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劫と刹那
ネギは植え替えをしないと固くなりますが、わき目が伸びてきたものは柔らかくてうまい。

で、ねぎのひげ根は膵臓の薬になります。




刻んでいろいろな料理に混ぜます。

畑の大根にスが入るようになり、葉も固くなってきたので、ネギとそのひげ根も一緒に刻んで塩もみし、グルテン粉でまとめて焼き、お菜とおつまみに。


それはさておき、

時間は足らなくなったり、余ったりするものですが、時間そのものは実体としてあるわけではないのに、随分と僕らを悩ませます。

どこにも無いですね、時間なんてモノは。

畑に植えているわけでもないし、どこかに落ちてもいない。見えないし、聞こえない。


例えば「今」というのもどこからどこまでが今なのか特定できません。

概念やイメージでしかない。時間という概念を約束にして僕らは生活しています。危ういもんですね。

そんな概念であっても、時間というものが一応あって、それは常に流れて変化しています。

固定していない、無常なものです。時間だけでは無く空間もそうなのですが。


時間は空間と比べると陽性です。

だから、求心力がある。

僕らはその流れを切り取っているだけ。


僕らが時間を認識するには限界があります。とっても長い時間や、ものすごく短い時間になると、なんだかよく分からない。

仏教ではとても長い時間を「劫」と言います。未来永劫の劫。

これはサンスクリット語のカルパ kalpa またはプラークリット語カッパkappaの音写。

ほとんど無限に近いほどの長い時間の単位

最大の時間単位は阿僧祇劫(Asaṃkhya  kalpa)、無数ですね。


とっても短い時間を刹那と言います。

サンスクリット語のクシャナ kṣaṇa の音写語

一刹那は『大毘婆沙論』によれば1/75秒。

仏教では、あらゆるものは移り変わる「諸行は無常である」と考えていますが、

無常とは、ひと時も止むことのない刹那の連続です。



で、僕らもその中にいて、一瞬一瞬時間と一緒に変化しています。

だから、そんな移り変わるものに執着したり、嘆いたりするのは無意味なことです。

変わってしまうのに、いつまでもあるように錯覚してとらわれているなんて時間の無駄。


死も同じように考えられます。

僕らはゆっくり死んでいます。変化している、ということ。

多くは酒を飲んだりストレスをためたり、不自然な生活でゆっくり自殺しています。

場合によっては、不自然な食事を与えてゆっくり殺している。



迷いも悟りも心の中の問題ですが、心が変わった時に、迷いが悟りになります。

でも、

迷い悩み不安などの煩悩が断ち切られても、そこに悟りは無い。この煩悩は自分への執着。

その他にまだ、煩悩の残りかすがあるんです。

それは真如を知ることを妨げる障害。

簡単に言えば、モノと時間への執着。

これが無くなったら悟り。


仏教では、悟りを得るためには劫という長い長い時間がかかる、という立場と、

密教のように、この身このままで今すぐに悟れる、という立場があります。

どちらに立場でも、刹那の間にすべては生滅を繰り返し、それの積み重ねで人生が変わり、死が変わります。



時間やモノは概念に過ぎず実体ではない、という事を知ると、景色が変わります。




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※穀菜食の舎ペ-ジ

「虫刺され・スズメバチに刺されたときの対応など」
「夏野菜と熱中症」
https://groups.google.com/forum/?hl=ja#!topic/shintenan/vAS80Id7MWc





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[ 2014/06/25 05:23 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]

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