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共に拝む
4月14日、

信州飯田市立石寺春の大祭で大般若祈祷会。

拝んだ後、経典で参列者にお加持をする。

これは、

共に拝む行為である。


経典を唱えたりパラパラとめくったりしても、

般若の教え、空を理解することはできない。

あらゆる存在に自性は無い、

現実にあるのは仮の存在であり、

それらは、常住断滅どちらにもかたよらない中道である。

法要でそれを体得できるのだろうか。


加持とは、

「如来の大悲と衆生の信心とをあらわす」

と『即身成仏義』にある。

宇宙の慈悲を修行によって受けること。

仏の慈悲を信仰心がうけとめること

この加持が成立するのは、

仏と衆生が本来不二だからである。

衆生の身体、言葉、心が、

仏のそれと加持する。

つまり、

加持は即身成仏の実現である。

この 加持をきっかけにして、衆生は仏の世界に入る。

加持は、

あるがままで飾らずに仏(宇宙法界、自分以外のすべて)と接すること。



翌朝、

本堂で行法をしていたら、

蟇股から羽のある生き物が出てきた。

コウモリか、ムササビか。

この田舎の古い穴だらけのお堂には、

いろいろな生き物がいるようである。

彼らと共に拝む。



有情無情が飛び回る、

香煙が揺れる。

なぜか、

心が飛び回り、揺れているから。


午後は下條村藤本院のお祭。

参加者はそれぞれ自宅から花を持参して供える。


お釈迦さんの涅槃(2月15日が多い)とお花まつり(4月8日が多い)が一緒のお祭りで、

田舎ではこういうことも少なくない。





みんなで拝んだ後は宴席。

コシアブラのテンプラや冬野菜の漬物が並ぶ。



二日後、

柏のマンションで法事。

90歳の喪主さんが、

お経が覚えられなくてねえ、

と言う。

覚えなくてもいいけれど、ただ唱えても意味は無い。 
 
経典とは、

仏が僕らを悟りに導くために説かれたもの。

それを仏に向かって唱えるのは、どういうことだろうか。

唱えるだけなら、それを聴くだけならCDでもいい。

内容を理解し、

信じて行ずるに価するのかどうかを思惟する。

それが無ければ読経に意味は無い。


ただし、

読経そのものに功徳があると信じることで、

自分の行いを正すきっかけには、なるかもしれない。





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[ 2018/04/19 07:57 | Comments(0) | 米ぞうの家 ]

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