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[ 2024/04/19 01:17 | ]
智の視点
5年ほど前、次男が得度するために高野山へ上る途中、大阪の叔母宅に一泊。

夕飯に出してくれたのが、叔母さんが作ったナムル。ニンニクが良く効いていた。

息子はそれでごはん、僕は晩酌。

ナムルを作る度にあの晩を思い出します。

食べ物は思い出とともに、その味が記憶に残っていることが多い。


先日は横浜クリハラさん宅でナムル。



タケノコは下処理してごま油で炒める。

小松菜は塩ゆで

モヤシも塩ゆで

人参は塩蒸し

シメジは醤油蒸し

タレは白ゴマ、ごま油、リンゴ酢、醤油、コショウ。

ごく普通ですね。



みかんジュースを葛で調え、イチゴと甘夏を軽く固めたものを添えました。

十数年前、山形・最上三十三観音霊場を巡礼していた時、もう一歩も踏み出せないくらい疲れて道路際に立っていたら、通りかかったおじさんがみかんジュースをくれて、

それが甘露のようにおいしかったことも思い出す。



それはさておき、


僕らの業界では、智慧と慈悲という二つの大きな修行と勉強のカリキュラムがあります。


智慧とは何か。

あらゆるものの本性はみな自分の心に由っている。

悲しいのも、つらいのも、自分の心が発信場所である。

それらはみな幻のようであり

空想世界の化城のようであり

谷に響く音のようである。

僕らがするべきことは、自分の心を観察することである

しかし、自分の心はなかなか見えない


そこで、諸仏が言います。

心の姿を見ることは難しい

それは、霧に包まれた月のようである。

しかし、

心の源低にあるものは、本来何ものにもおかされず清浄なものであり、

福徳と智慧がある、と気づけば、

自分の心は満月のように光り輝く。

だから、清らかな満月を観想して悟りを求める心を起こすのだ。

そして、それは、堅固なもの。


仏教の智慧は「知ること」と「為すこと」がひとつになっているものです。


その人のために何を為すのか。

自己本位的な救済ではなくて、

自分の思いが衆生の思いであると、つい思い込んでしまう危険性を排除して、

そうして気をつけていれば

智慧が自信と勇気をもたらし、

それによって慈悲をもたらす行いができます。


知識が豊富ならさまざまな事象に対応できるように、

智慧があれば、迷いが悟りに変わります。

智慧があれば道理が分かるので、許すことができる。

だから、イライラすることもなく、忍耐強くなる。


智慧があればあらゆるものの本性を知り

万象を鏡のように映しだし

差別を離れ

だれもの言動を理解できるから、

執着から離れ、平等にものを見ることができます。


平等と分かれば、大きな慈悲が身につく。 


僕らは理想に近づくために工夫します。

例えば

食事を工夫して、むやみに食べ散らかさない。

挨拶をする

靴を揃える

嘘をつかない

決して怒らない

愚痴を言わない

慢心しない

貪らない

など、できそうなことをやってみます。

そうして修行生活に入る。誰でもどんな生活でも修行と言えます。

その行自体が智慧の実践場所になり、そこから大きな慈悲が生まれます。


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[ 2014/05/16 08:50 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]

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