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[ 2024/12/22 10:46 | ]
道草 神宮球場 編
都心の球場では神宮球場が好き。

ヤクルトスワローズの本拠地ですが、同時に学生野球のメッカ。


『 Number』 Web版には、 

 日本の野球はアマチュア野球から始まった。プロ野球が発足するまでにアマチュア野球が人気となり、とくに東京六大学野球が日本の野球人気の中心にあった。

 1936年に職業野球連盟が結成されたあとも、人気は圧倒的に六大学野球にあり、プロの人気が六大学と並ぶのは、やっと長嶋茂雄の登場からである。 

 いつも、プロ野球側にはアマチュア野球に対する強い劣等感があり、アマ側からすればプロに対する不思議な蔑視があった。 
http://number.bunshun.jp/articles/-/826933?page=2 



青田昇 著『サムライたちのプロ野球』には 、

 いちばん人が集まったのは東京六大学の野球であり、日本で最高の試合は早慶戦だった。
職業野球を見る人の数は限られており、それはまだ特別なマニアのものだった。

とあり,

その職業野球を国民的人気のプロ野球に変えたのが大下のホームランだと云う。

 
『大下弘 虹の生涯』(辺見じゅん著)の帯に書かれているのは、

「戦後、廃墟の空に虹のようなホームランを放って、
人々のこころに希望の灯をともした男がいた」


巨人、西鉄、大洋などの監督をして、魔術師と呼ばれた三原脩は、

「日本の野球の打撃人を五人あげるとすれば、川上、大下、中西、長島、王。

三人にしぼるとすれば、大下、中西、長島。

そして、たった一人選ぶとすれば、大下弘」

と言っています。(『さよなら平和台 夢を思い出をありがとう』西日本新聞社)


それまでの野球では、

打撃は川上の弾丸ライナーのように引くく強い打球を打つのが理想で、

高く上がるフライは取られればアウトになるだけの打球。

それを大下は外野スタンドまで持って行くホームランにして、

ファンは熱狂。


大下は豪快でやんちゃ、

置屋にバットを常においていたとか、

飲み屋や遊郭からそのまま球場に行って、泥酔したままホームランを打つような逸話が多いけれど、

残されている日記を読むと、どうも違うみたい。

それは毛筆の達筆で、写経のように書かれています。

純情で緻密、近所に住む老人や子どもたち、町内会の人に愛されたらしい。

そして、

大下が特攻隊員であったことを始めて知りました。

死ぬべき人間だったものが、どのように野球に、人生に打ち込んだのかは想像できない。


日記は、

『大下弘日記―球道徒然草』 (ベースボールマガジン社)

『「文芸春秋」にみるスポーツ昭和史 第1巻』(大下弘「青バット日記」 山口 瞳.著)

で読むことができます。

また、

大下が書いた『野球読本』(少年選書)は、

国会図書館デジタルデータで観ることができますが、これがすばらしい。



さて、神宮球場。

JR信濃町駅を出て左手のコンビニで買い物をして、その前にある歩道橋を渡ります。

春には階段上に満開の桜が覆いかぶさるように咲いている。

階段を降り、ビルを抜けて神宮外苑へ。左に森のビアガーデン。

次の信号を右折すれば右手に絵画館。この前の広場が大きく、いろいろな色の桜がある。

野球場の手前にバッティングセンター。現役投手の映像から球が飛んでくるのが楽しい。

バッティングセンターは短時間にストレス発散が出来る場所で、肩こりや二日酔いにも効果的。


球場に入ると、ここはグラウンドと客席が近いから臨場感があり、

何より屋外だから気持ちが良い。ドームとは違う。



レフト応援席からマートンも近かった。


大声で応援するスポーツ観戦はストレス解消に非常によろしい。

大声とともにトラブルも飛んで消える。大空と一体になる。無染無着と云っていい。


ナイター後には、信濃町駅前にラーメンの屋台が出て、

両チームのユニフォームを着たファンが、肩を並べて食べています。


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[ 2017/07/30 09:23 | Comments(0) | 道草 ]

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