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[ 2024/12/04 02:41 | ]
お葬式雑感 7 数珠の話
数珠は仏教徒の象徴ですから、信仰があるなら持っていたほうがいい。

仏教徒なら、

仏教以外のお葬式やお参りでも、数珠は持っていたほうがいい。


象徴とは、

悟りとか仏とか真理とか、

カタチに現すことができないものを表現するものです。


数珠は本来、数を取るもの。何回唱えたかを数えるためのもの。すり鳴らすものでは無い。

昔、三井寺鳥羽僧正が修法のあと、念誦する真言のおわりを伴僧にしらしめようとして摺り給う

というのが始まり、と伝えられてます。
 
合図ですね。


数珠には、

百八顆、五十四顆、四十二顆等々いろいろあります。 


『木槵子経』には、

木槵子(むくろじ)の実108珠の数珠を常に身につけ、

仏法僧の三宝を称賛するごとに実を一個繰り、

これを百万遍繰り返えせば煩悩を滅し、涅槃に到逹する

と説かれています。


『金剛頂瑜伽念誦経』には、

煩悩を滅したいと欲するならば、数珠を持ち、常に身に随え、専心に諸仏の名号を念じるべき

とあり、


刀を持てば斬りたくなり、数珠を持てば拝みたくなる、

とお大師さんは言っています。


  また、

『一字頂輪王儀軌』には、

珠を敬うこと仏の如くせよ

とあり、数珠を持つことは仏を携帯していること。


数珠は通常、左手に母珠(房の元に珠がひとつ有るほう)を上にして掛けます。
 
房は内側に。

左手に持つ時は2匝、房も握る。

置くときは3匝。
 
作法は師僧の伝によって違いがあります。 



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[ 2016/04/08 11:04 | Comments(0) | 眞天庵仏教塾・密教塾 ]
仏供
仏さまに供えるご飯のことで、「ぶっく」と読みます。

真言密教では、

正式には炊いた白米。

略式には洗って乾かしたお米。

そして、

丁寧の時には、炊いたご飯を筒状にした突き仏供か、宝珠型にした握り仏供を供えます。

俵おむすびの変形みたいな形。

さらに、

特別な儀式では、そのご飯を白仏供、小豆汁で染めた赤、くちなしで染めた黄、青葉汁で染めた青、黒胡麻で染めた黒の五色にして、仏の五つの智慧を現します。


ご飯を筒状にするのは神様に供える神饌の高盛飯に似せたのか、

仏が坐る蓮華の茎に見立てたのか。


ご飯を供えても、ご先祖様はそれを食べませんが、霊魂や見えないものは香りを食べるので、ご飯のにおいを召し上がるのでしょう。インドの言葉でガンダルバ(食香)と言います。


ご飯は禅定波羅蜜(ぜんじょうはらみつ)の象徴です。

象徴とは目に消えないものをカタチで現す方法ですが、

禅定とは静かな心。

ご飯を食べて、ほっとして安心する心。

その心が供養になり、

その心に住するように努力するのが修行です。

温かいおいしいご飯を食べる度に、

ああ、幸せだなあ、と思ってその気持ちを忘れないでいれば、

あの人にもこの気持ちを持って欲しいと願えば、

それがひとつの悟りです。







[ 2016/04/13 18:47 | Comments(0) | 眞天庵仏教塾・密教塾 ]
分別
前回の記事で、

盲目とは 

①目が見えないこと

②物事の分別のつかないこと。盲目の恋、なんてね。

と書きましたが、

この「分別がつかないこと」

今では良くないことのように使われますが、本来の意味は違います。

分別は仏教語で、サンスクリット語ヴィカルパ(vikalpa)の訳語。

凡夫の智慧

正しくない推量的な認識、間違った判断

のこと。


ですから、

分別は悟りの障害。分別によって邪な世界が作り出されるからです。

例えば、

異性を見る我と、見られる異性を分け、

この我と、相手を我が物として「自己中心的に」固執します。

それが手に入らない、失いたくない、思い通りにならない、

などと苦悩が生まれます。

他と比べて劣っていたり少なかったり、

疑ったり慢心したり

好きだ嫌いだと、言葉によって固執の世界を虚構することで分別が生まれます。

何かに執著するから、

実際には無い妄想の上に分別が起きます。



それに対して、

無分別は分別がないこと、思慮を欠くこと、

とされていますが、本来は、
 
サンスクリット語のニルヴィカルパ・ジュニャナーナ(nirvikalpa-jñāna)の訳語。無分別智

主客の対立を越えた真実の認識

つまり、悟りの智慧

思考判断以前の直感で、知覚を規定する概念。


言葉は時代によって変化しますが、

仏教では無分別でいることが重要、という立場です。


例えば、

盲腸や脾臓や胃を切除して無くなっても、僕らは生きることができます。

だからと言って、

盲腸や脾臓や胃が必要ではない、元から不要なもの、というわけではない。

同じように、
 
僕がいなくなっても宇宙は存在しますが、僕が元から不要な存在、いなくても良い、

というわけではない。

盲腸は肉食の排毒に関係し、脾臓と胃は血液の浄化とつながり、不安を取り除き、同情心を育みます。

僕も、

僕が知らないところで何かの役に立っているはずです。

これからも、役に立つことがあるでしょう。

 要不要などと分別しないほうがいい。



____________________________

※『望診法講義録 人相編 附 密教ヨーガ』 A5版106頁モノクロ

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をご連絡ください。

こちらからお送りします。



・穀菜食の舎会員価格 1000円  (一般 2000円)
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●眞天庵・穀菜食の舎  須永 晃仁

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FAX:0285-35-4901






[ 2016/05/26 17:10 | Comments(0) | 眞天庵仏教塾・密教塾 ]
祈祷のご案内
拝む時間はいつでも良いのですが、行者の生活では三時の行法といって、

初夜(戌時) 日没前  午後2時ころから
後夜(寅時) 夜明け前 午前4時ころから
日中(午時) 正午前  午前10時ころから

に修法する習慣があります。

普段日常では日に三回作法するのは難しいので、

朝夕の二時

もしくは

何時であっても時間を決めて日に一度だけ必ず修法する

ということになっています。

その中で寅時(夜明け前 午前4時ころ)は、

水に花が咲く清浄至極の時間、と『長淳師口決』などに説かれています。


さて、

来年も年間毎朝ご祈祷いたしますので、ご希望のかたはご連絡ください。

出張先でも、

不動明王と十一面観音のお加持作法

金剛界、胎蔵および虚空蔵菩薩の作法で

皆様の平安を拝んでおりますので、

どうぞご一緒に、ご自宅等で自他の安穏をお祈りください。

内に懺悔反省し、外に感謝することが、願いをかなえる基本です。



・申し込み方法

下記の事項を下記コメント欄、メールまたはFAX、郵便でお送りください。

こちらから祈願料振込みの案内をお送りします。


1、お名前(祈願主、ふりがなをつけてください)

2、〒 ご住所

3、メールアドレス

4、年齢(生年月日)

5、願意(願いごと ひとつ)

6、ご祈祷種別


※願意例

・世間的な願いごと
厄除招福、家内安全、商売繁盛、心願成就、開運厄除、身体健全、無病息災、当病平癒、
良縁成就、安産成就、学業成就、旅行安全、方災消除、交通安全、子宝成就、虫封じ、
如意吉祥、如意円満、開運厄除、報恩感謝

・心中平安の願いごと
滅罪生善、止息煩悩、心身寂静、福智増長、一切調和、諸仏加持、転迷開悟 等。



※ご祈祷種別

①毎朝祈祷一年間 2万円(木札30cmお送りします)

②毎朝祈祷一年間 1万円(紙札15cmお送りします)

③毎朝祈祷一年間 5千円(お札無し)

④月例護摩祈祷(例年と同じ、毎月28日に拝みます)1万円(木札30cmお送りします)

⑤月例護摩祈祷(同上)2.500円(お札無し)




※お申し込み先

眞天庵 須永 晃仁

〒329-0412
栃木県下野市柴762-14

FAX:0285-35-4901

メール:sunagakounin@gmail.com

下記コメント欄からでも結構です。




当庵のお不動さんと大日さん

ご希望のかたへ頒布します。

・不動明王 ヒノキ製約6センチ、台座共約15センチ

・大日如来 柘植製

専用厨子ケヤキ製高さ23センチ

厨子入り 15万円(坐像のみ8万円)
     1年間祈祷料・回向料込み 



[ 2016/12/03 09:45 | Comments(0) | 眞天庵仏教塾・密教塾 ]
お坊さんのレベル
広大で深い思想を表わした美しい織物の糸には、

スートラ(sūtra)とタントラ(tantra)があり、

両者を訳して経典と言います。

スートラには教理的なことが書かれており、

タントラには実践面の規約が現わされています。

般若心経や観音経など、人口に膾炙しているお経のほとんどはスートラです。

また、

経典によっては、その中に教理部分と実践部分の両方が書かれているものもあります。


タントラは主に密教経典ですが、

それにはいくつかのレベルがあります。

入門してすぐの、知的に劣った者向けが所作タントラ。

これによってまず、修行の作法を覚えます。

そして、真言や陀羅尼をひたすら唱え、

五体投地の礼拝を繰り返します。

ひとつの作法につき、礼拝1万回、真言念誦10万回くらいかな。

そして、真言と懺悔を体得した中級者向けが次の行タントラ。

『大日経』などの思想的な意味を理解して修行し、

歩くように修法ができるようになると、瑜伽タントラを学びます。

『金剛頂経』などを学び、

感覚器官と心をコントロールして、

拝む作法と生活と、悟りと迷いとどちらでもない心と、

仏と他人と自分が平等で融合している

という、優しさと思いやりの身体を目指します。



お相撲さんが入門後、努力して関取になり、

さらに平幕小結関脇大関となるように、

噺家さんが入門後、前座から勉強して、

二つ目、真打となり、

さらに精進して名人師匠になるように、

密教のお坊さんも学び修行しながら、レベルアップします。



仏の智慧(悟り)とは、

実の如くありのままに自分の心の源底を知る

ことを求め、

思いやりと優しさを根本として、

自他を救う具体的な実践をすることである

(『大日経』)


_________________________________

※2017年度 毎朝祈祷ご案内

http://shintenan.syoyu.net/%E7%9C%9E%E5%A4%A9%E5%BA%B5%E4%BB%8F%E6%95%99%E5%A1%BE%E3%83%BB%E5%AF%86%E6%95%99%E5%A1%BE/%E7%A5%88%E7%A5%B7%E3%81%AE%E3%81%94%E6%A1%88%E5%86%85


※穀菜食の舎

「頭が良くなる冬の料理3種類」 
http://shintenan.syoyu.net/Entry/1021/



※陰陽研究塾 

「くだものとスイーツを陰陽で考える」 

https://groups.google.com/forum/?hl=ja#!topic/inyoukenkyu/e_jezOo-rCY

[ 2016/12/04 10:05 | Comments(0) | 眞天庵仏教塾・密教塾 ]
戒名の話
坂井栄信僧正の『法号・引導・表白集』には、

仏式の葬儀では、死者を導いて仏門に入らしめることがもっとも重要な作法である。

そのために導師は出家戒(具足戒)を授けるとともに、俗名に替えて僧名を与える。

とあります。

また、

わが真言宗では発心即到の精神により、具足戒を授けて仏門に入らしめ、更に秘密灌頂を授ければ(引導作法)、死者は直ちに仏果を得るとされているのである。


この授戒とともに与える僧名を、戒名とも法名とも云います。

もちろん、生前に出家を志し、授戒して僧名を授かる(僕ら坊さんがそれですが)こともあります。

僕は俗名(祐介)から、出家得度して僧名(晃仁)になりました。

僕らの場合は、普段の生活で使う名前ですから、通常二文字で、分かりやすい、お坊さんらしい名前にします。

僕の場合は、師僧からいただきましたが、自分で考える場合もあります。

我が家の長女、長男は俗名のまま。但し、読みかたを音読みにする。

次男は俗名とは違う僧名にしました。みな、僕が考えてつけたものです。

死後につける戒名は、

地方により寺により伝統とか習慣がありますので、ずいぶんと違いがあります。



全日本仏教会のホームページにある「仏教Q&A」には、
 
Q.戒名って何ですか?そもそも必要なのでしょうか?

戒名は、宗派によって「法名」「法号」とも言われています。「仏弟子」となった者に与えられる名前で、仏教教団にとって極めて大切なものです。
なぜ戒名をつけなければならないのか、高い戒名料をとられた、などという疑問や不満がお寺に対する不信感につながり、それが社会問題化しているのではないかと危惧しています。
これらを解決していくためには、住職と檀信徒との相互の信頼関係が不可欠です。日頃より菩提寺住職に尋ねるなど、戒名について学んでいただきたくお願いします。
なお、生前に戒名をいただくことも良いことです。その場合には、菩提寺の住職にお問い合わせください。
http://www.jbf.ne.jp/interest/buddhism_qanda.html#03

何かを説明しようとすれば、それにかかわる問題の典拠を探し、出典を明記して、

更に論理的に考える

と云うのが仏教の立場ですが、戒名についてはそういうものが無いようですね。


戒名は、

お坊さんの名前であり、お坊さんは修行して悟りを求める人で、

戒名はそういう人の名前。

空海、最澄、道元、日蓮などはもちろん戒名ですが、

出家者であった弁慶、信玄、謙信も戒名です。


僕らの世界では、

我が子と同じように、

生まれたときにつけた名前がそのまま僧名になったり、

文字はそのままで音読みにして僧名としたり、

まったく違う名前にしたり、いろいろです。


大切なのは戒律を授かり、心を調えるために修行し、仏の智慧を得ることですから、

名前がどうこうは関係ありません。


葬儀は、

故人の成仏(仏に成る、つまり悟りの世界に行く)ことを祈るもので、

そのために修行者の形として戒名を授けます。

更には、

親族縁者にも授戒と灌頂をして、悟りの世界に導くべきものです。

授戒は悟りのための生きかた

灌頂は仏の命を相続する決意と誓いです。

あるひとつの目覚めを体験すること。

というわけで、

生前の名前を僧名・戒名としてもよろしい。

仏式の葬儀をする

と云うことは仏道修行者になることですから、

その時点で持つ名前は僧名です。

どんな名前でも修行すれば悟れます。

故人の場合は、

修行できるのかどうか分からないから、

生きている縁者が修行して、その功徳を回向するために、

葬儀や法事があるのでしょう。

優しさと思いやりを常にもって生きることが、

修行です。



ひとつの考えかたとして、

名前を変えることは、生まれ変わることになります。

それまでの放逸な人生から、修行をする人になる、

という覚悟に、名前を変えることがつながります。

名前を替えて心機一転、ですね。



※2017年ご祈祷のご案内: http://shintenan.syoyu.net/Entry/1019/  





[ 2016/12/07 13:31 | Comments(0) | 眞天庵仏教塾・密教塾 ]
高野山 金堂の本尊
昨年は高野山開創千二百年で、大伽藍金堂のご本尊が80年ぶりご開帳になりました。

金堂は昭和元年に焼失し、その後再建され、高村光雲作のご本尊がおまつりされますが、長く秘仏のままでした。

それ以前も秘仏だっため、尊像を見た人はごく少数で、どのようなお姿かはほとんど知られていません。

「金堂焼失記録」(高野山霊宝館)
http://www.reihokan.or.jp/bunkazai/nenpyo/kondo-k.html

その本尊が薬師如来なのか阿閦(あしゅく)如来なのかは 鎌倉時代から両伝あります。(『高野山秘記』、『覚源抄』など) 

今も、金堂の看板には本尊 薬師如来とあり、高野山のホームページにも阿閦・薬師両方の記載があります。


僕らは修行時代に

高野山は修行道場であるから、その本尊は阿閦如来である

と習いました。

阿閦如来は金剛界マンダラの中心・大日如来の下(東)におわします。

 
大日如来の徳を四つに分けたひとつが阿閦如来、

鏡がありのままに映し出すような大円鏡智と菩提心の徳を司る。

はるかなる過去において、

大日如来の説法を聞き、大誓願をたてて修行し、成道し、東方妙喜世界に住する如来になりました。

お姿は降魔の印。触地印とも云いますが、右手で大地を指す。



大地は総てを育てる基盤=仏道修行の菩提心

堅固な菩提心は煩悩の魔軍を降伏する、ということの象徴。

つまり、修行が完成された姿です。


その世界に生まれようと志すものは修行を励むべき、

と『阿閦仏刹諸菩薩学成品経』にあるので、修行道場の本尊とします。




薬師如来は曼荼羅には描かれていません。

薬師瑠璃光王如来と云い、

東方瑠璃光世界の教主、ここは浄瑠璃世界とも云う。

人形芝居の「浄瑠璃」は、

女主人公・浄瑠璃御前が、薬師如来に願って授かった子で、薬師如来の浄土である浄瑠璃世界にちなんで命名されたから。


薬師如来は十二大願をもって修行し、仏になります。

その内容は
 
1,光明普照
2.随意成弁
3.施無尽仏
4.安心大乗
5.具戒清浄
6.諸根具足
7.除病安楽
8.転女得仏
9.安心正見
10.苦悩解脱
11.飲食安楽
12.美衣満足

この中には、現世利益と心の利益両方ありますが、主なのは、

病苦を救い、根源的な無智の迷いの病を癒す

ということ。

『薬師本願功徳経』第七 除病安楽に、

もし諸々の人ありて

はやり病のせまりきて

救う人なく帰られず

医者もおらざり薬なく

親もおらざり家もなく

貧しさ きわまり苦しむに

薬師如来の名号を

ひとたび耳にするときは

不思議や病は除かれて

心身ともに安楽に

家族資本も備わりて

ものみな豊かに足りぬべし

その上さらに無上なる

悟りの道をあかすべし

とあります。



お姿は、

右手は掌をこちらに向けた施無畏または与願印

左手に薬壷を持つ。

右に月光菩薩、左に日光菩薩

周囲に薬師十二神将がおまつりされていることも多い。

行者は修法の際、

薬壷を観想し、その中に十二大願の薬を入れ、衆生の心病を度す

と観想します。


以下、「 続・高野山 金堂の本尊」:  http://shintenan.syoyu.net/Entry/1031/

へ続く。








[ 2016/12/15 11:28 | Comments(0) | 眞天庵仏教塾・密教塾 ]
続・高野山 金堂の本尊
高野山 金堂の本尊:  http://shintenan.syoyu.net/Entry/1030/

から続きます。

 
薬師如来は四十九日の

阿閦如来は七回忌法要の

本尊として拝まれます。

その他の法事では、

初七日 不動明王
二七日 釈迦如来
三七日 文殊菩薩
四七日 普賢菩薩
五七日 地蔵菩薩
六七日 弥勒菩薩
七七日 薬師如来(四十九日)
百か日 観音菩薩
一周忌 勢至菩薩
三回忌 阿弥陀如来
七回忌 阿閦如来
十三回忌 大日如来
三十三回忌 虚空蔵菩薩

と十三仏を拝む習慣がありますが、経典儀軌にはなく、室町時代くらいからの俗説です。

でも、いまや宗教上の文化になっている民間信仰。

十三仏をまつるなら、マンダラのほうが良いとは思うけれど。


それはさておき、

昨年の高野山金堂本尊ご開帳でのお姿を見れば、阿閦如来ですね。

右手が大地を指す降魔の印ですし、

そもそも 脇にいる仏さまが阿閦如来の 四親近(ししんごん:阿閦如来の徳を四分)

である金剛薩埵と金剛王菩薩ですし。

参考)高野山霊宝館ホームページ
http://www.reihokan.or.jp/bunkazai/nenpyo/kondo-s.html


長く秘仏であった
 
同じ東方世界にいらっしゃるから
 
勅願堂である金堂には薬師を安置する、という平安時代からの習慣

諸仏は医王の如く、法は良薬の如く、僧は看護師の如く(『大智度論』) から、

薬師を諸仏の通称とする

などから、阿閦を薬師としたのかもしれない。

阿閦は行者向け、薬師は信者向けなのかな。


『秘密仏教の研究』(森田龍僊博士)では、

上記以外にも多くの資料をあげながら、本尊は阿閦であるとしています。

『密教辞典』(法蔵館)には

高野山金堂の本尊を薬師とするのは、後世の俗説に過ぎず


『高野山 - その歴史と文化』(法蔵館)のなかで田村隆照先生は

佐和博士の論考として

中尊は阿閦如来の”能く一切の頻那夜伽・悪魔鬼神等を摧して、悉く不動ならしめ、行者の菩提心を堅固ならしむ”という性格からとりあげられたのかもしれない。そして、その四親近の一つとしての金剛薩埵・金剛王菩薩が両脇侍的な意味においてとりあげられたのであろう。以下略

それにしても高野の金堂が薬師をまつる薬師堂であると『高野御幸記』などで説明されたりして、草創時の修禅の一院の精神はいつの間にか薬師信仰にすり替わっていた筈であるが、『高野巡礼記』で再び阿閦仏とされているのは何故であったのか。やはり大師の開創の精神を明確に受け止めて、その本尊の尊形を継承した心ある阿闍梨あってのことかと思われる。以下略

とある。



阿閦如来の、単独での仏像は高野山金堂以外では知られていない(と思う)けれど、

金剛界五仏の一として、

高野山西塔
 
京都・東寺講堂の立体曼荼羅

でおまいりすることができます。

高野山西塔は、

中心は金剛界の大日如来、周囲に胎蔵の四仏をおまつりし、

金胎不二を表す、と説明されていますが、

実際には大日も四仏も金剛界と考えています。

(平成元年加行の際、松長先生から、信仰上と実際の造像は違うという話を伺いました。
そうすると、根本大塔の四仏は胎蔵なのに、柱絵は金剛界の十六大菩薩になっているのが、どういうことなのかわかりません。
 『根本大塔柱絵十六大菩薩像修復報告書』(H9.6.20)には、
大塔内五仏像については、古くは胎蔵五仏としているが、現在では中央胎蔵大日と四方が金剛界四仏であるとされている。これについては種々問題点も含んでいるが、本書においては、四仏を金剛界の阿閦・宝生・無量寿・不空成就の各如来と捉えることにした。
とある。2016.12.16記)



お薬師さんの仏像は作例が多いけれど、僕が好きなのは、

奈良室生寺のお薬師さん。

これは国宝で伝釈迦如来となっており、薬壷もお持ちではありませんが、

お堂の蛙股に薬壷が刻まれています。

信仰上はお釈迦さまで、実際はお薬師さん、

というところかな。
http://www.murouji.or.jp/hotoke/p1.html  

それから、

京都神護寺のお薬師さんも美しい。

この二体は立像、今すぐにでも救済に出かけるお姿。

高野山高室院(霊宝館所蔵)の美しいお薬師さんは坐像。

坐っているのは瞑想修行する本尊、観想のための仏。


 


[ 2016/12/15 11:47 | Comments(0) | 眞天庵仏教塾・密教塾 ]
葬儀の本尊
仏教は生きている人が成道、成仏、迷いを転じて悟るためのカリキュラムをたくさん持っていますが、

それをお葬式に応用しているので、ずいぶんと無理があるようなところがあります。

その辺が、葬式仏教の根本的な問題かもしれない。


それはさておき、

一般のかたはお気づきにならないかもしれませんが、

葬儀会場では、宗旨宗派に合わせてご本尊(仏像やお軸)がおまつりされています。

祭壇の上にご本尊さんがあり、その下に故人の遺影とお位牌、そして棺。

でも、多くの会場ではそのご本尊さんが小さくて、よく見えないこともある。


通常、仏教の儀式では本尊が主役です。お寺もそう。坊主は主役ではない。

仏壇も主役はご本尊さま、位牌ではありません。

会場によってはご本尊さんはなく、故人の遺影と位牌に向かって拝むこともあります。

寺院が経営している斎場では、ご本尊さんが固定されているところもある。

真言宗の場合は大日如来がおまつりされることが多いですが、あれ、どうなのでしょうね。


そもそも本尊とは何かといえば

『秘蔵記』に、

「我が本来自性清浄の心は、世間出世間において最勝最尊なり。故に本尊という。

また已成の仏の本来自性清浄の理も本尊という」

とあります。

自分の内なる心を外に表現したものが本尊

真言密教では、

総尊として法身大日如来をたて、他に無量の別尊を立てます。

社長が大日如来で、

そのほか、取締役や部長課長といった役割の仏さまが大勢おわします。

阿弥陀さん、お薬師さん、観音さん、お不動さん、お地蔵さんなど。

大脳が大日如来で、

身体の器官臓器それぞれがいろいろな仏さまみたいなものかな。

でも、みな大日の働きのひとつだから、

どの仏さまを本尊としても、大日如来を拝むことになります。

 
そして、

大日如来はダイナミックな原理で、この世界は大日如来そのものともいえます。


さて、

葬儀は故人を仏道修行者にする出家受戒作法ですから

その本尊はどうすればよいのか。 

悟りを体験している人の弟子になって教わるのですから、

お釈迦さまでも大日如来でも、どの仏さまでも良いでしょうね。



僕らは生きている間に、得度式という出家受戒作法を受けます。

高野山大師教会の集団得度式では、
 
本尊は弘法大師

その脇に不動明王と愛染明王


次男が得度した高室院では、大師堂で得度式

いずれも、受者は准胝観音の真言を唱えます 。


中川善教先生の得度式次第には

「近来の最略作法では

准胝仏母の本尊は掛けず

多くは大師御影なり 」

とあります。 


准堤観音を本尊とするのは、

「度場本尊準堤仏母等記」に、

準低仏母の本誓が剃刀三昧出家得度

とあることによる。

これは準低陀羅尼経などが由来。


真言宗の葬儀作法(引導作法)では、

不動明王の徳を讃じて、亡者の滅罪を祈る

とされています。

これは、

『二巻章』や『金剛峯寺年中行事』によります。

棺の後ろ中央に不動、左右に両界曼荼羅

とかかれている。

いずれにしても、

拝む人と故人と参列者と本尊が

まったく平等である、という心で拝まなければ

故人も残された人も、成仏に近づくことはないでしょう。



葬儀は、いのちを送る儀式です。
 
故人のいのちだけではなく、つながっているもの、流れるものを拝む。 

遺族親族の心が悟りにつながるように拝む。

大いなるいのち(大日)を拝む。それは僕のあなたのすべての命と同じだから。 

送るいのちも、送られるいのちも、違うものではないから。 







[ 2016/12/17 16:05 | Comments(0) | 眞天庵仏教塾・密教塾 ]
如来の怒り
以前、阿閦如来と怒り云々のことを書いたら、下記ご意見をいただきました。


 阿閦如来をネットで調べたら種字が「ウー」 怒りを表す

「我欲の怒りを昇華して悟りの為の大きな怒りにする....」

という 内容の文がネット解説にありました。   

私には昇華した怒りと自分の中の怒りがどう違うのかよくわかりません。 ただ怒りをあわらす、ウーを種字にもつこの如来さんがこんなに 柔らかい佇まいをしているのと見ると、その辺り何かあるのかもしれないとは、思いました。


このあたりは、僕らが常用している『理趣経』に書かれています。

第三段に、阿閦如来の悟りについて、

阿閦は怒らないことが誓願ですが、

本来の怒りは、言うことを聞かないものを教化するもの。

それは自分自身の内面的な敵と戦うこと。

怒りの対象は自分自身のなかにある、ということ。

そして、理趣経全体を通して説いているのは、

怒り(を始めとした欲望)を無くすのではなく、

大きな怒り(欲望)、たとえば、世の中の不平等に対する怒りに転換する。

そこに我が入ってはいけない。

救済するのが難しい自分自身に怒る

そして、微笑しながら怒る

怒りの顔も、見かたによっては微笑や悲しみにも見えるのが、仏の怒り


そして、第十段には、

一切の存在は仏と本質的に平等だから、

忿怒も悟りを目指す心にもとづくなら平等で本来は清浄

汚れはよそからやってきたもの だから、

それをやっつけて本来の価値に目覚めさせる怒りが仏の怒り。

本来もっている価値の再認識が目的。


一切の存在は本質的に真理と同じだから、怒りも真理にもとづいたもの。


というわけで、

仏は(僕らは)相手を悟り(慈悲と向上心と心の静寂)にむかわせるために、忿怒の形をとります。


そもそも、

「我」があれば、

悩みも苦しみも、

怒りによっては解決しない。

それに、

怒りなどの心は、僕らが勝手に作っているだけ。



[ 2016/12/25 07:45 | Comments(0) | 眞天庵仏教塾・密教塾 ]
祈祷について
新年のご祈祷をして、お札をお送りしました。

一年間毎朝ご祈祷しますので、ご安心ください。


拝むことは心を静かにして観察することですが、

それによって心が晴れ、広く限界が開けます。

そうすると、

あらゆるものに対して優しさ、いとおしさ、懐かしさが生まれ、

他人のことを拝んでも、自分の心が平安になるので、自分自身が拝むことの恩恵を受けます。

拝むことで、他の心を開いて真理を示すというようなことにもつながる。



病気や災難を止めることは、心中の煩悩を除くこと

商売繁盛繁栄栄達を祈るのは、心中の福智を増進すること

怨敵悪魔を降伏させたいと願うのは、根源的な無知を降伏させようとすること

誰からも愛されたいと思うのは、慈悲の徳を大きくすること。


つまり、

世間の祈りの中に成仏(悟り=自分の心を知ること)が隠れています。

悟りとは幸せのことで、

幸せとは心が平安になることです。



世間の祈りは比較的即効性が期待されますが、

成仏(悟り)は時間がかかるりますし、必要と思わない人も多い。

でも、

長く祈り続けることで、世間の解釈は豊かになり、利益は長持ちします。

僕らには元々仏になる性質が隠されていますから、

苦しみ悩みを解決する能力もあるはずです。


密教は大日如来を総尊として、

阿弥陀、観音、不動、地蔵、文殊、普賢、薬師等々、

多くの仏を立てます。

それらの仏はそれぞれに誓願があり、特徴がある。

僕らの心が時間によって変わるように。

そして、

僕らの願いと仏の願いが溶け合う時に、

心が、それぞれの仏に成ります。

例えば、

仏さまを供養する。最大の供養は菩提心を発すことです。

菩提心は悟りを求める心で、その中心のひとつが慈悲心。

慈悲は思いやりと優しさです。

この心があれば、自他は平安になり、仲良く暮らすことができます。

仏の誓願は、皆が仲良く平和に暮らして、悟りに向かうことですから、

僕らが供養する時、僕らは仏になります。


自他の平安と所願成就のために、ご一緒に拝んでください。

[ 2017/01/07 07:25 | Comments(0) | 眞天庵仏教塾・密教塾 ]
仏器
昨日28日早朝、月例の護摩祈祷いたしました。皆様の平安と所願成就を拝みましたので、ご安心ください。


真言宗など密教のお寺には必ずあるのがこの仏具。ご本尊さんの前にあります。



ウチのは磁器ですが、金属製のものが多い。

中央にあるのが火舎。抹香を盛って焼香するもの 。

その両側に三個づつあるのが六器。水、塗香、花の器です。

ここに生花や樒の葉を盛り、作法します。
 
その他に、洗ったお米、もしくは炊いたご飯

それから灯明がある。

水が貴賎に関係なく行き渡るような布施を、

塗香は匂いのように身体に染みつく戒律を、

花を見て微笑むように、怒らず耐え忍ぶことを、

ご飯は、それを食べて心が落ち着くような座禅瞑想を、

灯明で暗闇がぱっと明るくなるような智慧を

それぞれ象徴しています。

さらに、

金剛香菩薩、金剛花菩薩、金剛燈菩薩、金剛塗菩薩、金剛歌菩薩、金剛舞菩薩

という仏さまの三昧に入り、

花の香りと美しさを択び、

妙香を薫じて心を清浄にし、

食事の喜びは禅の悦びのようであり、

灯明は、自分の心を知るという根本的な智慧で世間を照らす

ことを観想します。


信仰は心のトレーニングです。

勉強すれば成績が上がり、

練習すれば試合に勝てるように、

祈りを続ければ、心が少しづつ純化する。


道範師の『行法肝葉抄』には、

浄心を塗香
万行を妙花
功徳を焚香
果徳を飲食
智慧を灯明
自心中心王大日尊心数曼荼羅を供養する
自分の心を自ら供養する
手印は三昧耶曼荼羅
真言は法曼荼羅
四処威儀は羯磨曼荼羅

とある。




[ 2017/01/29 07:07 | Comments(0) | 眞天庵仏教塾・密教塾 ]
懺悔礼拝行
いくつかの仏教宗派で、懺悔文(さんげもん)を唱えます。

我昔所造諸悪業
(がしゃくしょぞう しょあくごう)
皆由無始貪瞋痴
(かいゆむし とんじんち)
従身語意之所生
(じゅうしんごい ししょしょう)
一切我今皆懺悔
(いっさいがこん かいさんげ)

僕らが昔から行ってきている様々な悪い行いは、

すべて始まりもない昔からの、貪りと怒りと愚かさが、

身体と言葉と心によってなされたものである。

それら全てを今、すべて懺悔します。


基本的に宗教は懺悔から始まる。 

『金剛頂経義訣』やお大師さんの『教王経開題』に、南天の鉄塔という話があります。

昔々、南インドの鉄塔に秘密甚深の経典が修められており、

龍猛(りゅうみょう)菩薩がそれを見るために出かけます。

このかたは学問も修行の果も超一流、他に追随を許さないくらいのすごい達人。

なのに、その塔の扉が開かない。どうしても中に入ることができない。

そこで懺悔をした。そうしたら、扉が開いて密教の秘密経典を得ることができた。

 
この塔は自分自身の象徴。

自分には万法が含まれているのに、懺悔が足りないからそれを見ることができない。

この鉄塔も自分も、大日如来=宇宙の分身です。



懺悔は心に思うだけ、上記の文を唱えるだけでもよいけれど、

もっとも良いのは、身体全体を使って懺悔礼拝すること。五体投地です。


ご本尊さまに向かって起立し合掌。

そのまま右ひざ、左ひざの順に折り、床につける。正座になる。

身体を前に倒して、右ひじ、左ひじ、額の順に床につけ、

手のひらを上へ向け、少し上げる。

上体を起こし、合掌して左足、右足の順に立ち上がる。

これでワンセット。スクワットみたいですね。

懺悔文を一回唱えながら、一度礼拝する。

これを二十一辺乃至百八遍

身体で懺悔を表します。

それから坐って拝む。

懺悔すれば願いも叶う。


この時期、これをすれば身体がポカポカ温まるというお蔭もある。




[ 2017/02/07 09:30 | Comments(0) | 眞天庵仏教塾・密教塾 ]
浄土で涅槃 その1
良いゴボウが手に入ればすり下ろし、いろいろ混ぜて揚げる。

お通じにとてもよろしい。



ゴボウは浄土の味がする 。

その浄土には二種類あります。

往生する浄土と、荘厳する浄土。


前者は、お薬師さんの東方浄瑠璃世界や阿弥陀さんの西方極楽世界など、

将来生まれようとする世界 。

後者は、

心が清まり調えば、現在の世界も清まり調う「今、ここ」にある浄土。


仏教徒の目的は成仏、悟りですので、浄土は仏の世界、悟りの世界。

それが遠くにあるか、近くにあるか

自分の外側にあるか、内側にあるのか。


いずれにしても、浄土に行く、今ここを浄土にする、浄土に成る

には、ぼーっと待っているだけではダメで、信心と修行が必要。

信心とは、

心が混じりけ無く、清らかであるかどうかを自省すること。

『倶舎論』には、

 信は心をして澄浄ならしむ

とある。

修行は、

身体と言葉と心を、仏のようにしようと努力すること

他の人に利益になるように拝み、生活を工夫すること。

それができないと、

現世は苦悩の世界で、思い通りに行かない、矛盾に満ちた世界になり、

できれば、

光り輝く明るい浄土になる。

『菩提心論』には

「本から心の中にある清浄な世界へ戻れば、そこが密厳浄土である」
 
信心と修行により、仏との交流を体験すれば、そこが浄土になる、ということ。

また、

「地獄に堕ちるも浄土に遊ぶも心次第。もし、清浄で迷いの無い本心に常に住することができれば、そこが浄土」(『性霊集』巻八) 

とある。


仏の見かたをすれば、今すぐにそこは浄土となり、僕らにはその素質があります。

そして、

十方にある往生する浄土は、荘厳する浄土の一部。










[ 2017/02/10 15:12 | Comments(0) | 眞天庵仏教塾・密教塾 ]
浄土で涅槃 その2
2月15日はお釈迦さんが入滅された日。

この日に、お釈迦さまの遺徳追慕と報恩のための法要が各地のお寺で行われます。

涅槃会(ねはんえ)とか常楽会と云う。

その準備とお手伝いで鳴門・長谷寺に来ています。


涅槃とは、サンスクリット語・ニルヴァーナ(Nirvāṇa)の訳語で、本来の意味は「吹き消すこと」

煩悩の炎が智慧によって吹き消され、精神の迷いが無くなった状態で、悟りのこと。

涅槃にはいろいろ種類解釈があるのだけれど、お釈迦さまが亡くなったことを、涅槃に入られた、というようになっています。

浄土は悟った人の世界で、涅槃は悟った状態のこと。



昨日は南国なのに雪が舞いました。





この観音堂で十一面供養を修法。


 

観音堂本尊・十一面観音。

様々な病気や災難をとりのぞくことによって衆生に利益と安心を与え、

妙なる悟りの世界へ導こうとするのが十一面観音の誓願

それを拝むということは、自分もそれを目指すことです。 
 


本堂には涅槃図を掛け、

 



台所で精進料理を作る。



涅槃会のほか、仏教の記念日には、

お花まつりなどが行われる4月8日お釈迦さまの誕生日。降誕会とか仏生会と云う。

12月8日はお釈迦さまが悟りを開いた日。成道会(じょうどうえ)が行われる。


真言宗では、

3月21日、お大師さんが入定された日に御影供(みえく)

6月15日、お大師さんの誕生日に青葉祭り

が行われます。


このような行事が行われる場所は浄土であり、

お参りし拝む人は涅槃に近づく。


お気持ちがありましたら、ご縁のあるお寺にどうぞお参りください。






[ 2017/02/11 16:16 | Comments(0) | 眞天庵仏教塾・密教塾 ]
仏教が始まる頃
お釈迦さまの時代(紀元前4~5世紀)古代インドには正統派バラモン教と非バラモンの宗教がありました。

バラモンはカースト制度最上位の司祭階級のこと。
 
北インド諸民族のほとんどがインド・アーリア人を祖先に持ちますが、

元来、アーリア人は遊牧民として牛を所有し、戦闘に従事する武士階級(クシャトリア)が主体でした。

そして、

自然の恵みと戦闘の勝利を祈願するための宗教が生まれ、

複雑な祭式儀礼を司る専門の司祭階級がバラモンとして勢力を持つようになります。(紀元前1000年ころ)

バラモン教の根本聖典をVeda(ヴェーダ)と云いいます。

ヴェーダ聖典は、狭義に三つないし四つの本集(サンヒター)を指します。

それは、

1、リグ・ヴェーダ:神々にたいする賛歌の集成
2、ヤジュル・ヴェーダ:ブラーフマナ文献(祭事部門)。この中にアーランヤカ(森林書)と  ウパニシャッド(奥義書:知識部門、梵我一如を説く)がある。
3、サーマ・ヴェーダ:旋律の集成
4、アタルヴァ・ヴェーダ:呪法の集成

Vedaの宗教は多神教(三十三天)

インドに入ったアーリア人にとって重要なのは、

インドラ神(帝釈天)と、祭式の中心を構成するアグニ神(火天)

インドラ神は酒に酔って暴風雨を巻き起こし、敵を打ち破って牛を奪う。これはクシャトリアの理想像で、

アグニ神は宗教儀礼・家庭生活に最も重要な火の象徴でバラモン的な性格を持ちます。

Vedaの宗教はこの二つを始め多くの神々に犠牲を捧げて祈り、

その加護によって種族の繁栄を目的とします。これをyajna:ヤジュニャー(供犠)と云います。


そこで祈られるのは、子孫と家畜の繁栄、長命、怨敵の降伏、名誉の獲得などの現実的な願い。
 
儀式の際に祭壇に呼び出される神は大きくなり、他は小さくなる。これを単一神教と云います。(henotheism)

更にその一神は儀式の都度交代します。だから交代神教とも云う(kathenotheism)


神々の中で、インドラ、アグニ神が特に重要視され、その祭式によりバラモン教が成立しました。

バラモン教はバラモンによる供犠の祭式が主体の宗教です。


広義のVeda文献の中に、本集に対する注解として膨大なブラーフマナ(神学書)が成立します。

さらに附属してアーランヤカ、ウパニシャッドの宗教書が編集されました。

これらはすべて天啓として絶対の権威を持ち、この権威に逆らうものは異端とされます(→沙門)

その後、多神教の神観に変化が現れ、従来の多神教の神々の中から創造的な性格を持った統一神が出現し、ブラフマー(Brahmā:梵天)と呼ばれます。
 
これは人格神であると同時に宇宙の根本の理法・中性原理としてブラフマンとも称されます。
 
ブラフマンは元々バラモン祭官の祈祷の言葉とその魔力を指す言葉でしたが、

宇宙の最高原理、唯一真実の実在を指す言葉となります。

以上のように、

バラモン教とはVedaの宗教の上に、

このブラフマンの宗教がバラモン司祭者階級を中心として展開した宗教。


現在、ウパニシャッド(Upaniṣad)の名称を有する100あまりの文献が知られていますが、

特に古ウパニシャッドと称されるものは、お釈迦さまより以前にMadhyadesa(インド中部高原)で作られました。

ウパニシャッドは別名奥義書と云われるように、師弟間に伝えられる秘密の教えです。 

そこでは、

最高神としての Brahmā あるいは中性の大宇宙原理としてのBrahmanと、個人的な我(Ātman:アートマン)との合一が説かれています。

Ātmanは元々呼吸の意味でしたが、人間の内面の実在を指すことになり、

「自我」を表わす代表的な語となります。

 
そして、人間の最も内奥にひそむ Ātmanこそは、宇宙の最高原理としてのBrahmanと同一であるという認識が Upaniṣad 哲学の最高の真理とみなされました。


この所謂 梵我一如(BrahmĀtman)の思想は、

バラモン教あるいはインド教の基調として2500年に渡り現在に至るまで、インド思想の王座を占めています。



仏教では、大乗小乗などのすべてを通じて最も重要な教理として四法印が説かれます。

1、諸行無常:すべての現象は変化して移り変わる。だから執着しない。
2、諸法無我:すべての物事は自己ではなく、実体は無い。だから執着しない。
3、涅槃寂静:執着が無いから煩悩は消え、そこは安らぎである。
4、一切皆苦:すべての現象は苦である。

このうち、特に諸法無我は仏教教理の最も重要な思想的特徴で、

古代インドにおいて、仏教徒たちはこれによってバラモン側から無我論者(anātmavādin)と呼ばれます。

この仏教特有の無我説も、正統バラモンの有我説に対する反対命題として理解されるべきもので、

諸法無我とは、全てのもののありかたは、我が無い の意であり、固有の実体としての我は無いということです。

Upaniṣadに説かれるような、

すべてのものに内在し、内部からものを主宰し、永遠性を持ち(常住)、絶対のBrahmanと本質を等しくするような実体としてのĀtmanは無い、ということになり、

仏教はUpaniṣadの哲人が思弁をこらしてついに到達した根本原理を否定して、

迷える人間の存在が、その存在から超越し、成仏し得るという教理を、縁起の教えとして成りたたせます。

仏教の哲学が無我説として、正統派バラモンの有我論の哲学と基本的に相違していることは重要。


正統バラモン有我説に対して、インド思想史上最も重要なものはUpaniṣadにありますが、

その中に転変説という思想があります。

 
それは、

宇宙の最初にあると想定される唯一の精神的原理である梵、あるいは梵天が、

性質上、質量因あるいは動力因としても活動性をもち、

梵自身の持つ活動性によって梵自ら変化を起こし、転変して、

その中からさまざまな衆生なるものが生じて、我々が現在見るような雑多な世界があるとします。


※参考
例えば、

焼きそばの質料因は、生麺や豚肉など、焼きそばの材料を指す。

焼きそばの作用因(動力因)は、「焼きそばがここにある原因」つまり料理人による実際の「調理」そのものを指す。 現在「原因」と言った場合、多くこれを指す) 



正統バラモンの体制では、この転変説によって宇宙と生成を解釈します。

それは哲学上形而上学に属する一種の宇宙論であり、正統バラモンの思想の特色です。

正統バラモンの体制では、この形而上学を出発点とし、そのすべての学説をその上に成立させました。


この転変説をとるものは必ず禅定を修する必要があります。

禅定は dhyānaのプラークリット形(俗語形態)であるJhāna の音訳と意訳を一音づつ重ねた語で、静慮とも云います。心が静まること。

心がとても静まった良い状態になることが、禅定の効力のひとつ。

そうすれば安楽な気持ちになり、さらに個人的な心が無くなり、個人的なものより一層深く入った全ての人々の心に通づる普遍的な心に到達できます。

これが禅定の目的。

 
禅定においては肉体と精神の二元において、

肉体が勢力を持っているために、心がそれによって穢されると考えます。

その場合、肉体はそのままで精神あるいは心を肉体から遠ざけて静めることに努めます。

肉体と心が結合しているために、心がその本性を表わせないと考え、

その結合を解くことが必要とされますが、

究極的に肉体の影響を受けないのは、肉体の死以外にありえません。

ところが修行が完成しない限り、輪廻によって生まれ変わることにより、再び精神と肉体が結合した状態になってしまいます。

 
結局、現在の生存において、幾分でも禅定の状態に入った時は、

その期間のみ少なくとも肉体の力をあまり受けないことになり、

禅定に入っている期間だけを目的として修されます。

 
この禅定とは対照的にタパス(tapas)とヨーガ(yoga)があります。

tapasは本来熱の意味であり、精神的肉体的緊張を指します。

古いリグ・ヴェーダ(ṛgveda)の賛歌においても、神々はtapasによって世界を創造したとあり、

人間もtapasによって特殊な体験をすることが可能とされます。
 
tapasは苦行のことで、特に断食節食など食事から肉体を苦しめる修行。


精神と肉体の二元に対する考えかたも、禅定とは全く逆であり、

心はそのままにし、肉体を苦しめその力を削ぐ。そうすれば心は乱れないと考えます。


また、両脚を組んで坐り、肉体に苦痛を与えることにより、

特別な精神的体験をし、恍惚状態または忘我の境地に到達する。

このような修行をyogaと云います。yogaとtapasは結びつくことが多い。

お釈迦さまが在世したB.C4~5頃の古代インドには、tapasやyogaを行う出家修行者が多く、

śramaṇaと呼ばれ、その俗語形Samanaから沙門と漢訳されます。


仏典では必ず沙門はバラモンと併記され、

彼らは正統バラモンの体制から異端視され、これに対しVeda聖典の権威を否定する傾向をもった非バラモン的宗教思想の流れを形成しました。

当時の出家には、

1、四住期による出家
青年期に師匠の家に住みVedaの祭式を学び
成人して生家に帰り、結婚して家を守り子どもを儲け
祖先の祭祀を絶やさぬようにしてから出家し
隠者の生活に入る。

2、バラモン社会に嫌気を抱いて、直ちにその社会から出家する。

の二種類がありました。

彼らは正統バラモンの転変説とは対照的に、宇宙の根源はひとつではなく多であり、

多数の要素が存在すると考えていました。
 
その多数独立の要素が、何らかの形式で結合し集積して、今現に我々が見るような雑多な世界が成立した、ということ。

世界は元素で作られている、というような考えかたです。

このように、

雑多から雑多が成立するというのが思想的特徴です。

 従って霊魂の多様性を信じ、霊魂と物質を区別し、世界を実在視しました。

さらに、正統バラモンがたてるような世界の創造者を否定し、最高神を認めず、

Vedaの祭式をはじめ、Vedaの聖典や神々の権威を認めないので nāstika(異端)と呼ばれていました。

仏教もまたこの沙門の宗教として、 nāstikaのひとつとみなされます。
 

最初期の仏教が、

神をたてない人間中心の宗教である特殊な性格は、このような古代インドの歴史的事情によると考えられます。


(昭和63年 高野山大学仏教学概論(蜜波羅鳳洲先生)の受講ノートから)



[ 2017/03/21 09:26 | Comments(0) | 眞天庵仏教塾・密教塾 ]
病者加持法
仏教は教理を経典や論書で勉強し、 

禅定などの修行の実践によりそれを確認します。

真言密教の修法(確認方法)は念誦と護摩。 

これを体得すればおのずから他を救済できます。

そのためには何度も繰り返す修練が必要。



大山公淳先生の『中院流日用作法集 伝授録』には 

「祈祷とはおがむことである。おがめば必ずおかげがある。このことを心におかなければならない」

「因業を滅して本不生の世界( 毘盧舎那の世界)に入るのである」

「このようにして五大、六大の神秘不可得を直観して 毘盧舎那の世界に入我我入する時、諸病が治癒されるわけである。吾等人間の身の上に覆いかぶさってくる種々の悩み、病気は、この 毘盧舎那の世界に入ることによって解決されるわけである」

とあります。

諸病の原因は『十住心論』にあるように根本的な無明であり、
 
毘盧舎那の世界に入る方法は、字輪観、五字厳身観、五相成身観。

 
仏の心に成れば(戻れば)、仏の身体になる

と云うのが密教の立場。


病者加持法は、日常の供養法で本尊加持の後に修法するのが良いと思う。 

これは、開眼作法も引導作法も同じ。
 
しかし、受者宅などではそうもいかないので、

読経の中で所作を行うことになります。

その際、三平等観に住することがもっとも重要で、

そうでなければただのお遊びになってしまう。
 
般若心経なら、

秘蔵真言分の真言を二十一編唱え、最後の一回で真言に合わせて九字を切る。 

その際、臨を望に変え、吽字を観想する。

 
この吽字はア、カ、ウ、マの四字に別れ、

因業による吾我を損減して本不生の世界に入ることを意味する 

と『吽字義』にあります。




[ 2017/03/23 09:40 | 眞天庵仏教塾・密教塾 ]
供養と回向
当家の先祖全員の回向をお願いします、

と、ご婦人がご先祖さん13名の戒名と命日、続柄を書いた手紙を送ってきたので、

毎月命日に拝んでいます。

菩提寺が無く、歳をとっていろいろお参りも出来ない、

家で供養は出来るけれど、回向は出来ないから

と言う。

ご家庭のお仏壇で拝むだけでも良いのですが、何かもう少し、というお気持ちがあるのでしょうね。

 
供養はサンスクリット語 プージャ(pūjā)の訳語で「尊敬する」という意味。


尊敬する人に対してですから、

花を捧げ、香を炊いて清浄にし、馳走をもてなし、明かりを灯す。

というような供養を、僕らは本尊に対して行います。

水が生命を潤すように布施の心を持ち、

塗香が身体にしみこむように戒律を保ち、

花を観て微笑むように怒らず、

香が淡々と燃え続けるように精進し、

ご飯を食べて心落ち着くように座禅瞑想し、

勉強して智慧の明かりで迷いの闇を破る

というのが本来の供養。これらは悟りを求める行い。

自他一緒の悟りを志すことが最高の供養です。


葬儀法事日々のお勤めでは、

故人に学び、良いところを受け継いでいこうとする、

長所に学んで自分たちの生きかたを考えるのが供養になります。


回向はサンスクリット語 パリナーマ(Pariṇāmanā)の訳語で、意味は「あまねくふりむける」こと。
自分が修行した功徳を広大にするために本尊に回向する。
 
自分が積んだ功徳で、他の願いをかなえ、皆一緒に悟りの世界に行こうとすること。

日ごろから他への心遣いを練習することが、回向になります。




[ 2017/04/10 13:40 | Comments(0) | 眞天庵仏教塾・密教塾 ]
静座と呼吸
『十二頭陀経』や『智度論』には、
 
静座によって食は消化しやすく、気息は調和する

とあり、

『摩訶止観 』には、

臍下丹田に心(意識)を止めると、気息を調え疾病は癒える。

足下に心(意識)を止めると、五臓(特に風大:腎臓)を正常にする。

とあります。

さらに、

『維摩経』には、

空なる心身に病生じるは妄想、顚倒、煩悩による

とあり、空観(空を体得する瞑想修行)で治病する、と読めます。


座禅の前行にする数息観(数をかぞえながら呼吸する方法)は疲労回復にも役立ちますが、

『摩訶止観 』には呼吸法による効果が細かく説かれています。


呼(口を大きく開いて呼吸する):熱病 心臓 に効果がある。
吹(火を吹くように):冷病 心臓
嘻(歯をあわせたまま):関節痛、 風病、腎臓病
呵(口を急に開いてする):浮腫み 肝臓病
嘘(咽喉に力をいれてする):痰切り、肺病
呬(上下の歯の間を少し開け、舌を浮かしてする):疲労、脾臓病

そして、

出息は地大(肝臓)、水大(肺)の不調、

入息は風大(腎臓)、火大(心臓)の不調

に効果的とあります。


これらは六大陰陽五行色体表にまとめましたので、

お気持ちがありましたら拙著をご覧ください。

『望診法講義録 手相編』

http://shintenan.syoyu.net/%E7%B1%B3%E3%81%9E%E3%81%86%E3%81%AE%E5%AE%B6/%E8%BF%91%E6%97%A5%E5%87%BA%E7%89%88%E3%80%81%E5%86%8D%E7%89%88  


いずれにしても、

姿勢良く静かに坐り、呼吸を調えることで、

乳酸の減少、副交感神経優位(リラックス)、多量の酸素で血糖を燃焼

という効果が期待でき、

腹式呼吸によって内臓がマッサージされて血行が良くなるため、排毒が促されると考えられます。




[ 2017/04/13 08:01 | Comments(0) | 眞天庵仏教塾・密教塾 ]
唱える功徳
『十住心論』に

心の病は多いといっても、その原因はただひとつ、無明(根源的な無知)である。

とあり、その無明は

『般若心経秘鍵』に、

(如来のさとりを示す)真言は不思議なり

観誦すれば無明(おろかさのまよい)を除く 

一字に千理を含み 即身に法如を証す

行行として円寂(しずけさ)に至り 去去として源初(さとりの ねもと)に入る

三界は客舎の如し 一心は是れ本居(ほんらいのすまい)なり

とあるので、唱えることが心の病を治すことになります。

また、

『金剛頂経』の釈タントラ「Vajraśikhara」には、

真言は自性成就の力を具すものであるから、誦するだけでそのとおりになる。

とありますが、そのためには、

正しい真言を誦し その真言の正しい意味を知らなければならないでしょう。




『十住心論』には、身体の病の原因について、

その原因は地大(肝臓)、水大(肺)、火大(心臓)、風大(腎臓)の不調と、

祟り(妄想)、悪業の報いの六つであり、

治す方法は、

温泉、散薬、丸薬、酒、針、灸、まじない(妄想を解く)、いましめ

の八つとあります。


この、「まじない」と「いましめ」に、真言呪文陀羅尼などを唱えることも含めて良いと考えます。


唱えることは、ただ坐っているよりも精神の集中力を高めます。

人間は動物なので、身体を使ったほうが効果が出やすい。

精神集中の結果、心が動揺しなくなる三昧の状態も、数多く「正しく」唱えることによって体験できます。

そして、その唱える音声がどこから来てどこへ行くのかを、如実に観察することで、

ものの道理、心の源底を知ることが出来ます。

また、

唱えることは悟り、成仏のためですが、

成仏とは、仏のような心になるのではなく、自分が仏そのものになることです。

宇宙のすべては仏の象徴、シンボルですが、音声も同じです。

さらに、

精神を集中すると、そこの神経が興奮して血行がよくなります。

五大それぞれが五臓に関係しているので、五大を観想して唱えることで、何かしらの身体的効果があるでしょう。


詳細は『望診法講義録 手相編』の六大陰陽五行色体表解説をご覧ください。

http://shintenan.syoyu.net/%E7%B1%B3%E3%81%9E%E3%81%86%E3%81%AE%E5%AE%B6/%E8%BF%91%E6%97%A5%E5%87%BA%E7%89%88%E3%80%81%E5%86%8D%E7%89%88



[ 2017/04/13 11:16 | Comments(0) | 眞天庵仏教塾・密教塾 ]
本宅へ帰る
掛け軸は仕舞うもの。

掛けて観るより、巻いて仕舞うほうに重きを置いたもので、

着物と同じで日本らしい。もちろん、面前に出せば美しい。

どちらも、

季節や行事によって、また気分によって替えるのが素敵。


ところで、

密教の修法には、真言を唱える念誦法と、護摩法があります。

護摩法には、実際に火を焚いて供物を焼く外護摩と、それを心の中で行う内護摩がある。

そして、護摩法の前行は念誦です。


どちらにも、その作法の中に、観想(瞑想)のプログラムがあります。

瞑想の対象はいろいろありますが、どれもが、

心とは何か、
悟りとは 、
仏とは、
真理とは、
我とは、

というもののシンボルです。
 
それを対象として心静かに瞑想します。

 


僕らは自分が本より仏であることを忘れている、または、うまく受け入れられないから、

これら図画によって悟らざる者に開示されています。


これによって、

心とは、迷いとは、苦しみとは何かが分かる。 

何においても、知らないと不安になりますが、知っていれば安心する

ということ。

安心するために、一緒に瞑想しましょう。

迷う前の自分に戻る

自心の本宅へ帰る

方法です。




[ 2017/05/01 13:04 | Comments(0) | 眞天庵仏教塾・密教塾 ]
立石寺本堂諸尊愚見
長野県飯田市立石にある高野山真言宗・千頭山 立石寺は、天安元年(857)開創。

今年で1160年になる伊那谷で最も古い寺であり、伊那西国三十三番札所の第一番札所。



立石寺という名の由来は、

「一夜のうちに七尺に余る青石大地より突出す、此等の因縁によって寺を立石と改む、立石村というのも同時なり・・・」と16世紀に書かれた立石寺縁起にある。

立石寺と云えば、芭蕉の句で有名な山形県の通称 山寺(宝珠山立石寺)が有名で、

こちらは円仁さんが開いた天台宗の寺。

両者のつながりは不明だが、

「飯田市・立石寺の伝広目天立像について」(『飯田市美術博物館研究紀要 14』 2004.4)
http://ci.nii.ac.jp/els/contents110008448268.pdf?id=ART0009690374

によれば、本尊十一面観音は寺の創建より古い可能性があり、

寺の隣には比叡山の地主神である日枝神社(日吉神社)があることから、

何か関係があるのかもしれない。山寺の開創も貞観2年(860)と近い。


現在の立石寺本堂は江戸時代、領主・近藤重尭の再建とされており、堂内諸尊もその時に補修されたと思われるが、それ以降修復の様子はなく、国の重要美術品である本尊はじめ、仁王門の密迹金剛、執金剛神も修復が必要なレベルである。

本尊の十一面観世音菩薩は、平安時代中期~後期の作と考えられる秘仏。

この地域は、高森町発祥とされる市田柿とともに立石柿の産地で潤い、「柿の観音」と信仰されていた記録(絵馬)がある。


秘仏の前には前立ちの十一面立像があり、その両側に四天王をまつる。


十一面観音の周囲に四天王を配置するのは、東寺・食堂を始め作例は多い。

仏教の世界観に三界(さんがい)がある。

欲界 :欲望の働く世界
色界 :欲望の無い物質の世界
無色界:精神世界。

この三は共に迷いの世界で、この中を輪廻する。

その欲界に地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天の六つがあり、

天の中に六種類ある(六欲天と云う)

その下から(?)二番目の忉利天(とうりてん、三十三天とも云う)は須弥山上にあり、そこにおわす帝釈天に仕えて四方を守護するのが四天王。

忉利天は戒波羅蜜(智慧によって持戒の行が完成していること)の世界なので、禅定(心を静かにする瞑想修行)を護るのが四天王の役割であろうか。

灌頂などの儀式を護るのは十二天

修法の行者を護るのが四天王

と、僕は考えている。

また、『孔雀王呪経』などに、護摩壇には四天王を配する記述がある。この本堂も護摩壇である。


十一面観音はバラモン教の十一面の暴神・エーカダシャ・ルドラ(11の顔を持つもの)が由来と考えられるが、

『十一面観音神呪経』には、

十一面というのは心真言(神呪)のことであり、十一面観音という変化観音は形成されていない。

その十一は

十一倶胝の仏陀によって説かれたから、とする。倶胝(くてい)は数の単位で、10の7乗。

十一面の心真言は、「ブッダの大悲に入る智慧の真髄」と呼ばれ、

現在一般に唱えられている十一面観音の真言にも「キャロニキャ=大悲」とある。


立石寺本堂には聖天もまつられているが、

これは『十一面観音神呪経』の「身中障難の除去を目的とする息災法」に、

十一面観音と聖天を灌浴する

とあることからであろうか。

また、

十一面と聖天は、ヒンドゥーのシヴァとガネーシャの関係とつながりがあると考えられる。

それは、

上記のエーカダシャ・ルドラはシヴァ神の影響を受けており、

「Buddhist Thought and Ritual. Motilal Banarsi(2001)」には、

シヴァはウパーヤ(方便)として書かれている。

この方便は『観音経』に

「観音は広く智の方便を修して、十方の諸の国土に、刹として身を現ぜざること無し」

「世尊。観世音菩薩。云何遊此娑婆世界。云何而為衆生説法。方便之力。其事云何。」

として、観音がさまざまな身体になって説法することが書かれており、その中に大自在天(シヴァ神)も現れる。


十一面観音はもともとインド伝来の呪術的な仏であり、説かれている経典も、

『十一面観自在菩薩心密言念誦儀軌経』、『陀羅尼集経』、『十一面観音神呪経』 などのいわゆる修法の経典である。

内容は、

衆生救済
治病
降伏
息災(身中諸難の除去)

など、呪術的な作法が説かれる。

また、

胎蔵曼荼羅の蘇悉地院(両部不二:悟りの境地に達すること)に描かれる。これは利他の実践によって成就する。

観音は蓮華部院に描かれるが、

十一面は観音のなかでもとりわけ蓮華部の徳(すばらしき完成)が優れているので、蘇悉地院に配置されている。


このように現世利益の尊格と、瞑想修行による悟りの両面がある仏であるが、

前者は立像で、後者は坐像で現される。立石寺本尊は立像である。

いずれにしても、

密教に取り入れられることにより、現世利益によって安心を与え、悟りへ導く、という思想に変化するのはどの仏でも同じである。


さらに、

この尊の心真言は、病気や貧乏からの逃れることのみを祈るのではなく、「それもあるけれど」菩提心を呪文化したものである。


以上のように、

十一面観音、聖天、四天王をまつる本堂は、

密教寺院としては当たり前のことであるが、息災と懺悔と悟りの成就のために修法をする修行道場である、と云える。



[ 2017/05/20 07:56 | Comments(0) | 眞天庵仏教塾・密教塾 ]
心を調える3分間マンダラ瞑想法
マンダラには多くの仏さまが描かれていますが、

それぞれ役割と配置が決まっています。




(善通寺「密教マンダラ展」図録より)


マンダラは「悟らざる者に開示」したもので、

凡人に分かりやすいように、悟りの世界、宇宙(の真如)の本体、姿、働きを図画で表しています。

多くの仏の中心が大日如来。これが実相。

顔がひとつ、手足は二本ずつ、きれいな服を着て、冠をかぶり宝石で飾られた、僕らと同じ姿です。

あなたも大日如来が変身した姿と考えてよろしい。

他の仏は大日の役割を分担しています。

多くの仏があって大日がある。大日があって多くの仏がある。


宇宙には、

多くの星、大気、水、元素があって、ひとつの宇宙になている。

地球は、

多くのいのちが集まって、ひとつの地球になっている。

僕らの身体には、

多くの細胞のいのちが集まって、僕というひとつの命を作っている。

どれもが、代謝して循環して変化しています。


だから、

僕らの身体もマンダラです。

このマンダラを観想します。

この身は宇宙であり、曼荼羅。

仏が充満して、すべてが仏(細胞、眷属)

存在は仏である。


他のいのちも同じだから、

僕の中にマンダラがあると同時に、

他のいのちで構成されたマンダラの中に僕がいる。


まず、

リラックスした姿勢で坐ります。

両ヒザの上かヘソの前に、掌を上に向けて置きます。

こうすることでリラックスする。


呼吸は鼻だけで行います。口を閉じて。

呼気の時にお腹を引っ込め、数秒止息する練習をすると、

集中力と内臓を鍛えるのに効果的です。


ゆっくりとした呼吸に慣れたら、

身中に多くのいのちがあり、それが自分の命になっていると観想します。

マンダラのように、宇宙のように、海の中のように、地球全体のようである、

とイメージしてもよいでしょう。 

自分の中に宇宙があり(きらいな人も嫌なことも、そこにあります)

宇宙の中に自分がいる。

自分以外のいのちも同じです。

家族、地域社会もみんなでひとつ。


3分間程度瞑想したら、身体をなでるよう動かして深呼吸をし、坐を立ちます。


以上。



自分以外の「いのち」について考えることを慈悲といいます。

この瞑想を続けることで、

注意力や集中力が身につき、

慈悲の心が育ち、穏やかになります。

そして、ストレスから開放され、心身のバランスが良くなるので、さまざまな病気の予防につながるでしょう。


大切なことは、毎日続けること。

勉強すれば成績が上がり、

練習すれば上手になるように、

心のトレーニングも続けることで調います。

心は自由で奔放、自分勝手なので、

それを制御するための単純な繰り返しは、心の純化にとても有効です。


[ 2017/07/05 16:28 | Comments(0) | 眞天庵仏教塾・密教塾 ]
戒香定香
縁者の自宅で法事。

読経の途中で、

順番にお線香を

と促したら、

全員が3本づつ火をつけようとするので、

ちょっと待って、危ないから。

一本でいいですよ。

と言ったら、

どこかのお坊さんに、必ず三本づつあげるよう云われたらしい。

どういうつもりが知りませんが、心を込めて一本でよろしい。香炉からあふれて危険。

ちなみに、

香典はこちらから名前が読める向きで置く。

祝儀不祝儀とも、受け取ったものは正面がお客さん側を向くようにお盆などに載せますが、
 
仏さまは返せないからね。

まあ、これはどうしても、という作法でもないけれど。



さて、お香は精進(線香)や戒律(塗香)の象徴。

「香はよく穢悪を除き、煙気は雲生に象(かたど)り

慧雲法雨を含んで、つねに衆生を潤すに擬す」

「菩薩は悲願を懐(おも)うて、つねに戒定の香を塗り、

煩悩の病を滅除して、苦海に舟航となるなり」(『宗秘論』)

 
「浄心を塗香とし、万行を妙花とし、功徳を焚香とし、果徳を飲食とし、智慧を灯明とす」(『行法肝葉抄』道範)

とある。

僕らは、香の煙(香り)とともに法界(仏の世界)に入ります。

香りが衣にしみつくように、

戒律や功徳をしみこませる。習慣ですね。

人間はいろいろな戒律約束を破らざるを得ない弱い存在なので、

懺悔反省します。

そして、

戒律の条項そのものではなく、その背景にある差別を戒めます。


戒律は修行に総括されます。

やむを得ず生きるために戒を犯すけれど、

そのことに心をおき、

この世の総てのものに恩があることを実感する。

それを感じることが修行です。


「修行の人 すべからく本源を了すべし。若し本源を了せざれば学法益なし
いわゆる本源とは自性清浄の心なり」

と『一切経開題』にある。

本来清浄である自分の心を知ること、忘れないこと、そのようになるよう工夫することが戒律になります。


[ 2017/08/02 09:21 | Comments(1) | 眞天庵仏教塾・密教塾 ]



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