,耳識,鼻識,舌識,身識,意識の六識を説き、
それぞれが眼,耳,鼻,舌,身,意の認識器官に依存して,
色 (物質) ,声,香,味,触,法 を認識する、
としますが、
大乗は、
さらに阿頼耶識(あらやしき・心の種子)、未那識(まなしき・自我)
の二つを加えて八識とします。
この識というのは妄想迷い煩悩であり、
これをトレーニングによって智慧に転換させます。
『十住心論』では、
自我とは、
色・受・想・行・識の五つの存在要素(五蘊)のみが仮に和合したものにすぎない、
とする声聞(しょうもん)の教えと、
根本的な迷いを断つために、新しい業が生起するのを完全に除く縁覚(えんがく)
の二つを小乗とします。(まとめて二乗と云う)
どちらも、実体的な自我の存在を否定していますが、
声聞と縁覚とでは、その瞑想の浅深に差があります。
声聞はただ迷い苦しみの現象を除くだけですが、
縁覚はその根本を断つ。
思想と実践方法が少し違う。
『三昧耶戒序』には、
このふたつは、とてつもなく長い修行の年月がかかるので、
気楽な気持ちで求めるべきではない、とあります。
そして、
小乗は、
自己の修行に終始するだけで、
他を利益する大悲のはたらきを欠く
と考えられています。
大乗に特徴的な考えかたが、
仏性とか如来蔵で、
だれでも本来、仏の性質・本性を持っている、
ということ。
この仏性を「トレーニングによって自由自在に発揮する」ことで、
小乗では滅するべき煩悩が残された状態でも、
苦しみに煩わされることなく、また他の衆生の苦しみをも救っていける
としています。
大乗は基本的に本覚(ほんがく・元々覚っている)で
小乗は始覚(しがく・修行によって煩悩をうち破り、悟りの智慧が現れる)
なのも違いのひとつです。
この点では、
迷い煩悩と共に苦しみが始まるとするお釈迦さんの教えと大乗は、ちょっと違うものになります。
ところで、
『般若心経秘鍵』は、
弘法大師著作の中でも、のびのびと制限制約無く、リズムよく自由に書かれているので、
読んで楽しいものですが、
この中にも小乗大乗について書かれています。
縁覚 は、
師につかず、そよぐ風や揺れる花を縁として無常を観じ、
長い時間を経て根本的な迷いの種子を除く。
声聞 は、
苦を滅する道理を覚るために、不浄観などの瞑想をする。
大乗仏教のそれぞれを解説すると、
普賢菩薩の法門である華厳の教えは、
存在と存在が互いに溶け合い 、
存在と真理、真理と真理も互いに溶け合うと悟り、
文殊菩薩の法門である三論では、
不生不滅不断不常不一不異不去不来によって戯論を断ち、
絶対空を身証しようとする。
弥勒の法門・法相では、
眼に映る境界(耳鼻舌身意)が固定的に有るとする執著を破る。
とあります。
いずれにしても、
小乗大乗の違いは、
人の資質によって段階があるということで、
病に応じて薬があるように、
心のレベルに応じて教えがあります。
大切なのは、
薬の能書きを読むだけでは効果なく、
飲んで初めて効くように、
小乗でも大乗でも、修行して初めて意味があります。
それは、
表面だけではなく、本質を見通す眼を持つトレーニング です。
『秘鍵』には、
般若心経にある最初の「是大神呪」は声聞の真言、
「是大明呪」は縁覚の真言、「是無上呪」は大乗の真言、
「是無等等呪」は密教の真言であり、
「羯諦」は声聞、次の「羯諦」は縁覚、
「波羅羯諦」は大乗の修行の結果を指し、
「波羅僧羯諦」は、密教の修行の結果を明らかにし、
「菩提薩婆訶」は、総ての教えの究極的なさとりに入る意義を説明している
とあります。
大乗も小乗も、
人による、ということです。
きり絵画家の冗快さんから、
僧侶の掌中に仏様が納まる儀式のことを教えてちょうだい、
とお便りがあり、
入出仏(遷座)作法のことですね、
と説明しました。
本尊仏を仮置場所に移動する際の作法です。
自心中に仏の座である蓮華座を観想し、
そこに本尊を載せます。
心臓は正中にありますが、そこには白蓮華が開き、
その上に大日如来が坐り、五つの智慧を象徴する五色の光に包まれている。
僕らはそのように、
慈悲の働きかけの座につき、智慧の光に包まれているという象徴。
そうして、
袈裟で包んだ仏様と移動するのですが、
僕は恋人と一緒に歩くような気持ちになります。
瞑想には、
自分の外に対象を置いて、それを観想するものと、
自分の中に対象を引き入れるものがあります。
真言密教では、
浄厳さんの 『別行次第秘記,』にみられるように、
後者に重きがあります。
仏像もお堂も心の中にある。
先の五つの智慧は、
鏡の如きありのままを映し、
へだてなく、
見極めで、
自他の役に立つような行為の智。
本来清らかな(修行して清らかになるのではなく、
その素質がある)心のシンボルが、
泥に染まらずに咲く蓮華です。
心に蓮華があると思えば、
何となく涼やかでやさしい気持ちになります。
僧侶の掌中に仏様が納まる儀式のことを教えてちょうだい、
とお便りがあり、
入出仏(遷座)作法のことですね、
と説明しました。
本尊仏を仮置場所に移動する際の作法です。
自心中に仏の座である蓮華座を観想し、
そこに本尊を載せます。
心臓は正中にありますが、そこには白蓮華が開き、
その上に大日如来が坐り、五つの智慧を象徴する五色の光に包まれている。
僕らはそのように、
慈悲の働きかけの座につき、智慧の光に包まれているという象徴。
そうして、
袈裟で包んだ仏様と移動するのですが、
僕は恋人と一緒に歩くような気持ちになります。
瞑想には、
自分の外に対象を置いて、それを観想するものと、
自分の中に対象を引き入れるものがあります。
真言密教では、
浄厳さんの 『別行次第秘記,』にみられるように、
後者に重きがあります。
仏像もお堂も心の中にある。
先の五つの智慧は、
鏡の如きありのままを映し、
へだてなく、
見極めで、
自他の役に立つような行為の智。
本来清らかな(修行して清らかになるのではなく、
その素質がある)心のシンボルが、
泥に染まらずに咲く蓮華です。
心に蓮華があると思えば、
何となく涼やかでやさしい気持ちになります。
信仰の世界には
なぜそうなったのか、
いつから行なわれているのか、
が分からないものが少なくありません。
その始まりは、
純粋な信仰からのものもあり、
誤解や意図的な誤りもある。
土着の思想信仰から生まれ、融合されたものもある。
宗教ビジネスや為政者の都合で作られたものもあり、
権威や名誉を守るために続いているものもあります。
単純に信じていれば害が無く、心を安らかにするものもありますが、
そうでなく、不安や悩みを誘うものもある。
信は証を伴うべきもので、
目的とそこへたどり着くまでの方法を信じることは重要ですが、
なぜそうなのか、本当だろうか
と疑うことも大切です。そうしないと真実にはたどり着かない。
さいたま市の霊園で法事をつとめたら、
その会場の本尊が十三仏の掛け軸でした。
https:/ /www.bu tsudany a.co.jp /shop_j yusanbu tsu.htm l
(仏壇屋 滝田商店の十三仏掛け軸)
仏さまのオールスターみたいですが、
初七日の本尊に不動明王、
二七日がお釈迦さま、
三七、四七、五七、六七と続いて、
七七(四十九)日がお薬師さん、
更に、
百か日、一周忌、三回忌、七回忌、十三回忌と続き、
三十三回忌が虚空蔵菩薩。
全部で13回の年忌、つまり法事の本尊として十三仏。
これを掛けるのはよくあることで、それはそれで良いのですが、
なぜ初七日がお不動さんで、三十三回忌が虚空蔵さんなのか、
なぜ、四十九日までは七日おきなのか、
なぜ、この順番なのか、
理由は無いのですね。
いつの間にか何となく決まった、
いつのまにかそういう習慣になった。
もちろん、日本の習慣です。
十三の仏はそれぞれ密教の重要な尊格で、
儀軌や経典に出典がありますが、
なぜ、この十三尊が選ばれたのか、
どのように決めたのか
は不明です。
中国で造られた『仏説預修十王生七経』と、
日本でまとまった『仏説地蔵菩薩発心因縁十王経』
を起源とする説が多いですが、
七日おきに区切る根拠は無く、
当然ながら、インド仏教には無い思想で、
したがって、悟りや成仏、成菩提といった仏教教理とも関係ないでしょう。
中国では、
三回忌までの法事は、遺族の服喪期間で、死者に関することではありません。
十王に相当するのは三回忌までですから、
それ以降は両経典でも確認できない。
ちなみに、
故人を中有七七日まで追善供養することは、
『大灌頂経』や『梵網経』に見られます。
なので、
百か日、一周忌、三回忌は中国の風習や『十王経』によるもので、
七回忌以降は日本の風習で、起源はあきらかでない。
いずれにしても、
仏教が関わらなくても祖先崇拝は自然の感情ですから、
毎日拝むのがよろしい。
『弘法大師逆修日記事』
という十三仏信仰を権威付けするために作られたものや、
十三仏の配列は浄土系の僧によって作られた、
などの研究論文があります。
教理の無い民間信仰が広まる様子が、少しづつ解明されるようで、
とても面白い。
最近、読んだのは、
『現代密教 23』十三仏信仰の意義 宮坂宥洪
『地蔵十王経』考 印度學佛教學研究 Vol. 51清水邦彦
『 十三仏について(上)』 金沢文庫研究 通号 234
『十三仏信仰の儀軌としての『弘法大師逆修日記事』渡辺章悟 曹洞宗研究員研究紀要 21
『十三仏信仰と十三塚』佐野賢治 神奈川大学日本常民文化研究所調査報告 第十集
なぜそうなったのか、
いつから行なわれているのか、
が分からないものが少なくありません。
その始まりは、
純粋な信仰からのものもあり、
誤解や意図的な誤りもある。
土着の思想信仰から生まれ、融合されたものもある。
宗教ビジネスや為政者の都合で作られたものもあり、
権威や名誉を守るために続いているものもあります。
単純に信じていれば害が無く、心を安らかにするものもありますが、
そうでなく、不安や悩みを誘うものもある。
信は証を伴うべきもので、
目的とそこへたどり着くまでの方法を信じることは重要ですが、
なぜそうなのか、本当だろうか
と疑うことも大切です。そうしないと真実にはたどり着かない。
さいたま市の霊園で法事をつとめたら、
その会場の本尊が十三仏の掛け軸でした。
https:/
(仏壇屋 滝田商店の十三仏掛け軸)
仏さまのオールスターみたいですが、
初七日の本尊に不動明王、
二七日がお釈迦さま、
三七、四七、五七、六七と続いて、
七七(四十九)日がお薬師さん、
更に、
百か日、一周忌、三回忌、七回忌、十三回忌と続き、
三十三回忌が虚空蔵菩薩。
全部で13回の年忌、つまり法事の本尊として十三仏。
これを掛けるのはよくあることで、それはそれで良いのですが、
なぜ初七日がお不動さんで、三十三回忌が虚空蔵さんなのか、
なぜ、四十九日までは七日おきなのか、
なぜ、この順番なのか、
理由は無いのですね。
いつの間にか何となく決まった、
いつのまにかそういう習慣になった。
もちろん、日本の習慣です。
十三の仏はそれぞれ密教の重要な尊格で、
儀軌や経典に出典がありますが、
なぜ、この十三尊が選ばれたのか、
どのように決めたのか
は不明です。
中国で造られた『仏説預修十王生七経』と、
日本でまとまった『仏説地蔵菩薩発心因縁十王経』
を起源とする説が多いですが、
七日おきに区切る根拠は無く、
当然ながら、インド仏教には無い思想で、
したがって、悟りや成仏、成菩提といった仏教教理とも関係ないでしょう。
中国では、
三回忌までの法事は、遺族の服喪期間で、死者に関することではありません。
十王に相当するのは三回忌までですから、
それ以降は両経典でも確認できない。
ちなみに、
故人を中有七七日まで追善供養することは、
『大灌頂経』や『梵網経』に見られます。
なので、
百か日、一周忌、三回忌は中国の風習や『十王経』によるもので、
七回忌以降は日本の風習で、起源はあきらかでない。
いずれにしても、
仏教が関わらなくても祖先崇拝は自然の感情ですから、
毎日拝むのがよろしい。
『弘法大師逆修日記事』
という十三仏信仰を権威付けするために作られたものや、
十三仏の配列は浄土系の僧によって作られた、
などの研究論文があります。
教理の無い民間信仰が広まる様子が、少しづつ解明されるようで、
とても面白い。
最近、読んだのは、
『現代密教 23』十三仏信仰の意義 宮坂宥洪
『地蔵十王経』考 印度學佛教學研究 Vol. 51清水邦彦
『 十三仏について(上)』 金沢文庫研究 通号 234
『十三仏信仰の儀軌としての『弘法大師逆修日記事』渡辺章悟 曹洞宗研究員研究紀要 21
『十三仏信仰と十三塚』佐野賢治 神奈川大学日本常民文化研究所調査報告 第十集