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[ 2024/12/22 11:43 | ]
9、縁起と六大
縁起は、仏教の基本的な思想のひとつですが、

「原因に縁って結果が起きる」ということです。

お釈迦さまが、人生の苦しみをよくよく考えた時に、

「此れ(煩悩)があれば彼れ(苦しみ)があり、此れがなければ彼れがない、

此れが生ずれば彼れが生じ、此れが滅すれば彼れが滅す」

のように「煩悩」と「苦」の因果関係を説明したのが縁起の基本です。

その後、大乗仏教では、

目に見えるものも、見えない真実真理のようなものもすべて
相互依存性によって生じる、

という立場になります。

つまり、あらゆるものは(感情も意識も)何かに依存して起こる。

何にも依存しないで生じるものな無い。

「長いもの」は「短いもの」があるから存在し、

「種子」と「芽」、「悟り」と「迷い」も、

お互いに依存しあっている、どちらかのみ生じることは無い。

右があるから左があり、右だけでは存在しない。


この縁起、

時間的には

これ生ずるが故にかれ生ず

これ滅するが故にかれ滅す

と表され、


空間的論理的には

これあればかれあり

これなければかれなし

と表されます。


空の理論を大成した龍樹(ナーガールジュナ)は、

過去・現在・未来の時間や原因が結果を生むという因果性さえも、相依性(縁起)として解釈します。

過去に依存しなければ、現在と未来の成立することはあり得ない。

それ故に現在の時と未来の時とは自立的に存在しない。

過去がなければ現在や未来はなく、現在がなければ過去や未来もなく、未来がなければ過去や現在もない。

つまり、過去・現在・未来は相互依存している、

というわけです。

お釈迦さまのさとりとは、

この縁起の法則を知り、それによって無常、無我、空を体得したことです。

あるものが他のものとの関係において成立する

それ自体独立した性質のものとして存在しないのだから、それという実体は無い。

だって、それがなければ存在できないのだから。

あなたがあるから僕がいる

つまり、あなたがいなければ僕はいない。

ならば、僕というものは、あなた無しでは、僕一人だけでは存在しない。


また、 仏教には阿頼耶識縁起という思想もあります。

私たちは眼、耳、鼻、舌、皮膚によって、視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚を使い、見て、聞いて、嗅いで、触っていろいろなことを観じます。

それは意識を作り、また意識によって作られます。

その意識は自我によって生み出され(人によって見たものがきれいとかそうでもないとか違いますから、それを決めているのは自我です)

その自我は阿頼耶識から生みだされます。

そこは、全くフォーマットされていないDVDのようなもので、何かが入ってくるたびに録画録音され、何かの縁で再生されます。

焼き肉屋さんに入ると服が肉臭くなるように、五感が何かに触れるたびに、阿頼耶識には何かが香りづけられ、それがまた、何かの言動として生まれます。


その阿頼耶識が自我や意識を生み出し、それによって、見る聞くなどの感覚も生まれる

阿頼耶識の中に蓄えられているものが一切を生み出す。

阿頼耶識によってすべてのものが生み出される、という阿頼耶識縁起。



密教では

地 水 火 風 空 識の六大によってあらゆるものが生じたり滅したりすると考えています。


大はサンスクリット語マハーブータの訳語

粗大な原質、という意味です。

古代インドでは宇宙の構成要素として地 水 火を説き、

古典的インド唯物論では地水火風を説きました。

大乗仏教になると物質の場としての宇宙空間=空を加えて五大としました。

地大:大地のように固く、一切を生み出すもの
水大:水のように流れ、一切の熱悩を取り去るもの
火大:火のように明るさと熱があり、無知の煩悩迷いを焼くもの
風大:風のように吹き流れ、迷いの塵を吹き飛ばすもの
空大:空のように障りが無く広がり、一切の執着や差別から離れているもの

そして、それを悟るのが識大

この六つであらゆるものが作られています。

この六大は、たがいに入り混じって無礙、しかもつねに統一されています。

六大とは、物理的・生理的に把握されるものの本性であるのみならず、真実の世界における実体でもあります。


だから、

仏も我も、好きな人も嫌いな人も、魔物も怪物も、煩悩も悟りも、みな同じ六大から生まれる。

六大が無ければそれらも無い。

六大は、それらの中にあって、僕の中の六大と仏の六大は交流しています。あなたの六大と宇宙の六大も交流している。

呼吸の息や、そこに含まれる酸素や炭素と同じように。

野菜に含まれるナトリウムやカリウムと同じように。



故に、六大はすべてのものの本体。

どこにでもある。

だから、すべて平等、差別無し。



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[ 2015/03/20 05:49 | Comments(0) | 眞天庵仏教塾・密教塾 ]

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