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[ 2024/04/25 11:12 | ]
いただきます、には懺悔が含まれている。
ある宿の朝食は

ごはん
味噌汁(出汁は化学調味料の味。味噌もおそらくは)
味付け海苔
市販の漬物
Kッコーマン醤油
納豆 タレ附き

これらに多く含まれている添加物は比較的陰性で、陽性毒とよく結びつきます。

少なければさして問題ないでしょうが、

これらを常食し、さらに市販のレトルト、冷凍、インスタント食品などが多ければ多いほどその量は増えます。

この陰性毒は陰性な部位にたまり、結びついた陽性のために排毒されにくい、と予想できます。そして陰性な症状を起こすと考えられます。

宅配の食事や給食などもその量を増やすのでしょうね。

世の中、そういうものなのでしょうね。


我が家がひいきにしている天ぷら屋さんがありますが、そこの天つゆや油消しのなますは味が薄い、と言う人も少なくないらしい

天つゆやなますの味が強かったら、天ぷらが台無しになると思うのだけれど、刺激の強い濃い味でないとおいしく感じない人も多いみたい。

味が濃いと食欲が増進して、食べる量が増えるかもしれない。陽性な塩気が多いと、陰性なビールの量も増えるでしょう。

世の中、そういうものなのでしょうね。



陽性を好む、特に塩気が強いと、その陽性で腎臓が締まりすぎて排毒がうまくいかず、アレルギーになりやすいかもしれない。

陽性で腎臓が締まるので、おねしょが治りにくい、ということも考えられます。

この塩気も量の問題。


量と言えば、

僕らが香や数珠で使う白檀の価格が、ずいぶんと高騰しています。

中国が買い占めている、という話も聞きますが、フランスなどが精油のために多く買っていることも原因らしい。

精油として採る白檀の成分サンタロールは密度で0.9770 g/cm3。極めて希少。

それ以外の搾りかすはどうしているのだろうか。



悪いことをすれば

刑務所に入る
罰金や賠償金を払う
あやまる
二度としないように注意する

などの対応が必要だけれど、 口だけで謝っても意味はない。


悪いことと知らないで悪いことをするのと

知っていてしてしまうのともずいぶんと違う。

知らないほうが罪は重いだろうし、知っているのにしてしまったら謝って、さらに二度としないように気をつけなければいけない。

そして、悪いことをしなければならない時には、懺悔と相手に対しての保障をしたほうがいい。

僕らは生きるために食べるけれど、それは他の命を殺して食べてることだから、悪いことをしていると言ってもいい。

だから、

無駄にしないように

食べられない人のことを思って、食べ散らかさないようにしたほうがいい。

さらに、

身体に悪いような料理にして食べるのは、とてもいけないことだ。

他のいのちを殺した上に、食べる人の命を縮めるなんて。
 

「いただきます。」

には「ごめんなさい」が含まれている。

それを忘れないように、

と恩師から教わりました。


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[ 2014/04/21 14:48 | Comments(2) | 米ぞうの家 ]
1. posted by 星英夫  2014/06/29 23:53
知らないでしてしまう悪の方が悪いと言う意味が分かりません。法律では、知らない事を善意と言います。動物であれ、植物であれ私達はその命を頂いて生きています。それは、単に殺すと言うことではなく命のリレーかと思います。必要悪の範疇です。我々が生かされている事には、何かの意味が有るはずです。食事の陰陽の結び付きが、疾病に繋がる事には気がつかない人が殆どかと思います。
2. posted by 須永 晃仁  2014/06/30 09:40
コメントありがとうございます。言葉が足りないようで申し訳ありません。

仏教には十善戒という十の基本的な戒律があります。その第一が不殺生戒。

殺してはいけない、ということですが、それを文字通りどんな命を殺してもいけない、とするか、
むやみに、なるべく殺さない、とするか、
命のリレーである、と考えるか、
命を奪うようなことがあるので懺悔しなければいけない、
とするか、
いろいろな理解があります。

食べることと命を奪うことの関係は、いろいろな考え方があるでしょうが、確かに命を奪っている、という認識を持つのが宗教の立場です。

基本的には、命を奪わなければ生きていけないのですから、それに対して、何時も懺悔し、なるべく命を奪う機会を減らすように、そのような戒を体にしみこませる、というのが仏教の考えかたです。

例えば、蚊が飛んできて皮膚に止まっても、手でたたいてつぶさずに、手で払って逃がす、というような姿勢になったほうが良い、と考えていますが、不殺生戒を意識し、懺悔する習慣があれば、そのような姿勢につながるのではないかと思います。

仏教徒にとって戒律は修行以前に守るべきことなので、不殺生戒を知らないで命を奪うことは、知っていてそうするより、仏教徒としての罪が重いです。

そうしなければ生きてゆけないので殺して食べるのですが、そこに懺悔があるかないかで随分と業が変わってくる、というのが仏教の立場です。

食事の陰陽は一つの考えかたですが、なかなか面白い見かただと思っています。

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