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『般若心経秘鍵』の頌を読む 11

真言は不思議なり
しんごんな ふしぎなり
観誦すれば無明を除く
かんじゅすれば むみょうをのぞく
一字に千理を含み
いちじに せんりを ふくみ
即身に法如を証す
そくしんに ほうにょを しょうす
行行として円寂に至り
ぎょうぎょうとして えんじゃくに いたり
去去として原初に入る
こことして げんしょに いる
三界は客舎の如し
さんがいは かくしゃのごとし
一心はこれ本居なり
いっしんな これ ほんこなり


真言宗の根本経典には、

『大日経』と『金剛頂経』がありますが、

この二つの内容には矛盾するところがあります。

『大日経』では、

悟りとは、自心を知ること

とあり、

『金剛頂経』では、

如来の真実を知ること、

とあります。

ほぼ同じことなのですが、

前者は、

自心を知るためには、永い無量の間に慈悲のトレーニングを積み重ねなくてはならない、

とあり、

後者では、

自心の源底に通達する真言を好きなだけ唱えて瞑想することで、

今すぐに、如来の真実を知ることができる

と読めます。

『金剛頂経』では、

唱えて観想することが、目的と同一になっていると考えられます。


上記の頌では、

如来の悟りを示す真言こそ、思議を絶したものである

考え分別することでは至らないけれど、

真理の教えを受けて、観想し唱えれば、迷いを除くことができる


とあります。

大切なのは、その次ですね、

迷いの人々は、あたかも宿屋における旅人の如くで、

その人が持つ(自分のことのみ考える個別心ではなく、宇宙全体を含んでいる)全体心こそ、

仏の本心であり、住まいである

ということ。

おそらくそれが、

悟るべき自心であり、如来の真実でしょう。




 

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[ 2019/03/15 09:00 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]

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