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直住月宮
空腹のとき食べ物を求め、

病気のときは薬に頼るように、

心に迷いがある、

または

心とは何か、自分とは何か、を知りたければ、

修行したくなる。


空腹の度合いが高ければ、食べる量も多くなるように、

迷いが多ければ、修行も深くなる。


仏教では、

人はみなもともと仏であるが、

迷い煩悩にまみれて、それに気がつかない、

としている。

満月が雲に隠れているようなものである、と。


多くの場合、

その雲を取り除くことを考える。


迷い煩悩を修行や生活の工夫によって、はぎとれば、

満月が、仏が現れる、と。

僕らが備えている仏の(悟り、しあわせ)の可能性(仏性)を、

覆い隠している雲をいかにして払うかに努力する。


すると、

その雲にとらわれ、月を見失うことが少なくない。

悟りではなく、煩悩に関心を持ってしまう。


だから、

雲(迷い、苦しみ、悩み、不安、悲観的な思考)ではなく、

もともとある月(仏性、しあわせ、悟り)に着目したほうが、

悟る可能性は大きい。

お大師さんの高弟、実慧大徳の『大毘盧遮那経王疏伝』に

直住月宮 (じきじゅうがっくう)という言葉がある。

遠い月を望むのではなく、

そこに行って、直に坐る、ということ。

その月(仏性)がある、ということを知っていれば、

どんな困難も乗り越えられる力になる。


月に坐るのは、

三摩地という瞑想修行によるのだけれど、

これは、

身体と口(言葉)を使う。


能書きを読むのではなく、薬を飲むように、

言い訳をしないで実行するように、

目的地にジャンプするように、

対処療法よりも、体質を改善するように、

クダクダ言わずに遊びに熱中するように、

修法は身体的である。



もちろん、

三摩地などの瞑想修行も、

その基本にあるのは、

他に対する思いやりとやさしさという慈悲の心。

普段の生活で、

ありがとう、

おいしかった、

と誰かをほめれば、仏の口になり、

心の中で誰かに合掌礼拝すれば、仏の身体になる。 


雲のような煩悩の根本は、

無始の間隔(けんきゃく)である。
 
人と仏を間隔(わか)つ微細の迷い


このために人は苦しむ。
 
しかし、

「三世の諸佛ことごとく中において現じ、本尊の身を証して普賢の一切の行願を満足す」
(『菩提心論』)

とあるように、

月に坐れば、

私の中に一切三世十方が映り、一切が入る。

自と他の間にはしきりが無くなる。



以上は、恩師の講義を僕なりにまとめたもの。


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[ 2018/05/13 06:36 | Comments(0) | 眞天庵仏教塾・密教塾 ]

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