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「祈る」と「思う」
大根の花が咲いてしまって、早く収穫しないとスが入ってしまう。

なので、花を摘んで根を掘って、

湯葉と炊き合わせ。




こちらは、さらした新玉ねぎに載せた焼き湯葉




それはさておき、

ブログの読者から、

「祈る」と「思う」ことは違うのか?

「無明」と「盲目」は違うのか?

という質問がありまして。


祈りは、

神仏に請い願うこと。時には儀式や作法を伴う。 

それに対して、

わが子は元気だろうか、友だちはできただろうか、将来は何になるのだろうか、

あの時、もっと優しくすればよかった、あんなこと言わなければ良かった。

なんていろいろ思うことは、祈りとは少し違うようですね。


人はいろいろなことを思うことで、悩み不安になることがあるけれど、

わが子が健康であるように、愉しい人生を送れるように、

神仏に祈れば、その悩み不安は軽くなる。 

なぜかと言えば、

祈る相手が大きいから、受け止めてくれるだろうから。


さらに、

祈ることで、その実現のために努力工夫しますから、

自然とそれを妨げるものから離れるようになります。

そうして、願いが叶う。 

「思う」だけなら、

自分でストーリーを創作妄想するだけになってしまいがちですね。

祈りには利他の心、慈悲がある。



無明(むみょう)は前回書いたように、サンスクリット語アヴドゥヤー(avidya)の訳語で、

迷いのこと。智慧の光に照らされていない暗闇。明るくないから無明。

根源的な無知で、ここからあらゆる煩悩迷い苦しみが生じます。

なぜなら、

智慧が無いと(勉強と修行が足りないと)実際には無いものを有ると考えるので、

実際には無い、と気がついた時に、手に入らない時に、思い通りにならない時に、

執着という苦しみが生じます。


盲目は

①目が見えないこと

②物事の分別のつかないこと。盲目の恋、なんてね。


無明と②の盲目は、真実が見えていない、という点で似ていますね。

無明から煩悩と苦しみが発生し、

恋に盲目のような盲目からは、

錯覚と妄想が起こるかもしれない。見ない、見えないから、自分勝手に想像するでしょうから。

それを避けるためには、勉強練習すればいい。


ラーマクリシュナは、

目に見えるすべての人もモノも神に見えたらしい。

だから、いつも何に対しても礼拝し感謝し、

神に抱きしめられていた。
(詳しくは『ラーマクリシュナの福音』日本ヴェーダーンタ協会)


それほどの盲目なら、僕もそうなりたい。



無明は、

ただ性と食に対する欲望をもって生きているだけにすぎない、迷いの世界。

殺、盗、邪淫などの不善を作り、貪り、怒り、無知の煩悩、我と我の身体に執著する渇愛、財欲・色欲・飲食欲・名誉欲・睡眠欲に溺れる。

その結果、

地獄、餓鬼、畜生の心になる。

自己のみを知って他のことが眼中にない。


②の盲目は、

愚かな少年が、節食して他の者におのれの食物を施すように、施しなどの倫理的な心が生まれ、

自他共存の工夫がつまれるけれど、

それは自分と自分好みの範囲に限定される、自我の塊。 

要は、

こだわらない、比べない

なぜなら、すべては変化しているから、こだわる対象もこだわる自己もすぐにうつろう。

変化しているものを比べても何の意味も無い。

そして、十分に努力した上で諦めるとよろしい。


____________________________


最勝の妙慧を直感し、大日如来の智慧そのものになること。

三密瑜伽によって宇宙大の一心が円現すること。

行者の苦悩はここにおさまる。

しかし、そこは単なる寂や静ではない。

同時に人を生かし人を奮い立たせる活動の起こるところ。つまり寂にして照である。

智慧と慈悲は一切の制限を捨てて無限となる。(『三昧耶戒序の理解』田中千秋)


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[ 2016/05/25 12:27 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]

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