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略式の人生 3
先週土曜日に施餓鬼法会をつとめた。

この中で拝むのは施餓鬼の略作法である。

なぜ略式なのかといえば、

時間と環境の点で、正式なものを行なうには無理があるから。


葬儀も略式である。

フルサイズの葬儀(引導作法)をすると、おそらく三日くらいかかり、

人手もずいぶん必要である。


日々の行法でも、

急ぎの時や旅先など用の略作法が、

『秘蔵記』などに説かれている。



世間でも、

時間的経済的な点から、略式の作法をすることは少なくない。

略式とは、

正式なもののなかから、エッセンスを抜き出してコンパクトにまとめたものである。

なので、

略式では、なぜそうなるかが分からない、省略されている。
 

料理でも、略式のものもそれなりにうまいけれど、

正式なものに比べればちょっと劣る。

そもそも、

正式なものを知らなければ略せないはずである。

だから、

略式しか知らないのは、何も知らないのと同じ。 

略された部分の理由を知らなければ意味はない。

理由を知らない、ということは、危険を伴うことがある。

 
ところで、

煩悩とは迷いのことであり、迷いは無知から生まれる。

だから、

真如真理を知れば苦しみから解脱し、迷い煩悩は智慧に変わる。

これは理論であり、

思いやりと優しさをもって行動する、

という実践と合致することで、

心は平安になり、自他を救うことが可能になる。


理論を勉強する際も、実践面でも、

自己批判自己反省が足りないと、錯覚、妄想、勘違いに気がつかない。

これでよいのだろうか

本当だろうか 

論理的に破綻していないか

誰かを笑顔にできているだろうか

あなたは安心と平安を得ているだろうか


自分で判断できなければ師や先輩に聴く、

過去の文献で確認する、

そしてまた考え実践する。

この繰り返しを、略してはいけない。

 略して自分を正当化すると、

自分独自の危険な思想ができあがる。



理論と実践

智慧と慈悲

を両立させよ、と仏教では説いている。

その根底に、

他人を見ることは、自分もしくは自分の大切な人の如くせよ、

と『戒序』にある。


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[ 2018/07/11 13:03 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]

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