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如来の怒り
以前、阿閦如来と怒り云々のことを書いたら、下記ご意見をいただきました。


 阿閦如来をネットで調べたら種字が「ウー」 怒りを表す

「我欲の怒りを昇華して悟りの為の大きな怒りにする....」

という 内容の文がネット解説にありました。   

私には昇華した怒りと自分の中の怒りがどう違うのかよくわかりません。 ただ怒りをあわらす、ウーを種字にもつこの如来さんがこんなに 柔らかい佇まいをしているのと見ると、その辺り何かあるのかもしれないとは、思いました。


このあたりは、僕らが常用している『理趣経』に書かれています。

第三段に、阿閦如来の悟りについて、

阿閦は怒らないことが誓願ですが、

本来の怒りは、言うことを聞かないものを教化するもの。

それは自分自身の内面的な敵と戦うこと。

怒りの対象は自分自身のなかにある、ということ。

そして、理趣経全体を通して説いているのは、

怒り(を始めとした欲望)を無くすのではなく、

大きな怒り(欲望)、たとえば、世の中の不平等に対する怒りに転換する。

そこに我が入ってはいけない。

救済するのが難しい自分自身に怒る

そして、微笑しながら怒る

怒りの顔も、見かたによっては微笑や悲しみにも見えるのが、仏の怒り


そして、第十段には、

一切の存在は仏と本質的に平等だから、

忿怒も悟りを目指す心にもとづくなら平等で本来は清浄

汚れはよそからやってきたもの だから、

それをやっつけて本来の価値に目覚めさせる怒りが仏の怒り。

本来もっている価値の再認識が目的。


一切の存在は本質的に真理と同じだから、怒りも真理にもとづいたもの。


というわけで、

仏は(僕らは)相手を悟り(慈悲と向上心と心の静寂)にむかわせるために、忿怒の形をとります。


そもそも、

「我」があれば、

悩みも苦しみも、

怒りによっては解決しない。

それに、

怒りなどの心は、僕らが勝手に作っているだけ。


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[ 2016/12/25 07:45 | Comments(0) | 眞天庵仏教塾・密教塾 ]

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