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智慧と慈悲の問題点
智慧と慈悲が仏教の基本ですが、よくよく考えると、このふたつは両立できないかもしれない。

智慧とは、

「私」と「私のもの」に対する執着を離れることで、「無我」を悟り、ひいては「空」を体得することなのですが、

細かいことは難しいので、ごくごく大雑把に言うと、

「事実とそうでないことを見極める」こと。


ご飯を食べる、は事実、

おいしいとかまずいと感じるのは妄想か錯覚(普遍的な事実ではない)。

電車が走るのは事実、

それがカッコ良いとか、早いとか遅いとか感じるのは妄想(絶対的な事実ではない)。

喧嘩をしたのは事実、

相手が悪く自分は正しいと思うのは妄想(その逆も、固定的な事実ではない)

病気になったのは事実、

楽観的になるのも悲観的になるのも妄想。

ご飯も電車も喧嘩も病気も「空」である、という議論はここでは仕舞っておきます。

とにかく、

 事実には、そうでないものにある悩み迷い不安が無いので、その二つを冷静に見極めれば、心が平安になります。

でも、

目の前に苦しんでいる人がいる。これは事実。

その人を気の毒に思い、苦しみを抜き、楽を与えたい

と思うのは妄想だろうか。

慈悲は世界の存在性にも、悟りそのものにもその根拠を有しません。

ただの感情です。

実在的ではなく、実存的な選択されるもの。

ですからこの時、

苦しんでいる人を前にして、慈悲を選択するかどうかは重要な問題になります。

そしておそらく、

慈悲を選ばないなら、智慧に酔うだけで、人間的な愛情を断念する人生になるでしょう。

そうなると、

智慧による悟りは得られないのだろうか。


参考になる答えが華厳経と十住心論にあります。

『華厳経』「十地品」には、

菩薩が踏み行なうべき十段階の修行が示され、

最初から六番目までは智慧の修行が説かれ、

七番目から十番目までに慈悲行が説かれています。


『十住心論』では、

人間の心を十段階に分け、

性と食にしか興味が無い段階から始まり、道徳や倫理を知り、

智慧の修行をするようになり、六番目からは慈悲を大切にします。


つまり、

智慧があって慈悲がある。


真言密教では、人生は自分の心を知る過程、と考えていますが、

その目的である悟りの智慧の原因は、人としての向上心であり、

悟りの存在根拠は慈悲であり、

この悟り(智慧)が存続することの究極の目的は、他を助けること

と『大日経』に書かれています。

自分の心を冷静に省察し、他に対する慈悲の働きかけを通して悟りに達する。


そして、

世の中は慈悲によって存続されます。



僕らの心は、

元々は何も録音されていないDVDのようなもので、

そこにおいしいとか正しいとかカッコ良いとか悪いとかが、生きているうちに録音録画されます。それが何かのタイミングで再生される。

それを智慧によってイニシャライズして、

慈悲を録画録音して生きる。


何か行き詰まりがあった時も同じ。

錯覚妄想を消去して白紙に戻し、
 
慈悲の思いだけを書きこむ。

そうすれば、いつでもどこでも優しい平安が訪れる。


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[ 2016/07/27 18:19 | Comments(2) | 米ぞうの家 ]
1. posted by お名前  2016/07/27 19:50
慈悲は、忍耐だとおもいます。
2. posted by 米ぞう  2016/07/30 17:44
慈悲は他の苦しみを抜き(ともに苦しみ)、楽を与えることですが、

ダライ・ラマ猊下は、

私たちが慈悲の心の実践をしていくときに、まずその結果は、実践しているその人自身にまず起きています。
~中略~
相手がどのように受けとろうとも、相手のためを思って、真摯な気持ちで相手を助けたいと話す時に、

その慈悲の実践が本物の慈悲の行いになります。

その結果、自分の心の中で本物の慈悲の心が高まったことにより、自分自身が心の平和を得ることで、自分自身がその恩恵をまず第一に受けます。


本物の慈悲は、

偏見を持たない、見返りを期待しないもので、

行為をなす人と行為を分類します。

悪い行為は許さない、

でも、

間違った行為をした人に対して慈悲の心を失ってはならない、と。

(2011年11月、福島県郡山市 日大工学部での講演)


母親が子に対する思いを、他にするようなもの、と考えています。


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