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月に坐る
大暑の今日は旧六月朔、新月ですね。


『菩提心論』に「月の十六分」段があります。

「すべての生物無生物の心の中には、

一分(ごくわずか)の清らかな性質がある。

この一分がだんだん発展すれば円満な月の形になる。

だから、

その初めの一分の中に、既に自分の悟りと他人を救う道が備わっている。

月のように、もし太陽と出会った晦日には、その日光のために明るさが現れないけれど、

新しい月の一日から日々に光を加え、十五日に至って円満で迷いの無いものとなる」

 

月が雲に隠れることがあるように、

光り輝く心も、迷い悩み怒り貪り慢心などで隠れています。

これは、

心は本来生まれつき清浄である、

という自性清浄の立場(仏教すべてがそうでは無い)ですが、

それは、現実には汚れている、ということです。

で、

その汚れを取り除こうとするのか、雲を払って月を見ようとするのか。

煩悩を取り除くのはとてもむずかしい。

それよりも、

煩悩の向こう側にある光を見ることは比較的簡単です。煩悩迷いはどうでもいい。

だから、

雲(煩悩)に関心を持つのではなく、

その向こうにある月(光り輝く心)に興味を持てばよい。

 
恩師・田中先生は、
 
密教は月を見るより、月に坐る教えである、

と云っていました。

 

月(僕らが本来持っている仏の性質)に坐る

そうすれば雲(煩悩)は邪魔にならない。



そのために、

僕らには仏性があるという希望を持つ、

それが現れなくても投げ出さない。

そして、

相手の仏性をも信じる。


 

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[ 2017/07/23 16:11 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]

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