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[ 2024/11/30 15:37 | ]
足を組む女
ホテルの朝食会場で、

僕は山盛りのキャベツ、レタス、トマト、キュウリ、アルファルファ、わかめに醤油をかけて食べていた。

ふと、となりのテーブルを見ると熟年夫婦がうつむいて食事。

その向こうの席には30代くらいの女性ふたり組。

見えるところの女性3人は、足を組んで食事をしている。

 
足を組むのは不調の徴。

足と関連した側に便秘があり、その反対側の卵巣にも何かある。

便秘があるほうの脳が弱く、反対側の肺が疲れている。

こういう時は身体が疲れているから、ひじをついて食事をする。

背中もまるまっている。

品が無く、見苦しい。


体調が悪いと距離感が無くなります。

言葉の距離感も無くなるようで、

敬語や助詞の使いかたがおかしくなる。

これも品が無く、見苦しい。

お行儀よく、きれいな姿勢で食べましょう。



山芋はすり鉢でよくすり、

昆布出汁か冷めて濾したみそ汁を加えながらすり混ぜます。

山ワサビを刻んで醤油に漬けたものを添えるとうまい。

背筋を伸ばし、口に入れる量を少なくして食べます。

箸を汚すのは先3寸くらいまで。






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[ 2016/03/31 10:14 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
ツワブキとネギ坊主
母が鹿児島出身なので、彼の地ではポピュラーなツワブキが食卓に上がります。



フキよりも味が濃い。

フキよりも陰性と陽性が強いので、そのアクを抜けばフキよりも陽性な甘味が出ます。

陰性が強い野菜は油揚げと炊くと、味のバランスがよろしい。



植え替える前のネギに葱坊主が出たら、柔らかいうちに採って食べると、ねっとりとしてうまい。



てんぷらにして、柚子醤油をかければ、その酸味が油を和らげます。





_______________________________

※「電子レンジの話」

電子レンジと電子レンジで調理したものは違います。

放射線は可視光線(眼に見える色)より陰性ですが、電子レンジや携帯電話などのマイクロは陽性です。

そして、その三つとも電磁波。詳しくは、
https://groups.google.com/forum/?hl=ja#!topic/shintenan/hnTFwGYUwAI



※「春の頭痛と骨」

僕らは脊椎動物なので、骨の良し悪しが人生で大切。詳しくは、
https://groups.google.com/forum/?hl=ja#!topic/shintenan/C3ijEQ7cuXo

[ 2016/04/04 11:11 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
右と左
インターネットをちょこちょこ覗いていたら、

陰陽を説明する記事に、

ねじの原理から、
右に回転→中心に集まっていく動き。求心性の力。陽性。
左に回転→外に広がっていく動き。遠心性の動き。陰性。

料理で考えると、
右回転→素材の栄養が集まり美味しくなる!
左回転→栄養もおいしさも外へ逃げてしまう

というものがいくつかありました。

これ、どうなのでしょうね。

右でも左でも、回転すれば遠心力が働いて広がる力(陰性)になります。

ネジが右回りで締まるのは、そのように溝を切っているからで、逆もあります。身近なものでは扇風機のネジ。

回転の遠心力に反対するものは重力(加速度)です。それが陽性なひきつける力。

地球は左回転していますが、金星は右回転。どちらも陰性な遠心力が働いて、太陽の陽性な重力とバランスをとっています。

石臼は左に回すと引いた粉が出てくるようになっていますが、これもそのように溝が切ってあるからです。逆に作れば右回りになる。

そもそも左右は見かたによって変わります。

北極を上にすれば左回転ですが、南極から見れば右回転。

自分のどちらが右なのかも変わる。

前を向いている時と後ろ向きでは左右は逆。

つまり、固定的な左右は無い。
 
陰陽で考える場合は、

左右ではなく、広がっているか縮んでいるかで判断したほうが良いでしょう。


面白いのは魚や乗り物の絵。

右から左へ走る、泳ぐ絵が多い。左側を頭や先頭にしますね。

それから、

ふたり並んで歩くとき、左側の人が先に進もうとする。

これらは日本語の文章が右から左へ進むので、読むのも書くのもそうしてきたから、それに目が慣れているからだろうけれど、

最近は横書きが多いから、左から右へ移るのも違和感が無いのかな。




ところで、

日本の所作作法では左が上位です。左大臣のほうが右大臣より偉い。

これは元々中国の思想。あちらでは「君子南面す」で、偉い人は南を向いて坐す。

皇帝は不動の北極星を背に南に向かって座るのが善し、ということ。

すると、太陽は左の東から昇って右の西に沈む。

日の出のほうが沈むより吉祥で尊いから、左が右よりも上位としました。


仏教ではインドの作法を引き継いで、右が左より清らかとしています。右が仏で左が凡夫。

これも建前というか、仮に二つに分けたほうが説明しやすい、ということで、本質は左右不二。

差別区別はなく平等で、合掌のように表裏一体すべては仏。


僕らが着ける袈裟は偏袒右肩(へんだんうけん)。布を左肩にかけ、右肩は出します。

右肩を出すのは敬意を表し、寺の法要などでは、本尊さまに右肩を向けて行道します。

攻撃する右手を見せて、敵意が無いことを示すため、とも伝えられています。

数珠は凡夫である左手に架けます。



西洋では、剣を持つ手が聖なる上位。

ナイフとフォークでものを食う民族らしいですね 。

だから、国旗は右側に立てる。外から見れば向かって左。


 
食養では、右に出る症状は比較的陽性の排毒と考えます。

でも、

それより前後のほうが影響が強く、さらには上下のほうが差が大きい。

そして、その人の姿勢や環境によって変わります。

もっとも陰陽の違いが出るのは水分の多少ですが、それも温度や時間によって変わります。臨機応変。


右が陽性、

などと固定してしまうこと自体が間違いなのでしょうね。




[ 2016/04/05 07:40 | Comments(0) | 陰陽研究塾 ]
お葬式雑感 1
 お葬式の作法は地域によってずいぶんと違います。

枕経があったり無かったり、

火葬は葬儀後だったり前だったり、

納棺は通夜の前だったり後だったり、

告別式と葬儀が一緒だったり別だったり、

野辺送りをしたりしなかったり、

その場所時間は親族だけだったり、僧侶も一緒だったり、

みな地域によって違います。

先日、横須賀で葬儀の後、300キロ移動して信州伊那谷でお通夜葬儀を勤めましたが、戸惑うことが多かった。

僕ら僧侶が行う所作も地域によって違います。

さらに、それぞれ師伝が違い、葬儀会場では時間的な制約もあるので、お坊さんはそれぞれ心持に従って行うべき作法を択び、工夫して拝みます。

おそらくどの宗派でも、これが唯一正式な葬儀作法だ、というものはないでしょう。


細かい話ですが、

僕は、

枕経か通夜のときに臨終の印明を授け、

翌日朝勤(後夜行)で、本尊加持の後に引導作法を修し、
葬儀では授戒、授血脈、灌頂の作法をします。

常の行法では、入我我入で五相成身観、字輪観で五字厳身観を修していれば、両部の観想が身につくので、導師の準備としてよろしいかと思います。



[ 2016/04/08 09:18 | Comments(0) | 眞天庵仏教塾・密教塾 ]
お葬式雑感 2
僕らは拝む時にご本尊をおまつりします。

葬儀会場では葬儀屋さんが用意してくれますが、そのご本尊さんにもいろいろあります。

葬儀はご遺体にお授けをするのですから、ご本尊はどなたでも良い、とも思いますが、

『二巻章』をもとにした『真言宗引導作法』によれば、死者の枕方には不動明王を懸けることになっています。


実際の葬儀会場では、

真言宗だから大日如来ですな、

と会場側で判断しておまつりすることが多い。

場所によっては阿弥陀さんやお釈迦さんもある。

「南無大師遍照金剛」と御宝号のお軸が懸かっていることもある。

多くの場所では、
 
真言宗なら大日如来、禅宗ならお釈迦さま、浄土宗なら阿弥陀さん、日蓮宗なら南無妙法蓮華経というお題目、

などと決めておまつりするところが多い。

葬儀の祭壇だけでご本尊さんは無し、故人の御影だけのことも多い。


そもそも本尊とは、

自分の無力さをご本尊さまにお願いして助けてもらう、

という考えかたもありますが、

僕らの中には無限の可能性があり、それが本尊。つまり本尊は我が内部におわします。

その、自分自身にそなわっている可能性を開発して現実にするために拝む。

本来自性清浄の心が本尊ですから、それを体験するために修法します。

その修法には、本尊と行者と一切衆生も参加しています。

お葬式の参列者もこの利益にあずかる。
 
列席することにより信心が深まり、心が純化し、それぞれ自分の中にある本尊を見出す。


だから、


お葬式などの儀式に参列して拝むことは、悟りへの道程になるのです。

[ 2016/04/08 09:26 | Comments(0) | 眞天庵仏教塾・密教塾 ]
お葬式雑感 3
高野山真言宗のお葬式でお不動さんをご本尊とするのは、

お不動さんが教令輪身(きょうりょうりんじん)という尊格だから、

と僕は考えています。

お不動さんは大日如来の使者で、

救われないもののために大日如来の命令を実行する人、
 
そういう役割のかたを明王といい、教令輪身といいます。

 
本来大日如来である僕らの身体が多くの細胞で作られているように、

あらゆる仏は、大日如来が主の世界・マンダラの一部。大日如来は諸尊の総体。


お不動さん・不動明王は、

「真言の道を実践するものを守護するのが誓願」(『底哩三昧耶経』)

「この尊は大日の化なり。使いとなりて諸務を執る」(『唅十九種相観想略頌文』)

とありますが、


大日如来が派遣した使者は、大日如来が変身した姿。

方便のために、どんな仕事でもすぐにやる。

ですから、故人を導く儀式の本尊として適格。

お不動さんはじめ、明王と呼ばれる仏さまは憤怒の姿をしていますが、

これは煩悩が強く強情な相手でも、慈悲の怒り(の力)で悟りへ導く姿です。


お不動さんが右手に持っている剣は、煩悩障と所知障のふたつを断ち切ります。

僕らが覚りを開けない、ブッダになれないのは、このふたつがあるからです。

煩悩障は我々自身の行為の誤り、道徳的欠陥。

所知障は客観的認識のあやまり。正しい教えを聞いても実践できないという欠点。

これを智慧の剣で断ち切ります。

 

[ 2016/04/08 09:41 | Comments(0) | 眞天庵仏教塾・密教塾 ]
お葬式雑感 4

僕らはお葬式で、

引導作法という所作を行います。

これは、

「引導して正法に入らしむ」(『大日経疏』)

ということですが、

故人を出家させお授けをしています。お坊さんにしているわけですね。

僕らが生きている間に、得度して僧侶になったのと同じ作法です。

仏弟子としての戒名をつけ、戒律を授け、

自坊にて香華を供えて引導作法を修します。

死者の所へは金剛杵を持ち、仏の三昧に住するための観想と読経、念誦をします。


これはもちろん、

仏に成る、成仏する、悟る

ためです。

迷いを悟りに変える。

仏とは大日如来のことですから、大日如来になるためです。

大日如来は宇宙の象徴で、悟りそのもの。


真言宗の引導作法で他の宗派と違うのは灌頂(かんじょう)を行うこと。

密教の戒律や印・真言・資格を授けて、正統な大日如来の継承者とするための儀式です。 

つまり、

葬儀ではお導師さんが故人の師となります。

そして悟りに導く。

故人のみならず、

ご遺族ご親族を悟りに導きます。

お葬式は、

生死と涅槃(迷いと悟り)が無別である、

それは、自分と仏が同じであること、

を体得する機会です。

それが、人格の完成と、安心と平安を得ることにつながります。

 


[ 2016/04/08 09:58 | Comments(0) | 眞天庵仏教塾・密教塾 ]
お葬式雑感 5
なぜお葬式をするのでしょうか。

人間には肉体的な死とは別に、社会的な死、というものがあります。僕らは社会的な生き物だから。 

そのために、お葬式という儀式をして、

家族親族地域縁者に死を実感させて、社会的な幕をおろす。

人は他とのつながりが必要な生き物で、そのつながりが人生を豊かにします。安心も他とのつながりから生まれます。

お葬式はそのつながりを確認する機会にもなります。

縁者の死を受け入れると、自分の生きかたが変わる。


死は避けられず誰にでも訪れるものですが、多くの人はそれを望んでいない。できれば避けたい。

思い通りにならない苦しみの第一が死であり、その死を何とかしたいというのが宗教の始まりです。

さらに、

死や死後のことは分からないから不安である、もしかしたら亡者になってさまようかもしれない、

場合によっては、生きている僕らに何か悪さをするかもしれない。

だから、

生き返らないように、さまよわないように、祟りがないようにお葬式を行う、という考えかたもあります。


死者には白装束を着せます。

婚礼の白無垢も同じ。婚礼は葬儀と同じです。

死んだ気になって嫁ぐ、一度死んで生まれ変わる

ということ。


僕らが出家得度するときも白衣から始まり、

遍路さんも白装束。

白無垢白装束はは本来喪服、死に装束です。

それぞれみな一度死ぬ。

これは、始まりでもある。

生きている人は、その人がいなくなった人生を、始めます。




[ 2016/04/08 10:37 | Comments(0) | 眞天庵仏教塾・密教塾 ]
お葬式雑感 6 死者の幸福
仏教は修行の宗教です。

何のために修行するかといえば、悟るため、幸せになるため。

僕らは生きているから、修行して、努力精進して、悟ったり幸せになる可能性があります。

でも、

故人は肉体が無いからそれができないかもしれない。

なので、

生きている僕らが功徳を積んで、故人の代わりに修行して回向する。

僕らが良いことをして、その結果を故人に回し廻らす。

というのが宗教の役割のひとつです。法事などもそのために行う。

縁起の法則から見れば、

生前の行いが死後の幸福にもっとも関係しそうです。

『十王経』や『中陰経』には、

極善の人はすぐに浄土に生じ、極悪の人はすぐに地獄に堕す。故に中有(四十九日)は必要ない。

とあり、

そのどちらでもない人のために追善供養をするのでしょうが、生きている人が拝むことで死者の幸福につながる、

と考えるのは、僕らが生きるうえで重要です。

なぜなら、それは感謝と反省をもたらすからです。


故人がもっとも喜ぶのは、
 
生きている人が仲良く暮らすことでしょうね。




[ 2016/04/08 10:50 | Comments(0) | 眞天庵仏教塾・密教塾 ]
お葬式雑感 7 数珠の話
数珠は仏教徒の象徴ですから、信仰があるなら持っていたほうがいい。

仏教徒なら、

仏教以外のお葬式やお参りでも、数珠は持っていたほうがいい。


象徴とは、

悟りとか仏とか真理とか、

カタチに現すことができないものを表現するものです。


数珠は本来、数を取るもの。何回唱えたかを数えるためのもの。すり鳴らすものでは無い。

昔、三井寺鳥羽僧正が修法のあと、念誦する真言のおわりを伴僧にしらしめようとして摺り給う

というのが始まり、と伝えられてます。
 
合図ですね。


数珠には、

百八顆、五十四顆、四十二顆等々いろいろあります。 


『木槵子経』には、

木槵子(むくろじ)の実108珠の数珠を常に身につけ、

仏法僧の三宝を称賛するごとに実を一個繰り、

これを百万遍繰り返えせば煩悩を滅し、涅槃に到逹する

と説かれています。


『金剛頂瑜伽念誦経』には、

煩悩を滅したいと欲するならば、数珠を持ち、常に身に随え、専心に諸仏の名号を念じるべき

とあり、


刀を持てば斬りたくなり、数珠を持てば拝みたくなる、

とお大師さんは言っています。


  また、

『一字頂輪王儀軌』には、

珠を敬うこと仏の如くせよ

とあり、数珠を持つことは仏を携帯していること。


数珠は通常、左手に母珠(房の元に珠がひとつ有るほう)を上にして掛けます。
 
房は内側に。

左手に持つ時は2匝、房も握る。

置くときは3匝。
 
作法は師僧の伝によって違いがあります。 




[ 2016/04/08 11:04 | Comments(0) | 眞天庵仏教塾・密教塾 ]
春爛漫


お葬儀が続いて、毎日のように、祭壇の菊や蘭やカサブランカを見ながら拝んでいます。

花には不思議な力があり、

花を見ると怒りを忘れホッとします。

それは耐え忍ぶ心につながる。

その心が最大の供養になり、心を純化させる修行になります。

僕らは、

花を供えるときは金剛華菩薩の三昧に住するよう観想します。


列車が通過して花が揺れた時、

しばらく時を忘れ、三昧に近い状態になります。

花には不思議な力がある。




[ 2016/04/11 13:32 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
湯豆腐日記
子どもの声を騒音とする嫌な世の中になっているようですが、

子どもとご飯を食べるのは楽しい。

ご飯だけではなく、子どもがいる世の中は楽しい。


でも僕は、

大人とご飯を食べるのが苦手。

家族や心安い人以外の大人と食事をするのは恥ずかしい。

何だか、

ウンコしているところを見られているようで恥ずかしい。

食べる、という行為は排泄や性交と同じで、ケモノ的本能的で、それを見られるが恥ずかしい。



だから、

人間は食べるのもするのも、上品にきれいにしようと工夫するのだろうな。

心の動きとして、

食べ散らかすことと、女の子に乱暴するのは同じようなものじゃないかな。


そんなわけで、

僕はひとり湯豆腐で一献する。



昆布出汁 三つ葉 陳皮 まいたけ

庭の三つ葉はまだ芽が出たところ。小さなそれをつまんで鍋に入れると春の香り。






昆布出汁 なめこ 菜の花

畑では昨年末の小松菜やアブラナがちょうど良い菜の花になっているので、摘んできて春の味。





昆布出汁 ゴボウ味噌漬け えりんぎ レタス

古い味噌に漬けているごぼうは滋味あるお菜になるけれど、鍋に入れると香気ある出汁になる。





昆布出汁 セリと大豆

セリは春の味、疲れとデブを治す。セリと大豆は出会いのもの。


豆腐は時間がもっとも大切。

どんなに良い材料作りかたをしても、翌日になったら味は台無し。

作ったその日のうちに食べたい。






[ 2016/04/12 19:17 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
仏供
仏さまに供えるご飯のことで、「ぶっく」と読みます。

真言密教では、

正式には炊いた白米。

略式には洗って乾かしたお米。

そして、

丁寧の時には、炊いたご飯を筒状にした突き仏供か、宝珠型にした握り仏供を供えます。

俵おむすびの変形みたいな形。

さらに、

特別な儀式では、そのご飯を白仏供、小豆汁で染めた赤、くちなしで染めた黄、青葉汁で染めた青、黒胡麻で染めた黒の五色にして、仏の五つの智慧を現します。


ご飯を筒状にするのは神様に供える神饌の高盛飯に似せたのか、

仏が坐る蓮華の茎に見立てたのか。


ご飯を供えても、ご先祖様はそれを食べませんが、霊魂や見えないものは香りを食べるので、ご飯のにおいを召し上がるのでしょう。インドの言葉でガンダルバ(食香)と言います。


ご飯は禅定波羅蜜(ぜんじょうはらみつ)の象徴です。

象徴とは目に消えないものをカタチで現す方法ですが、

禅定とは静かな心。

ご飯を食べて、ほっとして安心する心。

その心が供養になり、

その心に住するように努力するのが修行です。

温かいおいしいご飯を食べる度に、

ああ、幸せだなあ、と思ってその気持ちを忘れないでいれば、

あの人にもこの気持ちを持って欲しいと願えば、

それがひとつの悟りです。







[ 2016/04/13 18:47 | Comments(0) | 眞天庵仏教塾・密教塾 ]
情報・知識・智慧
今の時期うまいのがセリ。摘むのも楽しい。

漢字の「芹」も感じが良いし、

ひらがなの「せり」も可愛い。

成分は、(可食部100g中の㎎)
Na: 19
K :410
Ca: 34
Mg :24
P :  51
http://fooddb.mext.go.jp/details/details.pl?ITEM_NO=6_06117_7

なので、陰性でアルカリ。だけれど、陽性な性質もある。



そばとセリの春巻き




汁に入れると季節の香りと味が膨らむ。



それはさておき、

世の中ありとあらゆる情報にあふれていますが、そのままではあまり役に立たない。

~と言われているじゃないですか。

と日本語の生理に合わない言いかたの問い合わせがあるたびに、

言われているじゃダメでしょ、と感じます。

その他、

○○らしい 。

××と聞きました。

もダメ。テレビで見た聴いた、というのはもっとダメ。新聞に書いてある、というのもダメ。

情報はそのままでは未熟で不安定、害になる場合が多い。

それをちょっと調べて勉強したり実践すれば知識になります。そうなれば役に立つ。

勉強すると知識が得られますが、勉強とは調べて、追試、思惟したもの。

これは判断力になる。

以上ふたつは煩悩です。迷いの原因。

情報を知識に昇華し、さらに工夫すれば智慧に変わる。

情報も知識も、過去の記憶などによって脳がそれを取捨選択し、好き嫌いどちらでもないなどと感じます。

見ただけ、聞いただけで終われば心に問題は無い。

好き嫌いなどと感じても、感じただけのこと、で済ませれば問題無い。

でも、多くの場合、そうはいかない。

貪り怒り慢心疑い差別の原因になり、心の平安を乱します。

でも、

知識を、他に楽を与え苦を抜く実践に使えば、それは智慧になります。

そうすることによって最大の利益を得るのは自分自身です。

誠に平安な心が得られるから。


僕らの中には知らないうちに積もった悪業があり、それが何かのきっかけで息を吹き返そうとしていますが、

それを智慧で包めば、慈悲に変わります。









[ 2016/04/14 09:26 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
山のように花のように

今回の地震で被災された方々には心からお見舞い申しあげます。

また、一日も早い復興をお祈りいたします。


「災害時メモ」
http://shintenan.syoyu.net/%E7%B1%B3%E3%81%9E%E3%81%86%E3%81%AE%E5%AE%B6/%E7%81%BD%E5%AE%B3%E6%99%82%E3%83%A1%E3%83%A2


「避難時の注意事項」
http://www.shogakukan.co.jp/pr/shinsai/pdf/091-107.pdf


災害はいつでも起こります。

できる範囲で心がけていれば、自他を救うことができます。


さて、

先週、長野へ行く途中、双葉SAから富士山。

山のように堂々として生きたい。



長野県飯田はあちらこちらでハナモモが満開。

花のように美しくいつも微笑んで生きたい。

翌日、

恵比寿の整体治療家・イシハマ先生宅で春の料理

フキ信太巻き



シイタケ利休焼き



豆ごはん



帰宅してまた春の料理
 

こごみ えごま和え


セリ高野とじ

 

たけのこご飯



余った種芋と湯葉


[ 2016/04/20 14:41 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
5年前の震災時には、米と醤油と味噌があれば何とかなるな、

と実感しました。

特に、

味噌はそのままでも、水で溶いても良いですし、

お湯が沸かせるようになればもっといい。

お腹も調うし、

アルカリなので酸化症状のときのシップにもなる。


 
『豆腐百珍』には 、4時間程度煮る加須底羅豆腐や、終日煮る煮抜き豆腐がありますが、

夕べは豆腐の煮込み。



味噌汁の残りに豆腐と七味唐辛子を入れて、スが入るまで煮込む。


ここ数日、

痔の質問が続いて、そういえば春は痔の季節。 

痔 は寺の病気というわけではなく、

寺=峙(そばだつ)病。

じっととどまる、動かない、ということ。

食養では、ひじき、わかめを使い、酷いときはミミズが特効薬。

外用は生姜油。僕はラドンクリームを使いました。

五行説では、痔は肝臓の疲れ。

望診法では 、痔と口が関係あり。

口をきれいに閉じていれば改善につながります。

ジョギングのような運動すること、

お風呂などで温めること、

みそ汁などで内側からも温めることも有効です。







[ 2016/04/21 17:27 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
関節をつまむ
以前から持っている疑問のひとつが

太っている人はお腹が空くのだろうか?

お腹が空かないのに食べるから太るのではないだろうか。


先日の料理教室で参加者に聞いたら、

空きます。いつも空いています。とても空きます。

とのこと。

お腹が空くしくみにもいろいろあるのだろうな。

その日作ったのは春の料理。


豆ごはん
若竹汁
椎茸利休焼き
ふき信太巻き
筍昆布
マーボーテンペ 


ところで、

身体を動かさず動かせず、血行が悪くなるようなときは関節をつまむといい。

くるぶし、ひざ、手首、肘を指で挟むように軽くつまんで動かします。

例えば、

右手首のぐりぐりを左手の親指と小指でつかみ、手首や首や肩や腰など、動かせるところを回します。

特に

鎖骨をつまんで身体をひねったり首をまわしたりするといい。

春は毛穴が開いて排毒が進みます。

身体を動かして元気になりましょう。

元気な気持ちでいれば健康になります。





[ 2016/04/26 07:35 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
病を癒す仏教
聖徳太子が大阪・四天王寺を建立されたとき、

「四箇院の制」をとられたことが『四天王寺縁起』に書かれています。

四箇院とは、

敬田院:お寺
施薬院:薬局
療病院:病院
悲田院:障碍者施設や老人ホームなどの社会福祉施設

お寺とはそういう所でもある。

 『般若心経秘鍵』に

「医王の目には途に触れて皆薬なり」

とありますが、仏を医王を呼ぶことが経典によくでてきます。

秘蔵宝鑰』十四問答には、

「病気を療養するには必ず三つの方法に依るべきである。

医者、方経、妙薬である。

病人が医者を敬い、薬の処方箋を信じ、それを服餌すれば、病気はよくなる。

如来が衆生の心病を治すのもこれと同様である。

仏は医王であり、教は方経であり、その理は妙薬の如くである」

とあります。

さらに、

「病気がなければ薬はいらない。

煩悩の障りがあるから教法が存在する。

妙薬は病気を悲しんで興り、仏法は迷妄の障りを哀れんで現れたのである。

大慈は衆生に安楽を与え、大悲は衆生の苦しみを抜き除くと言うのは、

衆生の心病の源を防ぐことを言っている。その病源を防ぐには教法によらなくてはならない。

病患に軽重があるから薬に強弱がある。心の障りに厚薄があるから教法に浅深があるのである」 

 
『三昧耶戒序』には、

「多くの薬草や鉱物から作った薬は、身体の病を悲しんで作られ、

多くの教えと聖典は、心の疾病を哀れんで伝えられた。

身病の種類は多いので、それに対する薬もひとつではない。

心疾も数限りないので、それに対する教えもひとつではない。

だから、

仏は種種の藥を施して、種種の病を療したまふ」


病気の原因は

「四大と鬼と業なり」

と『秘密曼荼羅十住心論』にあります。

鬼とは嫉妬、恨み、憎悪、怒りなどの心。

業は生活の積み重ね。毎日の行い。

四大の不調は薬で治し、鬼と業は懺悔感謝と心のトレーニングで治します。

密教経典には、陀羅尼を唱えることがその力になる、と記されています。

陀羅尼を唱えるのは、

唱えることができるまでの精神修行と、

唱え続ける修行があります。


そして、

「心病多しといえども、その本はただひとつ。いわゆる無明これなり」

無明とは、自分の心を知らないこと。



仏教は修行の宗教であり、お寺は修行する場所です。 

その修行は心身を癒し、鍛えます。

実践的なものでは、

精進料理、食養料理  

座禅瞑想法、ヨーガ 、念誦、呼吸法、三密行

護摩修行や加持祈祷

などのスキルがあり、

理論的なものでは、

生理学は『順正理論』、『大毘婆沙論』など。

病理学は『智度論』など。

薬物は『僧祇律』や『四分律』など。

栄養学は『阿含経』や『楞伽経』など。

内科学は『瑜伽論』など。

もっとも得意な精神医学では、

律部の各論、『般若経』や唯識・華厳・密教の経典に詳しく、

その他ヨーガ経典にも細かい記述があります。










[ 2016/04/26 08:04 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
ノブキとマコモダケ
都会に出ると、何か足りないなあ、と感じるのですが、

ウグイスの声が聞こえないのですね。

田舎では今、毎日上手な歌を聞かせてくれます。


ツワブキは茎に毛が生えると固くなるので、それに代わってうまくなるのがノブキ

市販のフキと違い、皮は向かなくてよろしい。

さっとゆでて出汁に浸します。



葉は湯掻いて味噌と切り和え。蕗味噌の一。




マコモダケもそろそろ良い季節です。

煮物炒め物何でもうまい。



陰性なので濃い味に仕上げます。





[ 2016/04/29 06:40 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
乳酸菌とセシウム
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[ 2016/04/29 08:34 | Comments(0) | 穀菜食の舎 ]
三塗の川
この世とあの世の境には大きな川が流れています。

古代ギリシャでは、五つの川があると考えられていました。

それは、

・スティックス(憎悪の川)
・アケロン(悲嘆の川)
・コキュスト(号泣の川)
・レテ(忘却の川)
・ピュリプレゲトン(火炎の川)

僕は、プログレッシヴ・ロックバンド「Styx」のファンです。


古代インドでは、ヴァイタラニー川が地獄への入り口。


米朝の『地獄八景亡者戯』(じごくばっけいもうじゃのたわむれ)では、

亡者たちが賑やかに三途の川まで歩きます。

河原では、

奪衣婆が亡者の着物をはぎ取る制度は無くなっていた。

奪衣婆は役職名であり、決して婆さんではなく美人な年増、

という話を、美人の鬼から聞く。

そこからは全員が渡し舟に乗ります。船頭は鬼。

渡し舟の船賃は死因によって違う。六文銭ではない。

渡り終えて全員が六道の辻から地獄へ行き、

閻魔さまから、どの地獄へ行くのか、または極楽へ行くか、沙汰がある。

とりあえず、みんないったんは地獄へ行くようです。



極善の人は死後ただちに成仏し、

極悪の人はただちに奈落の底に堕ちる。

だから、中陰は無い。

(十王経、中陰経)

とあるけれど、極善と極悪の人は基本的にはいないのでしょうね。


人は死んでから四十九日間、次の生を受けるまでの期間がある、という信仰があります。

これを中有と言います。中有は三蔵法師・玄奘さん以降の新しい訳で、古い訳では中陰。

中有が訛化したものが「宙」。落ち着き場所の無い状態。


ちなみに、観音さまの本名は観自在が新訳、古い訳は観世音。

玄奘三蔵以前と以後では訳語が違うことがいくつかあります。


それはさておき、

『十王経』などでは、

死後の五週間目、 いわゆる五・七日。

そのときに閻魔大王に会う、とのこと。 

この王は地蔵菩薩の化身とされています。  

だから、

三途の川を渡るのは、死んでからすぐなのでしょうね。



「三途の川」の三途、正しくは三塗。

三つの悪道、三つの悪趣。具体的には、地獄道・餓鬼道・畜生道のこと。  


『金光明経』には、

よく地獄餓鬼畜生の諸河をして焦乾枯渇せしむ

とあります。


これに修羅道、人間道、天上道を加えて六道。

これら六つは欲望に満ちた世界で、その欲望がある故に、六つの世界を行ったり来たり輪廻する。

『四解脱経』によれば、三塗、三悪道、三悪趣味は

畜生は相い喰う世界、血に塗られる。

餓鬼は刀杖の世界、切り刻まれる。

地獄は猛火の世界、火であぶられる


悪いことをした人が行く世界ですね。

もちろん、それはどこか遠くにあるのではなく、

今の悪業によって、その人の心が持つ精神的な境涯です。


日蓮さんのころからか、

三塗が三つの途(道)と解釈されて広まったようです。

三途の川には三つの途があり、

善人の途 橋を渡る。死後の世界へ行く。

悪人の道 流れが急で深い

どちらでもない者の途 流れの緩やかな浅いところ

善人と悪人は、衣領樹の下にいる奪衣婆が判断する。
 

本来、

地獄・餓鬼・畜生は悪いことをした人が、その報いで行くところですから、

三塗の川へは罪人しか行かないはずです。

善人はそんなところへ行かない。 

でも、

人間は全員が何かしらの罪を持っているから、全くの善人なんていないから、

死んだらみな三塗の川まで行くのでしょうね。


死ななくても、

今、悪い思いを持てば、すぐに心の中にある三塗の川を渡って地獄の体験をする。

僕らはいつも、三塗の河原にいるのかもしれない。



地獄絵図は心の図

本堂の荘厳は仏の世界の図

どちらも心の中にあります。


[ 2016/04/30 19:55 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
『望診法講義録 人相編』
陽性症状の時には、陰性なビールやアイスクリームでも効果がありますが、

陰性な場所である脳などの機能に影響します。

だから、陰性な野菜やキノコやすっぱい果汁が良い。


陰性症状の時には、陽性な魚介類や乳製品でも効果がありますが、

陽性な場所である足や腸や子宮の機能に影響します。

だから、陽性な梅醤や味噌や黒焼き黒炒りがいい。


これらはリンやチッソなど体液を酸性にする成分と、繊維と脂肪の多少で違いがでます。

また、陽性は少量で効果がありますが、陰性なものはたくさん摂ったほうがよろしいです。


それはさておき、



『望診法講義録 人相編 附 密教ヨーガ』 A5版106頁モノクロ

発売開始。










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●眞天庵・穀菜食の舎  須永 晃仁

メール:gbqmk185@ybb.ne.jp

FAX:0285-35-4901





[ 2016/05/04 08:38 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
窓を開けて風を入れよう。

旅の生活をしていますが、この時期は新緑が美しい。

運転中も窓を開ければ、さわやかな風を受けます。


 (中央道 初狩PAから)


密教の中心思想のひとつが法身説法。

あらゆるものが無いのではなく、あらゆるものがあらゆるものの中に有る、

ということ。

悟りそのものを本体としている仏は、

風のように説法している。

だから、

窓を開け風を入れて、受け入れる態度をとれば、

僕らはすべてを体得することができる、

ということ。

努力精進して毎日拝むと、

窓の鍵が開きます。





山のタケノコは山の椿の葉とゆでてアク抜き。

それから湯葉と炊く。



ワラビも椿の葉を載せて熱湯を注いでアクを抜き、

お揚げ、ニンジンと炊く。

コゴミは塩ゆでしてエゴマと和える。


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※『望診法講義録 人相編 附 密教ヨーガ』 A5版106頁モノクロ

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[ 2016/05/08 12:08 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
しあわせでありますように。
お釈迦さまは極めて合理的なお考えでしたので、

今現在の吉凶禍福は、過去の行為が原因となっての結果であるから、その根本原因を取り除くことに関心を向けるべき、という立場で、

古くからある祈祷や呪術はあまり重んじませんでした。


密教では、加持祈祷を悟りに向かう大切な修法としています。

加持と祈祷は本来別なものですが、

仏の智慧と慈悲が衆生に伝わるのが「加」、

衆生がこれを受け取ることが「持」

祈祷は仏の力が信者に加わり、信者がその力を持続するもの。


密教は、大日如来(自他の心中)の悟りを開発することが目的で、

そのための修法のひとつに加持祈祷があります。


毎朝、ご本尊さんの供養と一緒に加持祈祷をしています。

出張が多いので、外出先でも拝めるような次第を作り、寅の刻に拝んでいます。

なぜ拝むのか、といえば、

頼まれているからなのですが、そうでなくても、有縁無縁の命を拝むことで僕自身が救われるから。

誰かのことを気にしていれば、その人と心安くなる。

大日如来やお不動さんを拝んでいれば、血が通う。

入我我入と言います。

拝まなければ忘れてしまうようなこともあるし、忘れれば願いは叶わない。


祈祷祈願の目的には、現世利益と無上菩提(さとり)があります。

病気や災難を止息させる。これは心中の煩悩を除くこと。
 
財宝を増し、栄達を得る。これは心の福智を増進させること。

怨敵悪魔を降伏させる。これは迷いや無知を降伏させること。

みなに愛される。これは慈悲の心を大きくすること。


僕らは、

自分自身の弱さを感じたときに、神仏や宇宙や自然の大きさに促されて祈願します。

その祈願によって、自他の生命は伸び、広がる。


自他がしあわせであれ、と拝むことによって、悟りに至る道を知れば、

ものの見かたが豊かになり、利益は長持ちします。


『声字実相義』には

「悟りの象徴である仏の身体と言葉と心は、

宇宙全体に広がって常恒である」

とあり、

『大日経開題』には、
 
「因縁は各人各別であるが、(自心の中にある)仏の大きな智慧は一瞬にそれをみきわめ、個々人にもっとも適応した働きかけをし、これを抜救すること自在である」

とあります。


自他のしあわせを願えば、心が晴れ、広く開けます。

そうすれば何もかもが懐かしく、いとおしい。



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※「ナトリウムが陽性でカリウムが陰性というのは本当だろうか?」
https://groups.google.com/forum/?hl=ja#!topic/shintenan/XaUA3pXVums

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※『望診法講義録 人相編 附 密教ヨーガ』 A5版106頁モノクロ 



 


 

 
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[ 2016/05/12 11:27 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]



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