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死に際のしあわせ
鎌倉時代の解脱上人貞慶『臨終用意事』に、死に際の工夫が書かれています。 

それは、

病室には有縁の仏さまをまつり、沈香などを焚き、執着の原因になるような資材を近づけぬこと。

病人の心に違いたる人、酒に酔った人、魚鳥・ニラ・ニンニク・などを食した人を近づけぬこと。

平生より臨終正念を願うことが大事。臨終に心が乱れていたら必ず悪道に入るから。 


これを田中千秋先生は、

枕頭の雰囲気を静かでまじりもののない宗教的なものに統一することが大切

と『真言密教の常識』(朱鷺書房)に書いています。


たとえば、天界や人間界の人が地獄や餓鬼道に行くのは、生前の行いの結果

というのが因果の法則通りですが、 

それよりも臨終の時の執着が外的障害を呼び込む

と考えられていることは今でもあります。


その執着とは、

妻子眷属財産などを失いたくない。

まだ死にたくない。

死んだとしても、また今と同じ世界に生まれ変わりたい。

という執着。


それらから離れるように工夫するのが家族友人の役目なのでしょう。

お大師さんの『設三七斎願文』には、

花の散るように肉体は死滅するが、心は香しく残る。

とありますが、そのほかに故人の法要を営んだ際の願文などが『性霊集』に28文載っています。


それらはすべて、

「伏して願わくは、此の法力を以て、先霊を開悟せしめん
故人の霊が仏法の力によって悟りを開くこと」
(「前の清丹州の亡妻の為の噠噺」

などのように、故人が悟ることを拝んでいます。



真言密教は、すべての存在に仏の性質がある

だれもかれも、植物や石ころも、悟りの可能性を持っている

という立場ですから、当然、死者の霊(魂)も悟る可能性があり、仏になれるはずです。

だから、僕らがさとり(しあわせ)を追求するように、霊魂も悟れるように、幸せになれるように拝む。

死者の霊の本質は仏性そのもの。

そして、

故人や仏はどこにいるのか。

自分の身体の中におられる。

法を悟るものは誰か、故人を幸せにするのはだれか。

我が心である。
(『供三宝願文』)

ということなんだと、僕も考えています。







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[ 2014/12/06 20:38 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]

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