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なぜ、経を唱えるのか
20年くらい前、

会津山奥の古い禅寺にお世話になった。

泊めてもらった翌朝、

おつとめをしようと本堂へ入ると、

住職が出てきて,、一緒にやろうと坐った。

読経のあと、

お経を唱えるのは久しぶりだなあ、

と住職が言う。

僕も普段は経を唱えない。

毎朝の行法も、

三密行という瞑想修行で、傍からみれば、ただ坐っているだけである。

僕はその住職を信用していた。

なぜなら、

お前の話は妄想ばかりで事実がないといわれ、

その通りと納得したから。


若いうちは妄想ばかりで、事実を知らず、

さして勉強もしないで錯覚し、

それで互いのキズをなめあってごまかすようなことが少なくない。


僕が声に出して読経するのは人前で、である。

葬儀、法事、寺の行事など。

それに意味があるのだろうか。

経本はもっぱらその内容を勉強し、確認するために開いている。


そもそも、なぜ経を唱えるのだろうか。

『般若心経秘鍵』には、

誦持講供すれば即ち苦を抜き、楽を与え、修習思惟すれば即ち道を得、通を起す

とある。

また、

真言宗で常用している『理趣経』には、

「もしこの清浄出生の般若理趣を聞くことあらば、

 いまし菩提道場に至るまで、

 一切の障碍、煩悩が広く積み重なっても、地獄等に墜ちない、

 重罪を作っても消滅する

 よく受持して日々に読誦し作意思惟すれば、

 今の生において、自在を得て、如来の位を得る」

とある。


どちらも、

読んだり聴いたり書いたりしたら、功徳がある

と書いてあるけれど、

その後には、経に書いてある内容を実践して修行すれば、

迷いが悟りになると続いている。

だから、

読んで理解して実践することが重要なはずである。

 
理趣経にかかれているのは、

自分と宇宙の区別をつけない心になり、

自分が確立すれば、同時に宇宙全体と同じになり、

それが覚りである

ということ。



コーヒーにミルクを溶かすと、

ミルクはコーヒーと一体になり、

区別がなくなる。

ミルクは全体に溶けているけれど、

ミルクの味香りは生きている。

自分がいなくなっても、全体に融合して自分を生かしている。

そういうことである。


経の内容を身体・言葉・心で受け止めるならば、

そうなるのである。

 
唱え聴くだけで、

功徳になるのかどうか、

ちょっと疑問である。


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[ 2018/09/26 19:15 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]

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