平安時代の密教では、
色心不二と言って、心と身体、精神と物質の区別は無く、
どちらも仏のシンボルとして重要なものであり、どちらかに偏ることは無い、
という立場だったのですが、
鎌倉時代以降、
どちらかと言うと、モノよりも心に重きを置く傾向になります。
それは今でも続いており、
モノより心のほうが大切であり、清らかである、という意識は少なくない。
心と身体の価値は同じです。
身体に心が宿り、
心も魂も霊も思想も記憶も、
肉体を離れては存在できない。
そうなると、
今あるものは、本来あるべきものであり、
ただあるだけで済ませないような、「身体的な」日々の努力精進が大切になります。
今見ているもの、聞いていること、
感じたこと、思い出したこと
それらはみな本来あるものではなく、自分が作ったものです。
そう思っただけ、感じただけ。正しくもあり、間違ってもいる。
そのように、
自分の内側をただ観察する。意見や感想を持たない。
自分の外側に対しては、
自分と同じと思って大切にする、感謝する。
それらによって、平安と幸せがもたらされるから。
暑さ、風の心地良さ、ビールのうまさ、汗をかいた後の爽快さ
アゲハやクワガタの姿やカッコーの声
それらと自分が合掌のように支えあうように、祈る夏。
暑さの中に心の清涼を感じます。
「夏の冷えと精進料理」: http://shintenan.syoyu.net/Entry/926/
色心不二と言って、心と身体、精神と物質の区別は無く、
どちらも仏のシンボルとして重要なものであり、どちらかに偏ることは無い、
という立場だったのですが、
鎌倉時代以降、
どちらかと言うと、モノよりも心に重きを置く傾向になります。
それは今でも続いており、
モノより心のほうが大切であり、清らかである、という意識は少なくない。
心と身体の価値は同じです。
身体に心が宿り、
心も魂も霊も思想も記憶も、
肉体を離れては存在できない。
そうなると、
今あるものは、本来あるべきものであり、
ただあるだけで済ませないような、「身体的な」日々の努力精進が大切になります。
今見ているもの、聞いていること、
感じたこと、思い出したこと
それらはみな本来あるものではなく、自分が作ったものです。
そう思っただけ、感じただけ。正しくもあり、間違ってもいる。
そのように、
自分の内側をただ観察する。意見や感想を持たない。
自分の外側に対しては、
自分と同じと思って大切にする、感謝する。
それらによって、平安と幸せがもたらされるから。
暑さ、風の心地良さ、ビールのうまさ、汗をかいた後の爽快さ
アゲハやクワガタの姿やカッコーの声
それらと自分が合掌のように支えあうように、祈る夏。
暑さの中に心の清涼を感じます。
「夏の冷えと精進料理」: http://shintenan.syoyu.net/Entry/926/
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