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野球物語
プロ野球独立リーグ・BCリーグの

「栃木ゴールデンブレーブス」対「群馬ダイヤモンドペガサス」の試合 を母と観戦した。

場所は、小山運動公園野球場。

これが予想以上におもしろかった。

何より、

グラウンドが近い、選手が近い。

栃木の3番は元ヤクルトの飯原、

4番はあの村田修一。

村田効果で観客は多い。



陽が強かったけれど、昭和12年生まれの母も楽しんだらしい。

 
母は戦争中、鹿児島県高尾野へ疎開していた。

戦後、遊ぶものが無い時代、

担任の先生が、どこからかバット、グローブ、ボールを見つけてきて、

子らに野球を教えた。

青い空の下、

白球を追いながら、

広い校庭で思いっきり投げて打って走る。

こんなに楽しいものがあるのか、

と男子も女子も一緒になって歓喜した。


その後、

神奈川県川崎市に戻った母は、

そこで大洋ホエールズや、

都市対抗常連の日本鋼管、東芝、三菱ふそうの野球に出会う。

娘時代から、

川崎球場や後楽園に通ったらしい。


結婚後、栃木に家を建て、僕はそこで育つ。

そのころは王・長島、村山・江夏の時代、

そして、

近所には江川卓がいた。


小学校6年生の時、

学校の授業を休み、母は僕を後楽園球場へ連れていった。

欠席理由は「家事都合」

ハンク・アーロンと王貞治のホームラン競争、

ニューヨーク・メッツ対巨人の試合を観る。

トムー・シーバーが投げた。



普段、登校前には家の前の道路で父とキャッチボール、

中学生になってからは、

M君宅の庭でキャッチボールしてから登校。


放課後や休日は、公園で、三角ベースや、二人対二人の野球 

あのころ、

いつも野球があった。



僕も結婚して子が生まれた。

何より楽しかったのは、長男次男とのキャッチボール。

地域の野球チームに入れ、

毎朝の練習や休日の応援に行くのも楽しかった。



2011年3月、

震災原発事故で、日本の野球も大きな影響を受ける。

例年より遅れて開幕したプロ野球を観るために、

まだ開通していない鉄道の代行バスに乗り継ぎ、子らと上京。

あの、重苦しい被災の気持ちを、

勇気と希望 に替えてくれたものはいろいろあるけれど、

野球もそのひとつである。



大谷クンが活躍して、心踊りますね。

今年も楽しみな季節になっています。




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[ 2018/04/12 10:55 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]

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