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[ 2025/03/19 19:23 | ]
桜を観て仏性を想う
仏性は仏の性質、仏になるための原因 仏教のなかで、 それは、すべての衆生の身中にある、 という立場があります。


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[ 2019/04/11 11:30 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
何を唱えているのか ~ お経本雑感 1
真言宗で常用している『理趣経』は、

17段(章)に分かれており、それぞれ17尊の教えが説かれています。

格段の文末には、

○○如来は、妙慧の道を説くこの教えを重ねて明らかにするために、

顔をやわらげ、心を喜ばし、微笑をたたえつつ、

それぞれの印を手に結び、それぞれの仏が住する、まことの心髄の言葉を説きたまえり

と書かれ、

最後に、その内容を端的に表した印契と真言があります。

つまり、

口で唱え、身体(手)で仏の姿を表し、仏の誓いを心に観想できるように構成されています。

実践的なお経なんですね。


一般に流通しているお経本では、

懺悔文(さんげもん)と、三帰(さんき)十善戒などの戒律が最初に書かれていることが多い。

懺悔文は、

我昔所造諸悪業(がしゃくしょぞう しょあくごう)
皆由無始貪瞋痴 (かいゆむし とんじんち)
従身語意之所生 (じゅうしんごい ししょしょう)
一切我今皆懺悔 (いっさいがこん かいさんげ)

行いと、言葉と、思いによって作られた悪業を懺悔します、と。

三帰は、

弟子某甲(でしむこう)
盡未来際(じんみらいさい)
帰依仏(きえぶつ)
帰依法(きえほう)
帰依僧(きえそう)

仏(師)と、その教え(薬)と、それを伝える集い(友)に帰依します、と。


そして十善戒は、

弟子某甲 (でしむこう)
盡未来際 (じんみらいさい)
不殺生 (ふせっしょう)
不偸盗 (ふちゅうとう)
不邪淫 (ふじゃいん)
不妄語 (ふもうご)
不綺語 (ふきご)
不両舌 (ふりょうぜつ)
不悪口 (ふあっく)
不慳貪 (ふけんどん)
不瞋恚 (ふしんに)
不邪見 (ふじゃけん)

身体に関すること三つ

言葉に関すること四つ

心に基づくこと三つ

これを戒として保ちます、と。


つまり、

生きているだけで知らず知らずのうちにおかしてしまう罪を懺悔反省し、

他のためになるように生きます、と誓う内容。

理趣経と異なり、条文のように並んでいるだけですから、

これを唱えるだけでは、懺悔したことにも、戒を保つことにもなりません。

ですから、

お経本は唱えるだけでなく、

そこに書いてあることを心に留め記憶し、行動することで、

宗教としての意味が出てきます。


[ 2019/04/11 12:02 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
弘法大師の著作から仏性を探す
仏性は、仏の性質、仏になる原因のことですが、

お大師さんの文章にもいくつかでてきます。


「卒塔婆はバン字の一字の所成なり。またアビラウンケンの五字の所成なり。
 一一を取るに任せて、自性清浄心とも、真如とも、仏性とも、如来蔵とも、法性とも観ずべし」 (秘蔵記)
 
宇宙そのものも、僕らも含めて宇宙にあるものは全て大日如来であり

見方によれば、大日如来が変化したものであり、

考えようによっては、大日如来を宿しているものである。

つまり、仏性がある、

すでに悟っている、完成している、

それを観想して、宇宙と大日、自分と大日、自分と宇宙が同じであると悟る、

ということ。


「雙林に滅を告げてついに仏性を顕わせども、しかも聴衆あって果に羅漢を上ず」
                                  (十住心論四)

『法華の儀軌経』にいわく、

「一切衆生の身中にみな仏性あり。如来蔵を具せり。一切衆生は無上菩提の法器にあらざることなし」                                                                                                              (十住心論八)


仏性があるのだから、修行してそれを開発する、

仏性があるからこそ、修行すれば仏になれる、

ということ。 


「毛鱗角冠、蹄履尾裙、有情非情、動物植物、同じく平等の仏性を鍳みて忽ちに不二の大衍を証せむ 」                          (為式部願文)

「鱗衫羽袍、蹄舃角冠、誰か仏性無からむ。早く実相を見よ 」 (藤大使為亡児願文)


毛のあるもの、ウロコがあるもの、角、蹄、尻尾があるもの、動物植物鉱物、

みな仏性があるのだから、仏になる可能性を持っている。

だから、みんなが悟りを開いて幸せになりますように、

ということ。

不二は唯一、

大衍(だいえん)は大乗

証は、悟り

実相は真如・悟り

のこと。
 

[ 2019/04/12 14:41 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
不殺生 ~ お経本雑感 2

十善戒の最初にある不殺生。

なぜ殺してはいけないのか。

自分がそうされたくないからである。

そもそも、

ダメなものはダメなのであって、

そうでないと、仲良く楽しく元気に暮らせない。

さらに、

殺すという業(ごう)を作ってしまう。

業には必ず結果(報い)があり、

それはおそらく、悟りや幸せの障害になる。

蚊もハエもゴキブリも、

牛もブタも魚も野菜も、

殺せば、「殺した」という業を作る。

でも、

それをしないで生きてゆけないから、どうするかが問題になる。

懺悔するのが基本だけれど、それだけで良いのだろうか。

ひとつでも、

食べるためなどの理由で、

これは殺してもしょうがないのだ、としてしまえば、

次々に自己正当化が生じるから、注意しなくてはいけない。


『三昧耶戒序』には以下のようにある。

戒に二種あり。

ひとつは「ビナヤ」、調伏と訳す。

一切衆生を見ること己身のごとし

この故に敢えてその身命を害せず。

この慈悲の心によって、自然と不殺生などの不善を離れる

これがビナヤ。


もうひとつは「シーラ」、清涼寂静と訳す。

悪心を離れるがゆえに、

心中が清涼寂静になる。

これがシーラ。


同じように、

勉強修行して、より良い心を目指すことで、

自然と一切の悪をを離れ、善を修す。

だから、一切衆生の利益になる。


この、

一切衆生の利益になることが、

不殺生をはじめ、戒が存在する理由でしょう。


[ 2019/04/13 05:46 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
不邪淫?不淫? ~ お経本雑感 3
十善戒のうち、身体に関するものは、

不殺生、不偸盗、不邪淫のみっつ。

殺さない、盗まない、に例外は無いけれど、

不邪淫は、「正しい男女関係」のような解釈になっています。

夫婦など特定の関係なら構わない、と。

特定の相手なら、殺しても良い、盗んでも良い、とはならないのに、

なぜ、不邪淫だけ違うのでしょうか。

本来は不淫のはず。『梵網経』にもそうあります。

これは梵行とも云う。

理由として考えられるのは、

ヴェーダンタ哲学などで、

性交によってメタ神経が傷む、というもの。

メタ神経は瞑想に必要な記憶力を制御するもの。


また、

陰陽五行説では、性交によって陰性の力が抜け、

瞑想や心を静かにまとめるには、陰性な力が必要、というもの。


仏教は瞑想の宗教ですが、

そのためには、非常に深い集中力が必要です。

性交すると、その力が失われる可能性がある。

その精力を、座禅瞑想のために使うのですね。

また、

性交は妄想を呼び起こす原因にもなる。


どうして、不邪淫に変わったのでしょうか。



ちなみに、真言宗で出家得度して最初に受けるのは「菩薩三聚浄戒(さんじゅじょうかい)」。

内容は、
 
1.摂律儀戒(しょうりつぎかい)…悪いことをやめる
2.摂善法戒(しょうぜんぽうかい)…善いことをする
3.摂衆生戒(しょうしゅじょうかい)…苦しむ人に仏法を伝えて救う

の3つ。

[ 2019/04/14 06:18 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
言葉についての四つ ~ お経本雑感 4
日本の仏教は、正規の戒律を保つ習慣がありません。

本来、仏教には戒・定・慧の三学があり、

戒は定(座禅瞑想修行、心の探求)や智慧の土台となるもので、

それがほぼ無い環境です。

その代り、

具体的な言動ではなく、

本来そうあるべき、ということを戒にしています。

例えば、

日本の密教では、『大日経』などにある「四重禁戒」。

それは、

1、不応捨正法戒(正しい教えを捨ててはならない)
2、不捨離菩提戒(菩提心・悟りを求める心を捨ててはならない)
3、不応慳悋正法戒(正しい教えを伝えることを惜しんではならない)
4、不応不利衆生行戒(衆生を利益しないような事があってはならない)

これが、

大慈悲(救おうとする心:慈悲の心によって悪から離れ、善を修する)

向上心(道を求める心:心を観察し、勉強することで、智慧を得、その結果、悪から離れ、善を

大菩提心(心をまとめること:これによって、慈悲と向上心が決定する)

という具体的な生活法につながります。


本来、保つべき十善戒のうち、言葉に関するものが四つあります。

・不妄語(ふもうご)

嘘をつかないこと。

特に、わかっていないのに分かったと言う、到達してもいないのに到達したと言うこと。

また、神秘的なこと(妄想)を吹聴すること。


・不綺語(ふきご)
 
意味のない、無駄なおしゃべりをしないこと。

仏教は本来、教えを説く以外は寡黙。


・不悪口(ふあっく)

他人の悪口を言わないこと。

悪口は、驕り、恨み、妬み、怒り、焦りから生まれます。


・不両舌(ふりょうぜつ)

告げ口しないこと。



いずれにしても、

言葉は発した時点から業になります。

つまり、

言葉によって、日々の、人生の、結果が変わります。

[ 2019/04/16 05:58 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
お大師さまに支えられ、お大師さまとともに
2019.4.13 長野県飯田市・立石寺の春季大祭、 高野山本山布教師・岩瀬密雄師のご法話です。


[ 2019/04/17 07:46 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
立石寺の風景1
長野県飯田市 三穂丘陵の南側に、立石という里があります。



[ 2019/04/18 05:37 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
立石寺の風景2 ~四天王と蚕玉様~


「四天王」 本尊の両側には四天王がおまつりされています。 十一面観音の周囲に四天王を配置するのは、東寺・食堂を始め作例は多いですが、 禅定(心を静かにする瞑想修行)を護るのが四天王の役割であると考えられます。 また『孔雀王呪経』などに、護摩壇には四天王を配する記述があります。

「蚕玉(こだま)さま」 かつて伊那地方は全国でも有数の養蚕地帯で、 絹は地域経済を潤し、文化の発展にも寄与してきました。 その中で、人々はカイコを「おかいこさま」と呼び、繭の豊作を祈願して「蚕玉さま」をおまつりしました。 この像は馬鳴(めみょう)菩薩とされていますが、 大乗仏教の論者である『仏所行讃』や『大乗起信論』を書いた馬鳴とは別人で、 中国の民間信仰由来、道教の影響を受けたものと考えられます。 『馬鳴儀軌』や『寶林傳』には、 裸形衆生のために衣服を成じようと馬鳴が誓願を立てた。 馬鳴曼荼羅の眷属に蚕がある。 馬鳴が蚕に変化する。 などの記述が見られます。

[ 2019/04/18 09:41 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
仏教では何を拝んでいるのか ~不生不滅~
あらゆるもの(の本質、本体)は本来、

不生不滅(生じることも滅することも無い)

というのが大乗仏教の原則です。

『仏教哲理の発達』には、

仏教で生とは因縁生ということである。
因縁生の法は無自性である(常住、唯一、主宰者ではない)
定まれる自性がない。
無自性の法は生じることも滅することもない。
即ち不生不滅である。
因縁によって生じたものは永久不滅なものではない。
無自性である。
自性の無いものに生滅はない。
  中略
現に生滅があるのはみな仮生仮滅である


現実の生活では、

生滅なきものを生滅すると迷うから、悩み煩悩苦しみが生じる、

ということ。

また、

『別行次第秘記』の通用字輪観には、

一切の諸法の因縁生の義(顕教の至極なり)を尋ね究むる時は、
自ずから本不生の義を知るなり
その故は、
一切諸法は因縁より生ぜざるものなきが故に。
縁より生ずるものは悉く皆、始あり、本あり。
今この能生(生み出すこと)の縁を究むるに、また因縁より生ず。
かくの如く展転して縁によるが故に、
最初生起の法の為に縁と成る法は、縁に依るや依らざるや。
もし最初の一法は縁に依らずといわば、
既に諸法は従縁生なりという。何ぞ縁に依らざる一法あらん。
もしまた縁に依るといわば、これより始めに一法もなし。何れの縁に依るべきや。
かくの如く推尋する時は因縁生の義、破壊して成ぜず。
もし因縁生の義理、実にあらずと云わば、彼の最初に一法は自然生なりとやせん。
もし自然生なりと云わば、外道の自然の計に堕すべし。
因縁生にもあらず、自然生にもあらずんば、果たして如何と推し究むる時に、即ち本不生際を知るなり。

いわゆる本不生の義とは一切諸法は本来、本有にして(自然生にあらざる)、
諸の因縁より生ずるにあらず(縁生にあらざる)、
また始めあるにもあらず、終わりあるにもあらず、
有仏無仏に性も相も常爾なりと知るを本不生を知ると云うなり。
またこれを、如実知自心とも云うなり。


全ての現象は、原因や条件が相互に関係しあって成立し、

常住で唯一で創造主のようなものは無く、

条件や原因がなくなれば結果も無くなる、

と考えます。これを縁起とか因縁生と云います。

迷い煩悩と行為(業)によて苦しみが起る、

などという仕組みです。単独で独立した苦しみなどはありません。

諸法は空、つまり無自性(因縁生)であるから縁起し、

縁起するから自性をもたず空である、と。

どんなものも、相互依存性によってのみ存在できるのです。

あなたと、あれとこれとがあるから私がいる、と。

それらが無ければ存在しない、つまりワタシ本体というものは無く、

無自性・空である、と。

それ以外にも、

縁起は識の転変の意味であるという阿頼耶識縁起や、

現象世界を、真如(如来蔵)が縁に従って現れたものと見る真如縁起(如来像縁起)、

現象世界をそのまま真如であると見る法界縁起、

などがあり、

真言密教では、

法界縁起を発展させ、真如の本質である六大(地・水・火・風・空・識)が、

すべてのものに実在して、相互に無碍融通しながら偏在しているという六大縁起を考えます。

覚鑁さんの『入法界観』で、

本尊も六大、
法界行者も万法も衆生も魔界も同じく六大法界にして外に別法なし、
故に六大縁起の外に諸法の建立なし

と観想するのは、密教の全ての修法に通じるものです。

でも、

自分、自分の体、目の前にあるコップ 等々、

これらは実際にあるのだけれど、無自性である、仮にあるだけ、

というのは、普段の生活ではわかりにくい。

それは三密行で悟るしかないのだけれど、

その点、

先祖供養はわかりやすい。

故人の霊は 、

それを想う人の脳内にあるイメージで、実体はないのだから、

ウサギの角、亀の毛と同じで、自性が無い 。

なので、

それを供養する、成仏させるというのは、

それを想う人次第である。

心こそ誠のよりどころであり、

心を平安にすることが、故人の成仏になる。 

心を平安にするために、

仲良く楽しく元気に暮らしましょう。






[ 2019/04/21 05:29 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
コーヒーの話
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[ 2019/04/22 16:39 | Comments(0) | 穀菜食の舎 ]
お尻と脳

陰陽研究塾の記事 109 

お尻と脳
 



[ 2019/04/25 10:07 | Comments(0) | 陰陽研究塾 ]
むさぼる、いかる、よこしま ~ お経本雑感 5
十善戒のうち、心に関するものはみっつ。

・不慳貪(ふけんどん)

物惜しみしない、貪らない

これは、布施行(施すこと=相手の為になると考えられることをする)が効果的。

これで満足、と思うことでもあります。


・不瞋恚(ふしんに)

怒らない

これは忍辱の行(にんにく:耐え忍ぶこと、微笑むこと)が有効。

怒るのは、自分の思い通りにならないとき、

自分こそが正しいと思っている時です。

それこそが苦しみの源。


・不邪見(ふじゃけん)

よこしまな見かたをしない。

よこしまな見かたとは、

・因果の法則を疑うこと

・常住で永遠で唯一なものがあると、

 考えること。

これらは、智慧の修行(存在の本質と生きる意味を知ること)によって、消えます。


いずれにしても、

他に思いやりと優しさを向け、

微笑んで忍び、

勉強することで、

心の戒律は身に染み込みます。

さらに、

それによって自分のこころが平安になります。


身体や言葉の戒と同じように、

場合によっては、貪っても怒っても邪な見かたをしても良い、

などと例外を設けるべきではありませんが、

少しづつ心をまとめて積み上げていけば、

迷い苦しみから離れます。


上記三つの心の戒を昇華させると、

密教の四重禁戒になります。

不応捨正法戒(仏の教えを捨ててはならない)
不捨離菩提戒(菩提心を捨ててはならない)
不応慳悋正法戒(仏の教えを伝えることを惜しんではならない)
不応不利衆生行戒(衆生を利益しないような事があってはならない)



[ 2019/04/25 11:04 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
回向とは何だろうか ~ お経本雑感 6
多くのお経本で最後にあるのが「回向文(えこうもん)」

願以此功徳 (がんにしくどく)
普及於一切 (ふぎゅうおいっさい)
我等与衆生 (がとうよしゅじょう)
皆共成仏道 (かいぐじょうぶつどう)


願わくは、私の善行の功徳が、

この世のありとあらゆる存在に行きわたり、
 
すべての人々と全てのいのちが、

皆、仏道を完成しますように。


ここで大切なのは功徳、良い行いの結果。

それは、お経本の最初から、回向文の前までに書いてあること、

つまり、

自分の普段の行いを反省して懺悔し、

戒を保ち、

襟を正して生きていこうと誓い、

お経に書いてあることを理解して実践し智慧を重ね、

真言の意味を理解して心を調えること。

それらが良い行い。

ただ唱えるだけ、お経を聞いているだけでは、功徳になりません。


もうひとつ重要なのは、

その功徳を他のために回向できるのか、ということ。

つまり、

自分が修めた善行の結果が、他に向かって回されるのだろうか。

それは、自業自得の原則に反しているのではないだろうか。

良いことをすれば良い結果がある、たとえば極楽へ行く、褒められる。

悪いことをすれば悪い結果がある、たとえば地獄へ堕ちる、罰を受ける。

これは、その行為の報いですから、自分以外に及ぶことはありません。

あなたが勉強して、僕が合格するとか、

僕が薬を飲んで、あなたが治る、

ということはない。

僕は何もしないけれど、

誰かが自分の善行を回向してくれれば、

僕は悟れるのだろうか。

成仏するかどうかは、その人の行為と思いによるもので、

他人が影響することは、あるのだろうか。




『華厳経』には、

但衆生をして真実の法をさとらしめんと欲してのみ回向するなり

とあります。

衆生は空であり、回向も空であると、理解させるために回向するので、

回向が実在するのではない

ということですが、

空である、つまり自我への執著がなければ、自然と回向される、と考えます。

また、

『倶舎論』には、

業のほとんどが不定業であり、それは自分自身の意思的行為により転じることができる

とあります。

自分の行いの報いは、

時間と善悪を離れて生じる、

そして、それは他へ回向できるらしい。


もうひとつ、

助縁という考えかたがあります。

他から助けられることで、

自分から功徳を積むようになる。

その功徳によって救われる。

自分は皆に心安く思われ、応援されている。

だから、自分で修行して自分で助かる、

そういう仕組み。


 密教では、

自分の身業(行い)、口業(言葉)、意業(思い)の三業は、

仏の三密になる、と考えます。

また、

悟りの境界は我即法界(自分と宇宙のあらゆるものは不二)

ですから、

自分の三業が仏の三密と相応すれば、

回向していることになるかもしれない。

自己の中に一切があるのだから、
 
私の行いは宇宙の行いであり、

その中にあなたもいるから回向される。


いづれにしても、

懺悔と感謝が基本であり、

それを実践すれば仏道修行になり、

心の平安を得られるでしょう。

 

[ 2019/04/26 09:23 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
青菜を食べよう
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[ 2019/04/26 10:51 | Comments(0) | 穀菜食の舎 ]
お経を唱える理由 ~ お経本雑感 7
日本仏教は、儀式を大切にするので、

読経もその中の要素になっています。

また、

たとえば観音様に向かって般若心経を唱えることがありますが、

その般若心経には

観音さまが深い智慧の修行によって、

全てのものは空であると悟った。

それによって、一切の苦から救われた。

と書かれています。

つまり、

観音様の体験を観音さまに伝える、

なんだかちょっと、

イチローにヒットの打ちかたを教えているようなものじゃないかしら。 


そもそも、

なぜ、お経を唱えるようになったのだろうか。

ひとつの根拠が『法句経』241~243

「まじないし(説呪者)のけがれは
 呪を誦んぜざることなり」

でも、この後には、

「これらのけがれより
 さらに多きけがれあり
 無明(まよい)こそは
 最大のけがれなり

 比丘等よ
 このけがれをすてて
 無垢の人となるべし」

とあり、

唱えないことより、愚かさの迷いを捨てることこそ大切、

と書かれています。


『理趣経』百字の偈の後には、

もしこの本初たる妙慧の道を聞き、

毎日朝から、これを口に誦し、あるいは心して人の誦するを聴けば、

全ての安楽と喜びを得るのみでなく、

大楽の全てを与えるという誓いを成し遂げ、

この世において、

全てのものにとらわれない自由自在の喜びと楽しみを得る菩薩の功徳を身につきて、

如来の位を得る

とありますが、


他の箇所では、

妙慧の道を聞いて、これを身に受持(身につけて忘れないこと)し、

口に誦することあれば

とか、

これを身に受持し、口に読誦し、心に思惟することあれば、

となっています。

唱えるだけではないのですね。


でも、

読書百遍、

テキストを何回も読むように、

たくさん唱えれば、少しは理解でき、身につくかもしれない。

経典に書かれていることを実践すれば、もっと身につくけれど。



※SkypeかLINEビデオ通話を使って、

・お経本の解説

・三密行体験

・密教入門:『菩提心論』と『三昧耶戒序』解説

をします。

お気持ちのあるかたは、ご連絡ください。

問い合わせ先:gbqmk185@ybb.ne.jp

 

[ 2019/04/28 07:40 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
発菩提心と三昧耶戒 ~ お経本雑感 8
真言宗のお経本に書かれている内容で、

最も密教らしいもの、真言宗らしいもの、そして大切なものが、

発菩提心真言と三昧耶戒真言。


なぜなら、

これこそが真言密教が目的としている即身成仏への方法だからです。

『弘仁の御遺誡』には、

三昧耶戒を根本として、速く自利円満し、四恩を抜済せよ

三昧耶戒は身命を捨てても守ること

この戒を犯すものはわが弟子ではない 

と書かれています。
 

泥棒をする人は、泥棒をしようと思ってから泥棒します。

同じように、

悟りを求める人は、まず悟りを求める心(菩提心)を発すことが始まり。

三昧耶戒の本体が菩提心です。

この菩提心に三種あります。

1、慈悲心(救う心)、慈悲の行為の連続が「生きる」ということ。

2、向上心(道を求める心)、自分や自分以外、すべての存在とは何か、と知ること。
              それを知れば、心に関するすべては解決します。

3、三摩地心(心を静かにまとめて観察する瞑想修行)

これを保つのが三昧耶戒。


1、の慈悲心は、

他を、自分や自分の大切な人、と思うことなので、

それがあれば他への殺盗邪は自然と無くなるから、

道徳的な十善戒は自動的に守られ、

宗教的な極意になります。

2、の向上心があれば、

積み重ねた智慧によって捨劣得勝し、無上菩提を求め、自心を検知して、

より良くなろうとするので、

これも自然と悪から離れ、善に近づきます。

3、の観想行によって、

1、と2、は堅固になります。

十善戒は三昧耶戒に根底を持ち、

三昧耶戒により自然と十悪業から離れる、

ということ。



即身成仏の鍵は三昧耶戒の体である三種菩提心にあり、

三昧耶戒を忘れないことが、成仏の生活です。



[ 2019/04/29 15:38 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
死者への祈り
お客様の接待をどうしようか、と考える時、

自分なら、どうされたいかを考えるのがひとつの方法。

僕は、

仕事用事の他に、食べたり飲んだりのもてなしは苦手。

できれば、ひとりにしてほしい。

でも、

人によっては、食事や宴席が嬉しい場合もあるだろうから、

どうしたらよいか、本人に直接聞くのが親切かもしれない。


相手が、故人死者の場合は、

聞くことができないから、こちらで想像するしかない。

自分の死後、どうされたいか、と。

元気で仲良く立派な人になってくれるのが、もっともうれしいだろうな。

病気なら心配、ケンカしていれば悲しい、

悪事に染まっていたら、心が沈む。

仲良くするためなら、食事や宴席もいいかな。


『性霊集』にある表白などをみると、

故人に対してはもちろん、

すべての命が悟りを開き、仏の位に至るように、

と祈願しています。

お大師さんは、いつもそういう姿勢。 

故人を含めたすべてに仏性があるのだから、

その可能性を信じて成仏を、悟りを拝む。


他の成仏、幸せを祈る観法に、四無量心観があります。

他人を教化し、仏法の恵みを与えること。利他行の基礎。 

その内容は、

・慈無量心

一切有情は仏の性質を具えているから、

大きな楽しみを与えようと、真言を唱えながら観じる。

・悲無量心

一切有情は迷いの海に沈んで、自心を悟らず、

愚かさの執着を起こしているから、

苦を和らげようと、真言を唱えながら観じる。 

・喜無量心

一切有情は本来清浄なこと、蓮華のようであるから、

衆生の楽しみを喜び、嫉妬心を除こうと、真言を唱えながら観じる。 

・捨無量心

一切有情はすべてにおいて平等で、

その性質も姿も本来空であることを、真言を唱えながら観じる。

だれもが、

仏ではあるけれど、現実には迷い苦しみがある、

でも、本来清らかであり、平等である、

ということ。

お気持ちがありましたら、

具体的な観想法をお教えします。



[ 2019/04/30 06:51 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
月輪
心は満月のようなもの

月輪の十徳
1、円満 2、潔白 3、清浄 4、清涼 5、明照 6、独尊 7、中道 8、速疾 9、巡転 10、普現



[ 2019/05/01 14:31 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
須走の浅間神社にお参りしました。





[ 2019/05/01 14:33 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
何回唱えるの? ~ お経本雑感 9
真言や御宝号、お念仏などを何回唱えるのか、

答えは「たくさん」。


通常、ご本尊さんの供養法では、

108遍、乃至1080遍唱えるのが作法ですが、

時間が無い時は、

1080を省略して108でも21でも7でもよろしい、

と伝わっています。

いずれにしても、

毎日のそれを積み重ねて、たくさん唱えます。


『木槵経(もくげんきょう)』には、

煩悩業苦を滅したいと思えば、

(仏法僧に帰依する言葉を)百回、千回、百万回唱えなさい。

二十万遍で安楽が得られ、

一万遍で煩悩が断除される、

とあります。

煩悩とは

愚かさの迷い=自我への執着


インドの数えかたでは、

十万を洛叉 (らくしゃ: laksh)といいますが、

『大日経』(世間成就品)には、

一洛叉ごとに唱える効果があり、

三洛叉(三十万回)が一つの区切り、

と書かれています。

そのほか、

不動三洛叉、文殊三洛叉などの

三十万回唱える作法があり、

虚空蔵さんの求聞持法では、百万回唱えるのが一回の作法です。


『金剛頂経』には、

真言を一回唱えるものと、

好きなだけ唱える、

という記述があります。

瞑想法が確かならば、一回で効果のある真言もあり、

観想したものが眼前にはっきり見えるまで唱える、

というものもある。


もともと、真言はマントラといって、

仏教以前からある呪文、神々をたたえる言葉で、
 
たくさん唱えることを重要視しています。

たくさん唱えれば神さまに届く、と。
 
好きな人の名をよぶ、

子が「ママ」と呼ぶ、

それらと似ているかもしれない。

好きな人の名はたくさん唱えます。

たくさん唱えることは、精神集中も期待できます。


お大師さんの『般若心経秘鍵』に、

「観誦すれば無明を除く」
(本尊の境地を観想しながら唱えれば、愚かさの迷いが除かれる)

とありますが、

真言の意味を知って、正しく唱えることが大切です。

そうでなければ、何でも良くなってしまう。

間違っても良いということになる。

 恋人の名前を間違って呼んだら、ちょっと困ります。


僕は、法事などで真言を三遍づつ唱えていますが、

それは、

阿闍梨の処において三遍、口ずから受けよ

と『蘇悉地羯羅経』にあるからです。





[ 2019/05/04 06:00 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
お経本散策・懺悔から始めよう

[ 2019/05/09 05:28 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
立石寺の風景4・燈籠

[ 2019/05/09 05:30 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]
食時作法と天皇陛下
お大師さんの『仏経を講演して四恩の徳を報ずる表白』 (性霊集巻八)に、

「此の身は、 虚空より 化生するに非ず。 大地より変現するに非ず。 必ず四恩の徳に 資けられて、 是の 五陰の 体を保つ」

「 謂ふ所の四恩とは、 一には父母、 二には国王、 三つには衆生、 四つには三宝なり。

我を生み我を育するは、 父母の恩、 天よりも高く、 地よりも厚し。

身を粉にし、 命を損ずとも、 何れの劫こうにか報ずることを得ん。

父母我を生ずと云ふと雖も、 若し国王無くんば、 強弱相戦ひ、 貴賎劫奪して身命保ち難く、

財宝何ぞ守らん」

とあり、

四恩(父母の恩、 国王の恩、衆生の恩、三宝の恩)に報いることの大切さを説いています。

さらに、

『心地観経』の、

「一切の男子はこれ我が父、一切の女人はこれ我が母、一切の衆生はみなこれ吾が二親師君なり」

を引いています。

その他、

「菩提薩埵の発心、金剛大士の用意の如きに至っては、法界を一心に包み、衆生を四恩に顧みたもう」(平城天皇灌頂文)

「三世を達観するにみな是我が四恩なり

 四恩みな三悪趣に堕して無量の苦を受く。

 吾はこれ彼の子なり、また彼が資なり、我にあらざれば誰かよく抜済せん 」

「一切衆生を観るに、猶し己身および四恩の如し」 (三昧耶戒序)

「よくこの二善を修し、四恩を抜済し、衆生を利益するときは、自利利他の功徳を具し、

 速やかに一切智々の大覚を証す。

 是を菩提といい、是を仏陀を称し、または真実報恩者をなづく」(理趣経開題)

などとあります。


父母の恩はもちろん、だれでも理解できるでしょう。

例えば、ご飯を食べるにも、

お米を育てる農家、それを運び、売り、料理する人など、多くの人、存在のお蔭があります。

これが衆生の恩。

三宝(仏宝、法宝、僧宝)の恩とは、

迷い苦しみを、悟りしあわせに変えてくれる、仏の慈悲と智慧の恩。

そして、

国王の恩とは、上記にあるように、国の安泰を守ってくれる恩。

お大師さんがいらした当時、

国王の恩とは、天皇陛下の恩ということだったでしょう。


真言密教で最も重要な儀式である後七日御修法 (ごしちにちのみしゅほう)は、

玉体安穏(つまりはそれが国家安穏につながる)を祈る秘法です。


『食時作法』の始めにある「呪願」では、
 
金輪聖王 宝祚延長 十方施主 災障消除 福寿増長
(きんりんじょうおう ほうそえんちょう じっぽうせしゅ さいしょうしょうじょ ふくじゅぞうちょう) 

と唱えます。
 
金輪聖王は、須弥山を統治する王さまで、

身に仏の三十二相を現じ、天より輪宝を感得し、

その輪宝を回して威力をなす、

とされています。

宝祚とは天皇の位。

ですから、

金輪聖王にたとえられる天皇陛下の位が末永く続きますように 

つまり、国土の繁栄と人々の幸がありますように

ということ。

そして、

この食べ物に関わる全ての人、いのちの、

災いが無くなり、福寿が増すように

と祈ります。




[ 2019/05/11 09:58 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]



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