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[ 2024/12/25 11:28 | ]
続々 科学的宗教論
存在するものは

仏のいのちの現れであり、

それらは互いに行き来して自在。

そして、

空気中の酸素と窒素と二酸化炭素のように、

混ざり合い交流している。

人間もそうであり、地球上の生き物もそういう関係です。

それらが仏であるならば、

言葉声字は仏の言葉声字であり、

その活動行為も仏のそれのはずです。

宗教はそれを、瞑想や慈悲の実践などの行により体得しようとします。

実在がそのまま現象世界であり、

宇宙の働きが仏の身体言葉心であり、

それが縁起の主体であると。



『密教と現代』のなかで、村上博士は、

「仏教や密教は、世界の総ての現象を科学技術化することの不可能性を知っている。

一切を物質に還元し、科学技術化しようとする心や精神のありかたに、苦しみの根源、無知を見ようとする 。

いのちの尊厳、存在の実相とは、物質(自我と欲望)の流れから自由になること。

その自由の境地にいのちの価値を見出す」


「宗教を科学のレベルで捕らえる思考は、

かえって物質の流れにとらわれて自由の境地を失っている。

しかも、その流れの中にいのちの価値を見出そうとして苦闘すればするほど、

その価値が遠ざかっていくことに気がつかない。

その結果、即物的な結論を求めて、技術性、呪術性を強めることとなる」

そして、

観念的(抽象的)になり、現実をありのままに見ようとはしない


と書いています。


科学は、

DNAなどが自己を創出して、いのちや心の本質が表れるという立場で、

密教では、

日常の自分たちから、存在の真実を観ようとしている、

という違いが有るのかもしれない。


いずれにしても、

いのちや心は、

一時も止まらずに、

ビデオテープやDVDのように流れています。

それは、巻戻して思い出すことはできるけれど、

録画が止まることはありません。

連続している。

それが止まった瞬間、

心は勿論、悟りや幸せといった目的も生滅します。

そして、

次のコマをより良くしようとするのが向上心や慈悲心です。

 
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[ 2017/10/23 17:01 | Comments(0) | 眞天庵仏教塾・密教塾 ]

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