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言葉を唱えることで真実を体得する。
以前に書きましたが、

http://shintenan.syoyu.net/%E7%B1%B3%E3%81%9E%E3%81%86%E3%81%AE%E5%AE%B6/%E6%96%AD%E9%A3%9F%E3%81%A8%E9%A3%9F%E3%81%B9%E3%81%99%E3%81%8E%E3%81%AF%E5%90%8C%E3%81%98%E3%81%93%E3%81%A8%E3%81%A7%E3%81%82%E3%82%8B%E3%80%82

本能的情動的に生きていれば、自然の制約を受けているので心は何もしなくてOK。

心が動くと、それは自由なので、自我が生じます。

自己を認識して、

私、私のもの

などが生まれ、  

自己があれば他者ができます。

そこから愛も憎しみも生まれる。

自己と他者があれば、 

そこにコミュニケーションが生まれ、言葉が発生します。

自由があり言葉がある、という人間の特徴ですね。

本能的な行動でも、

食事や生きるための攻撃、生殖行動などのコミュニーケーションはありますが、

自由意志がある場合、

もっと複雑な関係が生まれます。そこで言葉が必要になる。


言葉によって抽象的概念的なものを持ち、

論理的思考を持ちます。

それが心の内容を伝える。


その言葉は、

すべて如来の説法である、

というのが密教の立場です。

人の言葉はもちろん、

風の音、カエルの鳴き声、みな仏の説法。

耳に届くものだけではなく、

匂いも味も景色もそう。


密教では、

悟りの境涯は言葉で説明することができ、

仏は自ら説法しているな

という立場です。



ドイツ語やフランス語を知らなければ、話されてもわからないけれど、

勉強して慣れれば理解できます。

同じように、

仏の言葉も修練すれば理解できる。


嫌いな人の言葉も、悟りへ導く言葉である。

というようなことは知識では理解できますが、

そのレベルではあまり意味がない。


『声字実相義』には、
 
それ如来の説法は必ず文字による。

文字の所在は六塵(色・声・香・味・触・法)その体なり。

六塵の本は法仏の三密これなり。

いわゆる声字実相とはすなわちこれ法仏平等の三密、衆生本有の曼荼なり

とあり、

さらに、

五大(存在)にみな響あり 十界に言語を具す

六塵ことごとく文字なり 法身はこれ実相なり


つまり、

知らなければただの石ころが、知っていれば宝石であるようなもので、

知っていれば、感じるものが如来の説法として受け止められます。


それを知識だけではなく、心身にしみこませる方法のひとつが、

念誦。

真言を念誦することで、

一切の事物、意識の対象がマンダラや一大経典であり、

仏(真如)の本質と姿と働きである、

と体得できます。



身近に大切でありがたい存在がある。それがなければ生きていけないような存在。

でも、大切でありがたいという知識ではあまり意味はない。

その人の名を呼ぶことで、

その人の真実が身体にしみこむように。



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[ 2017/07/09 15:54 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]

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