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禅定と三昧
しいたけ出汁に、

しめじ、ちくわぶ、油揚げ、にんじんを煮込み、

うどんを加えて醤油で調え、

頃合いを見て、ゆでたホウレンソウとネギを載せ、

精進の鍋焼きうどん




それはさておき、

彼岸へ渡るカリキュラムには、

布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧

の六波羅蜜がありますが、

その中の禅定は、

心を集中して、安定させること。

毎日の生活で、心を平静に保つこと、

とされ、

英語では、

メディテーション(meditation)

と訳されます。瞑想ですね。


『密教辞典』には、

禅定(dhyāna)は予備修行であり、

三摩地は終局の境地

とあります。


三摩地(サマーディー:samādhi)は新訳で、

旧訳では三昧。

『密教辞典』では、

妄念を離れて、心を一箇所に集中して、動乱せず、寂静安和の状態

この三摩地に住して、三密の修法を行ずると、

煩悩を断ち切って本尊の内証の智慧を如実に体得することができる。


『日英佛教語辞典』には、

 a mental state of concentration and focusing of thought on one object.
The object of concentration can be a physical one a metaphysical principle or a transcendental existence.
 This exercise is usually practiced repeatedly for a long period of time until the practitioner against a concentration of thought in which he realizes some reality-principle or visualize a transcendental object.

とある。


『戒序』では、

五部三部の尊、森羅としてまどかに現じ、

刹塵海滴の仏、忽然として湧出せん。

この三昧に住するを秘密の三摩地となづく。


密教では、

生きる行為とは、自他を救うことであり

なぜ生きているかと云えば、道を求めるためであり、

そのためには、

絶対自由の心を体得する三昧(三摩地)の修行が必要

としています。

この心は本来具有しているのだけれど、

それが隠れているので、

三昧によって顕現させます。

具体的には『菩提心論』などに、

日月輪観、阿字観、三密行、五相成身観が説かれていますが、

禅定を続けて、三昧に至ります。



パタンジャリの『ヨーガ・スートラ』では、


凝念
心を特定の場所に縛り付けること 

静慮
凝念の連続的な延長で、
同一の場所に対象とする想念が一筋にのびてゆくこと 

三昧
静慮が外見上、その思念する客体ばかりになり、自体を無くしてしまったようなとき


とあり、

定義を失し、言亡慮絶(『不動次第』)

延促を須ひずして唯円明のみになる(『無想観』)


のような、

直観(主客未分)、五官不要 な世界。


この状態(悟り)を証と云いますが、

田中先生の

『真言宗における証について』には、

凡人にとっては価値の無い醜や悪や賎や矛盾において、

ついでのように美、善、貴、調和を見る。

したがって、常に歓喜、浄福、自在、光明、経験の中に住するのが覚証である。


とあります。


証と未証を混同しないように、

注意深く勉強しながら行なうべきですが、

いづれにしても、

禅定は心を静め、

三昧は悟りを体験する

ということ。



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[ 2018/03/02 11:57 | Comments(0) | 眞天庵仏教塾・密教塾 ]

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