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内外の仏
宗教には

聖なるもの、大いなるものが自分の外側にあり、

我らはそれに包まれて、そのお蔭や力添えを受けているとする思想と、


聖なるもの、大いなるものは自分の内側にあり、

それを開発発展させることを目的とする、

ふたつがある。

 

仏教はその両方の要素があり、

浄土教は比較的前者の要素が多く、

禅は後者に重きがあり、

密教はその両方を持っている、

と僕は理解している。



自分の中にあるものを、

自分の力だけでもぎとろうとすると、

それができたとしても、傲慢や慢心が伴う可能性がある。

自力に頼りすぎると、

いざというときに、自分が役に立たなくなることがある。



ご先祖さまなども同じように、

自分の外側にいるというような理解もあり、

自分の内側にある、という考えかたもある。

どちらでも、その人の資質によってで良いけれど。



大地海植物動物鉱物大気などがまとまって地球がある。

地球という蔵の中にそれら総てがある。

同じように、

骨筋肉血液などがまとまって我があり、

我れという家の中にそれらが住んでいる。


どちらにしても、

それらは自分の脳が考え、思っていることだから、

考えること、思うことをやめれば生滅する。無いと同じである。

地球や我が現実にあるとしても、

それは脳がなければ認識できないのだから。


いずれにしても、考えているならば、
 
地球も我も宇宙も、

同じ蔵にあるということで、

それが法界。

密教では 我即法界と云う。

法界にはいろいろなもの総てがあるから、

どれをとってみても法界の一部である。

地球という法界があり、その中に我れという法界がある。


だから、

そこにあるものはなんでも法界の象徴であり、

そういうものを一つのイメージとしたのが仏である。


ということは、

好悪善悪どれにも、

あらゆる性質あらゆる機能がそこにあり、

区別がないということであり、

それが身にしみていることを、悟りと云う。


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[ 2018/09/16 10:03 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]

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