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どこからどこへ


二階ベランダ上のつらら


それはさておき、

ある寺の境内にあるトイレを掃除したら、

和式トイレの便器後方に汚れが多かった。

ポジションがまちがっている。

最近は和式が少ないから、

予想できないのかもしれない。


小学校6年の修学旅行で、

鎌倉の旅館に泊まり、

生まれて初めて洋式トイレに入った。

うまく出なかったような、すっきりしないような気がした覚えがある。


糞土研究会から機関紙『ノブソフィア』が届いた。
http://nogusophia.com/

人が自然に返せるのはウンコだけ

という思想に共感しているのだけれど、

野糞はあまりしていない。

小さいほうは裏の山ですませるけれど。


いずれにしても、

トイレでした後は水で流して終わり。その先は気にしていない。

ウンコは他の汚水や雨水と一緒に下水を通って処理場へ。

いろいろ処理されて高度処理水として川や海へ。

汚泥は埋立や肥料やコンクリート製剤になる。

野糞をしたほうが、はるかに有意義であることは確かである。


普段、食べているものも、

それがどこからどのようにやってきたのかを、

気にしていない人も多いだろうな。

時々、

山で採り、畑で抜き、海で釣るくらいである。


何処から来て、何処へ行くのかを気にすることは、

いろいろな面で重要である。


20数年前、

人間は(僕は)どこから来て、どこへいくのだろうか、

つまり、

なぜ生まれて、なぜ死ぬのだろうか、

と、埼玉県S寺の住職にたずねたら、

そんなこともわからないのか、

と一喝された。

そして僕に、

「死にかた」を教えてくれた。

震災の前年、

その住職が遷化された。教えてくれた「死にかた」通りで感動した。


『秘蔵宝鑰巻上 』にあるのは、

「心驕れる者は己の総てが正しいと思い、

聖智無き者は正しくものを見ることができない

何度も生まれ変わりながら、何処より生まれ来た自分かを知らず

生まれては必ず死んでいながら、死の意味を知ることができない

おろかなる者は、悪の誘いは気持ちよく心に響いて日毎夜毎に犯し

心を浄め高める道は耳に逆ろうて受け入れようとせず

人を謗り真理を謗って

仏と成る種を焼き切っていることに気がつかない

迷いを断ち切って、別の世界が開けてくるのではない、

心の本質に立ち帰るだけである

霧を透かして光を見たら

そこには七宝ともまがう無尽の光彩があるではないか

(それに気がつかない)人間というものは、

何処より来たかを見ることが出来ず、さてその行く先を知ることのできないものである」






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[ 2018/01/28 15:02 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]

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