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5-1、仏教散策
今回は雑談です。

信心とは「まじり気」の無い心、純粋で澄んだ心のことです。

そして、宗教は内面の浄化を目的としています。

ですから、信仰が深まれば、人は少しづつ折り目正しくなり、他の幸せを考える善い人になります。

善人の用心とは、

他を先とし、己を後にすること。


密教の三昧耶戒では

自分自身や自分の恩人を見ることと同じように、他人のことも見る

としています。


自分を見て自分を調える。

自分が自分が、という自分への執着を減らすことによって、他への気配りが拡大する。

というのが信仰の利点であります。 





ある会合で、

ある人が僕を手招きして、

顔を近づけてささやきました。


あのな、私はお大師さんに会ったんじゃ。

でな、コレコレこういうことを言われたんじゃ。

と。



こういうことはあるんですよね。

お大師さんばかりでなく、お釈迦さまや、観音さまや、お不動さんに会う、

ということが。



お釈迦さまから始まった仏教は、その後いろいろと変化してきました。

お釈迦さまの言われたとおりにしようというグループや、

地域や時代によって変わっても良いのだ、とするグループができ、


お大師さんが唐から持ち帰った密教と、

その後の人たちが持ち帰ったものとは、唐での流行りが違うので、これまたちょっと違う密教になります。


でも、どれも目的は悟りであり、そのために修行をする、ということに変わりはありません。

たどり着くところは同じで、その行きかた、進みかた、手順は違っていますが、どれでも構わない。



お釈迦さまは2500年くらい前に、80年の生涯を送られた、とされています。場所は今のインド。


お釈迦さんはとても素晴らしい人でしたが、遠い昔で、遠い場所で、

僕らとはずいぶん隔たりがあります。


そんな中で、時間的空間的に限定されたお釈迦さまその人、ではなく、お釈迦さまが悟った内容を人格化するような動きがでてきました。


信仰の対象になると、その人は拡大解釈されて死なない、ということが多いです。

お釈迦さまも、お大師さんも。キリストの復活というのも、そういうことでしょうね。



お釈迦さまが、肉体を持つその人個人ではなく、時間や空間を超えて、僕らがいつでもどこでも会えるようになる。

阿弥陀さんやお薬師さんも同じように現れるのでしょうね。


仏さまにはいくつかの種類があります。仏身(ぶっしん)といいます。

顕教で分類しているのは三身(さんじん)。


1、法身(ほっしん)
宇宙の真理・真如そのもの、仏性。これは見えない聞こえない触れない、姿も無い。

2、報身(ほうじん)
仏性のもつ属性、はたらき。あるいは修行して成仏する姿。阿弥陀さんなどですね。

3、応身(おうじん)
この世において悟り、人々の前に現れる姿。お釈迦さまです。



密教では少し違った分類をします。

1、自性法身(じしょうほっしん)
この世にあるものすべてに象徴されるもの。心によって認識されるすべての作用であらわされるもの。宇宙の大生命それ自体を人格としている仏。
大日如来です。


2、受用法身(じゅゆうほっしん)
大日如来が相対的な世界に現れたもの。
曼荼羅の中央におわす、四仏四菩薩。


3、変化法身(へんげほっしん)
それぞれの素質傾向に応じて真理を説くもの。
例えばお釈迦さまやお地蔵さん。


4、等流法身(とうるほっしん)
真理を説いて聞かせる相手と同じ姿をとって現れる。

これはもう、ありとあらゆるものが仏ということ。動物も魔物も何でもかんでも。
仏さまの形をしていない仏。


密教では全部法身なんです。だから、見える聞こえる触ることもできる。姿形がある。


あたかも太陽の光によってあらゆる命がはぐくまれるように、法身の光は一切を照らし、衆生の善を生じる働きを開発しています。

こうした智慧の働きを慈悲と言います。

だから、世の中は、仏の自覚さえよみがえれば慈悲であふれ、平和になります。

そして、

一切のものがそれぞれに、それ自身と対峙することによって真理を説いています。

鳥の声も雨音も法身の説法なんです。

その法身の言葉が真言。

だから、僕らは真言を唱えて仏になろうとします。

そして、人はそれぞれの時期(自分の心の段階)において、それぞれの仏になります。

いたるところで法身が説法しているから、現世利益も加持祈祷も成り立ちます。



顕教では、

煩悩を滅して菩提(さとり)となる

としています。

密教は、

煩悩も菩提も同じもの、同じ心から作られているもの

とします。


僕らの心の中にある仏も、

時には地獄とか煩悩と呼ばれることにもなります。

どちらも物事の裏表に過ぎなくて、すべてはもともと満徳を円満している

というのが密教の立場。



僕らの心の中にはいくつもの対立があります。

原因と結果

迷いと悟り

天界と地獄

仏と我

好きと嫌い

これらの区別差別が無くなって、どちらもが同じと知れば、自在で堅固な心になり、一切の魔から離れることができます。

これらの区別差別が迷い苦しみの原因ですから。

人も動物も草木も何もかもが仏である

と多くの仏者が言いますが、

密教では、それらを構成している物質も仏と見ます。

僕を構成している元素も仏なんです。

だとすれば、

煩悩も菩提も仏であり、煩悩即菩提。

そのまま菩提なんです。

これは、放逸な生活の中では怠惰とわがままを許してしまいがちですから、心を調え、生活を正しくして、修行してこそ、そのまま仏です。



心を訓練すると、区別差別をしないで、ただ見るだけ、ということができるようになります。

月は悟りの象徴だけれど、そうすると月以外は汚れたものになりかねない。

だから、

ただ月をみる。




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[ 2015/01/28 08:55 | Comments(0) | 眞天庵仏教塾・密教塾 ]

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