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[ 2024/03/29 21:38 | ]
量子コンピュータと阿字本不生
先日ラジオで、

国立情報学研究所・根本香絵准教授が量子コンピューターの話をしていました。

量子コンピュータは、現在のそれよりもはるかに高い演算能力があり、ものすごく小さく作ることができるらしい。


科学も思想も、結果には原因が有る、という基本で発展してきました。

そして、存在を分析すれば、

元素、素粒子、クォーク、レプトン・・・、と微小な粒子を仮定して、

最終的に宇宙を必ず完璧に説明できる構成単位がある

と考えました。

いちばん基本、根本となるものがあるはず。



でも、相対性理論や量子論で変わります。

例えば、

海という物質の中で、波という状態が起こります。

原子より大きい世界では、このように「物質」と「状態」を区別できますが、

原子より小さい世界では、その区分ができず、「物質」の無い「状態」になります。

そこで、

物質の性質と状態の性質を併せ持つ存在が「量子」。

なので、

量子の世界では

結果には原因がある

のではなく、

結果と原因が同一になります。

煩悩を滅して悟りになるのではなく、煩悩即菩提

長い期間修行して悟るのではなく、心を発した時にたちまちに悟りを得る
(初発心時、便成正覚)

ともかく、

量子はモノではなく状態、と考えます。

人も世界も、モノではなく状態。


仏教では、

苦しみとは何か、幸せとは何か、と考え、

それを取り除き、幸せになる方法は

八正道、六波羅蜜、三摩地

という修行による、としてきました。 


仏教は世界の創造を説きません。当然、創造主もいない。

すべてのものは縁によって生じ、縁によって滅す、という縁起説の立場です。

となると、

苦しみや幸せの発生には必ず原因がある。

いかなるものも無からは生じないのだから、その原因にもまたその原因がある。

では原初の原因は何か。創造主などいないのだから自然に生じたのではない。

最初の最初の原因は、どうして何から生じたのか。


世界も私も、

地・水・火・風の四大(密教では空と識を加えて六大)でできている、

というのが古くからのインド思想です。

では、その四大は何でできているのか 。

それは

「極微」というものである

と考えるグループもありました。

すべての物は、この極微の組み合わせで出来ている、と。

原子論と似ています。素粒子やニュートリノのようなものですね。

極微が8個集結したものが微塵です。

これは見ることも触ることもできない原子の世界。


密教では違う考えかたをします。

「あらゆるものは必ず多くの原因から生じているから、

すべてのものには始めとか、その生ずる本となるものがある。

これをさらに観察すると、その原因の原因があることになる。

ところが、このように遡及していったとしても、最終的に根本原因を見出すことはできない」

とお大師さんの『吽字義』にあります。


だから、

それは「生じた」のではない。

生じたのでなければ、なぜ、あるのか。

生じたとか生じないとかを問えない以前の状態がある。

それを「本不生(ほんぶしょう)」といいます。

本来不生不滅なもの。



梵字の最初の文字はア



 

アがあるから、イやウやエやオがある。

そこから、カとかサとかパとかマが生まれる。

すべての音の基礎であるから、万物の根源の象徴となります。

サンスクリット語で本初を意味する「アーディ」の「ア」でもある。

で、

それら万物の根源を「阿字本不生」といいます。

それは存在そのもの、宇宙そのもののはずです。



つまり、量子論が示しているのは、密教の本不生と同じ

と僕は考えています。


それを、

瞑想修行によって体験的に悟るか、

研究と実験によって得るのか

という違いがあるけれど。



いずれにしても、世界も僕も現実に存在しています。

それはどういうことなのか、


を宗教も科学も知りたいのですね。

もちろん、僕もそれを一番知りたい。



※参考

『別行次第秘記』(通用字輪観)浄厳

 一切の諸法の因縁生の義(顕教の至極なり)を尋ね極むる時は自ずから本不生の義を知るなり。その故は一切諸法は因縁より生ぜざるものなきが故に。
縁より生ずるものはことごとく皆、始あり、本あり。
今この能生の縁を究むるに、また因縁より生ず。
かくの如く展転して縁に依るが故に、最初生起の法のために縁と成る法は、縁に依るや依らざるや。もし最初の一法は縁によらずといわば、既に諸法は従縁生なりという。
何ぞ縁に依らざる一法あらん。
もしまた縁に依るといわば、これより始めに一法もなし。何れの縁にか依るべきや。
かくのごとく推尋する時は因縁生の義、破壊して成ぜず。
もし、因縁生の義理、実にあらずといわば、彼の最初の一法は自然生なりとやせん。もし、自然生なりといわば、外道の自然の計に堕すべし。
因縁生にもあらず、自然生にもあらずんば、果たして如何と推し究むる時に、即ち本不生際を知るなり。
いわゆる本不生の義とは、一切諸法は本来、本有にして(これ自然生にあらざる義)、諸の因縁より生ずるにあらず(これ縁生にあらざる義)。また始めあるにもあらず、終わりあるにもあらず、有佛無佛に性も相も常爾なりと知るを本不生を知るとはいうなり。またこれを如実知自心ともいうなり。


『声字実相義』(極微の仮実)、

極微が積集して成立するようなことはない。それは造色が自らの種子から生起するとき、ただいろいろの種子が聚集して生じ、あるいは細かいもの、あるいは中なるもの、あるいは大なるものなどがあるけれども、これは極微が集まって色聚をなすということはないのである。

ただ覚りの智慧により、もろもろの色を分析し、その極限にいたりたるとき、その極量の辺際を分別し仮立して極微とするけれども、それは仮立に過ぎずして実在するものではないのである。
また、色聚に上下四方とか、分かつべき分限とかの方分ありとすると、極微にもまた方分有るべきやと言うに、極微には色聚と等しく、上下四方の「方」はあるべきも、「分」はないとするのである。
元来、色聚を分析して分かつことのできない極限の分を極微というのであるから、それは色聚の有する一属性に過ぎない。もし極微に「分」ありとせば、極微にさらに分かつべき余の極微あることになり、きわまるところを知らないことになる。そこで極微には分相はないというのである。

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[ 2016/02/08 09:00 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]

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