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早朝雑感
我が子がどんな人間であるかは、

親ならば大体のことがわかりそうなものだけれど、

気がつかないことも多い。

子に限らず、恋人連れ合い親友など、心安く感じている人には、

いろいろな思いがある。

その人は、本来素晴らしいけれど、いろいろな垢がついて素行の悪いこともある。

 しかし元々は清浄である。

そして、どのような時でも、

皆同じで平等、僕とも誰とも平等。



不可得空の宇宙は目の前に広がり

宇宙があるように、私もある。

私の中にはその宇宙があり、

私はそれを赤くするのも青くするも可能である。


煩悩だらけの人間が、他を救おうと心から拝んでも、

その思いが自分流の衆生救済であるべき、

という自己本位的なものでは、ほぼ役に立たない。

自分の思いが衆生の思いであると、勘違いしてしまう危険があるから。


何をやっても本尊さんは認めてくれる、

などと思ってしまう傾向も困る。



拝むのは、

うまくいくことがあればそうでもない、ただ漫然と時間が過ぎることも多い。

それが無駄な時間のようでもあり、

心が熟成する時間でもある。

その時は、

ああ、そうか、

と気がつく。


『秘蔵記』17には、

種子を大地に蒔き、

水土の縁によって発芽する

陽の勢いによって茎葉が育ち

解脱の風を待って具足し生長する

虚空のようにみなすべて堅実ならば

なんで物が生じないことがあろうか、いや生じる

とある。

これは、

凡人が大日如来になる過程と同じ。


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[ 2018/08/26 08:10 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]

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