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回向の違和感
以前書いたように 、

修行の第一は自己批判懺悔です。

これがなければ、人はみな本来清浄で仏である、とはいえない。

勉強はしないけれど、やればできるんだと思っているレベル。

実践しないで肯定してはいけない。

その次が自己拡充。

小学校の勉強では飽き足らず、

中学高校大学と学問を進める。

すると、多くのことが深く理解できる。

真実に近づく。

下働きからはじめて一流の仕事ができるように努力精進するのと同じ。

心のレベルも、
 
より高い段階を目指してトレーニングします。

そして、

心とは何かを「実の如く」知ることになり、

自他の迷い苦しみを、悟りと幸せに変えます。



そして最後に回向。

多くの場合、

法要や所作の最後に回向文を唱えます。

「願わくは この功徳をもって、

 普く一切に及ぼし、

 われらと衆生と、皆共に、

 仏道を成ぜん」

これは正しい漢訳ではないようですが、

功徳は自分と他者の悟りへ回向するものです。

この回向文に違和感を感じるのは、

法事や先祖供養などの読経やお布施すること、

お参りすることの功徳が回向される、

と思われているような気がするからです。


子や孫が仲良く楽しく暮し、

元気に成長し、

思いやりとやさしさをもった「善い人」になることが、

親の願いです。僕もそれが何より嬉しい。


同じように

僕らの親や先祖は、

僕らがより良く生きること、懸命に冷静に安全に生きることを喜ぶでしょう。

ただ葬儀法事などの儀式を行うことではない。



自己批判し、

自己の拡充につとめ、

その功徳を回向する。


密教の作法では「至心回向」を念じます。

栂尾先生の『和文経典』では、

「懺悔その他の功徳もて

われとこしえに はげまなん

あらゆるほとけ 菩薩たち

よき友にまもられて

さわりなき世に生まれゆき

きよけきこころ みがかなん

まよいをはなれ 悲智を具し

すくいのわざを 身につけて

仏の家の ひととなり

わが子の身内 たすけなん

あらゆる言葉 さわりなく

不思議の力 限りなし

むかし聖者の よせしごと

それらをともに 回向せん

大悲にもゆる みひかりの

仏を礼し たてまつる」 
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[ 2018/01/25 09:41 | Comments(0) | 眞天庵仏教塾・密教塾 ]

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