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話せば罪障消滅
落語の『地獄八景亡者戯』にこんな話があります。


幇間の一八(いっぱち)は、

地獄へ行く道中、若旦那と思い出話をしているうちに、

娑婆で若旦那のお金をごまかしたことがばれてしまう。

若旦那は、
 
もうええ、オマエだけ罪人として地獄へ落とすのはしのびない、
 
閻魔さんの前でこれがバレたらえらいことになるがな。

みんなオマエに改めてくれてやる。

しかし、これでいいねん、

懺悔といって、しゃべってしまう

とその身の罪は滅びるとされている。

すると一八は、

そうでっか、

では、もうひとつ、と言って、

カメラや時計を盗んだことも告白する。


懺悔、歴史的には「さんげ」と読みます。

仏前で告白して許しを乞うこと。

サンスクリット語デーシャナー deśanā の訳語。 


仏教の修法の目的は滅罪と悟りで、

菩提のために滅罪を祈る。

先ず滅罪のために懺悔します。生きることは罪を重ねることだから。


ポピュラーなのが「懺悔文」で、これは『華厳経』普賢行願品の一節。

我昔所造諸悪業 皆由無始貪瞋癡 従身語意之所生 一切我今皆懺悔

(昔より造り続けてきた諸々の悪業は、

 貪りと怒りと無知によるもの

 この身、この口、この心から生じるそれらを

 すべて懺悔します)



真言宗の修法では、五悔とか唱礼と呼ばれるものを必ず読誦します。

その二段目が「至心懺悔」という懺悔の文。

無始輪廻諸有中 身口意業所生罪 如佛菩薩所懺悔 我今陳懺亦如是

(今までの罪業を、諸仏菩薩とともに懺悔します)

これも『華厳経』 「普賢行願品」 に説かれる普賢菩薩の十種の大願のひとつですが、

これらを唱えれば懺悔したことになり、罪は滅ぶ。

 
唱えるだけではダメだ、
 
というわけではない。

仏に礼拝して懺悔するから、その姿勢・心が滅罪になります。

そうしなければそうならない。

だから、

唱えなければ、しゃべらなければ、

黙って隠しておけば、

罪は滅びない。

この懺悔は浄菩提心(本来僕らが持っている清らかな心の証)だから。


ですから、

懺悔することで、仏に近づく、

自ら救われ、仏の福智の善根功徳を

心から喜ぶようになります 。

つまり、

謝ることで最大の恩恵を受けるのは自分自身です。


社会の法律は守るべきで、破れば罰がある。

法律外のことは、

自分で懺悔する。 

そこでは、

気がつかないことが罰であり、

懺悔できるのが功徳。

 

友だちのために特区でごまかして便宜を図ったり

ご意向忖度圧力を意図したりしても、

懺悔すればその罪は何とかなるでしょう。

云わないから、その罪は滅びない。


仏前に懺悔文を唱える(仏に懺悔する)ことと、

自分の側にいる人に謝ることは、

同じことです。その人も仏の現われですから。

あの時ウソをついた

インチキをしてしまった

つい間違えてしまた

と言えばいいだけ。云えないことが多いけれど。


『大日経開題』には、
 
懺悔の力をもって速やかに不善の網を絶ち、諸人授戒の功徳をもって
早く菩提の路に趣かん

懺悔によって、

修行する気持ちが起きる、という広大な功徳を成就する

ということです。



ごめんさい、には、

ずいぶんと力がある。


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[ 2017/11/02 07:44 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]

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