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金剛頂経雑感 4 ~非科学性の問題~
どうすれば真実にたどり着けるのか

という一切義成就菩薩の質問に対して、

一切如来は、

自分の心を観察する三昧に住し、

本性より成就している真言を、

好きな回数だけ唱えるように

と答えます。

自心を如実に観じることから、

真実へ向かうのです。



ところで、

論理的・客観的・実証的であり、

再現性と普遍性が確認できることを科学的とするならば、

流通している世間の宗教は科学的でありません。

たとえば、

輪廻転生、死後の世界、死者の成仏などは、

それが誤りであることを確認する手段がないので、科学的と云えない。


「存在」について、

創造主が作った 

自然に発生した

などと比べれば、

縁と条件によって生じた、とする縁起論や空観は、

合理的で、科学との互換性がありそうですが、

最終的な実証性の問題があります。  



『金剛頂経』を貫くもの、前提として決まっているものとして、

心もモノも、総ての存在は、その本質が本来清浄である、

仏の性質がある、

仏になる可能性を蔵している

初めから悟っている、

があります。


それだからこそ、

その心を観察することから始まります。


しかし、

その本来清浄である心もモノも、

条件や原因無しで存在しているものではありません。

何かに寄りかかって、関係性を持っているはずです。

ですから、実体が無いので、

「科学的に」観察することは不可能であり、

三昧とか三摩地と云う、瞑想修行、宗教的直観でなければ体得できない、

と考えられます。

さらに『金剛頂経』では、

悩んでいる人、困っている人を救う慈悲の行いを、

長い間積み重ねることで、悟りへの修行としてきた大乗仏教の基本を、

自心を観察する、という瞑想と、

その意味の真言を唱えることで、

代替させます。

これは、どういうことなのだろうか。






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[ 2019/05/28 16:00 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]

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