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心の探求 5
山に入ってタケノコを伐らないとなあ、

面倒くさいなあ

と思っていたら、

近所のおじさんが収穫してくれ、

さらに、

ウラに積んであった鉄材を、お金になるからと持って帰ってくれた。

おじさんのおかげでずいぶんと気持ちが楽になった。


10年ほど前、

育成会(子ども会)の会長職が輪番で回ってきた。

さらに町内会長の順番も重なって、

大変だねえ、と皆に言われた。

よくよく考えてみれば、大変だと思えば大変だけれど、おもしろいと思えばおもしろい。

事実、その一年は殊の外楽しかった。


 
鉄のフライパンは重いから、軽いものに変えたら料理が楽になったけれど、

料理の味がイマイチである。

鉄の思いフライパンを使いこなせるように自分を鍛えれば良いのである。


心は自分の内側からも、外からの事情でも、ころころと変わる。

なぜなら、

心は本来清浄で無垢だから、その上にはいろいろ清濁が刷り込まれ、

知らず知らずのうちに、それらが湧き起こるから。


心には八乃至十のレベルがあり、

最初の六つが表層意識(眼耳鼻舌身の識と意識)、

次の二つが深層心理。

その一番深いところにある心が本来清浄なのだけれど、

ここに今までにいろいろ録画録音されたものが、

または種子が蒔かれて芽を出すように、

自我として再生される。

ここは、生死を越えて存続し、生を支えているので、

生きている間、常に録画録音され続け、種子は蒔かれている。

意識的に再生されることもあるけれど、無意識のことが多い。

この無意識を超えると、穏やかで静かな仏の心になる。

そうでなくても、録画録音されるものが清浄なものだけならさして問題はない。

けれど、そんなことはありえない。


そんな中から心はいろいろ動く。

つらいことを知らなければ、つらいという心は無いけれど、

つらいことを忘れればつらくない。

つらいことも、つらいだけだと思えばつらさは消える。


心の発動には、

楽天的な悲観的か

自信があるか無いか

知識が豊富かどうか

論理的か感情的か

でずいぶんと違いがある。

心身が陽性か陰性かで、全く違う。



いずれにしても心は大きく広い

過去も未来も、いくら遠方でも自由自在である。

そこに戯論ではなく、真理を。

迷いではなく悟りを

求めるのが修行である。




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[ 2017/06/22 09:51 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]

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