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10-2、瞑想と救済
拝むことと、わずかな寄付をすることくらいしかできないのですが、

ネパールの地震による物故者の菩提と、不明者の御無事を祈念しております。


毎朝仏壇や神棚に手を合わせ、ご先祖さまの菩提と、自他の無事を祈る人は多いでしょう。

何よりも、

お先にどうぞ

と祈る。

そうして、自分の生活が始まる。

それが祈り、宗教の出発点であり、究極の姿でもあります。

不安な人が平安になるように、

心が安定するように拝む。

誰か縁者がしあわせになれば、何よりも自分の心が平和になる。

そういうものですから、毎日拝みます。


さて、

哲学や宗教では、

肉体と精神

モノと心

は別なものと考えるグループと、

それは一如である

と考えるグループがあります。


基本的に大乗仏教は同じものと考えており、

特に華厳の蓮華蔵世界と密教世界では、モノと心は同じレベル、これを色心不二と言います。


例えば、華厳経の世界を表している東大寺大仏殿や

今年開創1200年を迎えて記念法会が続く、密教世界を表現した高野山金剛峰寺の大塔や
金堂は、

仏の世界そのものであり、僕たちはそこにいるだけで、仏と一体になれるような工夫があります。

そこは現世が即ち浄土であり、今の姿形が即ち仏である、ということを示しています。


密教の三密行は、

自分の身体、言葉、心が、仏のそれらと同じである

と観想するトレーニング方法ですが、

それは、

自分はすでに仏である、仏と同じである、

という前提でなければ、その自覚が無ければできない修行方法です。

ですから、肉体と精神、モノと心、自分と仏は同じもの

と考えています。

 大乗仏教では、

瞑想修行による自分の悟りと、他の救済を同時に目指します。

例えば、

仏像には、立像と坐像があり、

立像は、仏がこちらへ救済に来てくれるお姿。

坐像は坐禅瞑想する形です。


前者は利他を、後者は自利を表します。

また、

仏像が結ぶ手の形・印(いん)にも

坐禅するときにお腹の前に置く定印は瞑想の印

掌をこちらに向けて開いているのは来迎印という救済の形。

つまり、

仏が迎えに来る

という姿と、

我が仏をこの世へ迎える

という形があり、

それは固定したものではなく、僕らの心の状態によって変化します。


拝んでくれる人、気にかけてくれる人、宇宙自然の力

そういうものが我を助け、

自分が努力精進する力

それが自他を救う智慧と慈悲を自分の心に迎えます。



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[ 2015/04/27 09:00 | Comments(0) | 眞天庵仏教塾・密教塾 ]

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