仏教思想の特徴を表したもにに四法印(しほういん)があります。
1、諸行無常(しょぎょうむじょう) :すべてのものは常ではなく、変化している。
2、諸法無我(しょほうむが) :すべてのものは、実体がないものである。
3、一切皆苦(いっさいかいく) :すべての作られたものは、苦しみである。
4、涅槃寂静(ねはんじゃくじょう) :涅槃は安らぎである。
このうち3、を除いたものを三法印と言います。
1、諸行無常
お釈迦さまの伝説で、四門出遊(しもんしゅつゆう)というお話があります。
釈迦族の王子さまだったお釈迦さまは、
ある日、お城の東門を出た時、年老いた人に出会い、自分もやがて年をとることを痛感します。
南の門を出た時には病人に出会い、病に苦しむ日が自分にもやがて来ることを思い、
西の門を出た時は死人を見て、自分にも必ず死が訪れることを知ります。
北門を出た時、出家修行者に出会い、その平安で静かな姿に感動します。
お釈迦さまは、人も時間も何もかもが常住ではなく変化していること、つまり無常を知ります。
いつまでも元気で健康でいるわけではない、いつか自分も死ぬ、と。
ですから、
今、この場所で、この身体で、同じ相手がいて、同じ気持ちで、ということは無いわけです。
でもしかし、
無常を知ることで、
今、この状態にこだわり、とらわれることに意味は無い、と理解します。無くなってしまうのだから。
そして、
変わってしまう毎日の自分なのだから、常により良くなるように努力精進しなくてはいけない。
『遺教経』には、
「世はみな無常なり。会うものは必ず離るることあり。まさに勤めて精進して早く解脱を求めよ」
とあります。
僕らはいつも「無常観」を持っています。
あの人はいなくなってしまった。
あの風景はもう見ることはできない。
その時代が懐かしい
などと。
私たちが見たり聞いたり感じたりするすべてのものは、縁と条件によってできたものです。
もしそれらが、変化せず同一であれば、永遠に変化は起きないことになります。
みんな変化している。
空も海も、自分の身体も止まってはいない。成長するものもあれば、壊れていくものもあります。
電気も水も流れ、植物も少しづつ変化しています。
止まっているように見える石ころや紙きれも、少しづつ摩耗したり劣化しています。
心も同じく、好きが嫌いになったり、迷いが悟りにと変化しています。
無常ゆえに病気になったり老いたり死んだり、好きな人と別れたりという苦しみがありますが、無常ゆえの楽しみもあります。
子どもが生まれて成長するのも、お米や大根がおいしくなるのも、
僕の知識が少しづつ智慧になるのも、
諸行無常だからです。
2、諸法無我
あらゆるものが無常なら、あらゆるものは無我です。
変化しているなかで、変化しない自分や「我」など存在しません。
僕の中のどこに「我」があるのでしょうか。
分解してもどこにもない。
ただし、悟るのは、幸せになるのは、また他人を救うのは、身体がある自分ですから、この身体は大切にするべきです。
これこそが「自分だ」というものは存在しません。
だからこそ、
自分や我というのものは、世界や宇宙のすべてとつながった、壮大な錯覚なのです。
自分でないものも無我ですから、その間に仕切りや境目はありません。
3、涅槃寂静
涅槃はサンスクリット語の「ニルヴァーナ parinirvāṇa」の訳語で、火が吹き消された状態のこと。
苦の原因となる煩悩迷いが吹き消された状態=さとり のことです。
そこは静かで穏やか。真の楽があります。
無常と無我を知ることで、心は涅槃寂静になります。
4、一切皆苦
無常で無我なのに、「自分が」とか「自分の身体」とか「自分のもの」などと執着することから苦が生じます。
自分とか我はどこにもありません。
この執着の炎を吹き消せば、心の苦しみは解決できます。
病気でも死でも、好きな人との別れでも、欲しいものが手に入らなくても、無常無我を知れば、それを心が苦や楽として作り出さず、迷いから離れます。
精神的な「苦しみ」は、無常、無我、縁起という智慧の光によって姿を消します。
無常であり無我ですから、「苦」も実体が無いのです。心が作り出している概念にすぎません。
このように、
実際には無いものを有ると考えるのが、迷い・苦で、仏教ではそれを無明(むみょう)と言います。
___________________________________
【修行してみる】
○ 読経
人は心に思ったことを言葉にして、言葉にしたことを行動に移します。
この、身体、言葉、心を三業といい、仏のそれを三密といいます。
密教では、全ては仏を内在していますから、僕らの身体、言葉、心は三密です。
お経を唱える時、
数息観のように、長い息の上にお経の言葉を載せるつもりで唱えてみます。
息つぎに決まりありませんから、自分の息が続くように唱えます。
お経は節をつけず、雨だれのようなリズムで唱えます。
誰かと一緒に唱える時は、耳で唱えます。
気を配りながら一緒に唱える、ということ。
そして、暗記していても経本は手放さないで唱えます。
意味は文字から伝わります。
読経だけでも心が静かになり、功徳をつむことができます。
それは仏の言葉ですから。
1、諸行無常(しょぎょうむじょう) :すべてのものは常ではなく、変化している。
2、諸法無我(しょほうむが) :すべてのものは、実体がないものである。
3、一切皆苦(いっさいかいく) :すべての作られたものは、苦しみである。
4、涅槃寂静(ねはんじゃくじょう) :涅槃は安らぎである。
このうち3、を除いたものを三法印と言います。
1、諸行無常
お釈迦さまの伝説で、四門出遊(しもんしゅつゆう)というお話があります。
釈迦族の王子さまだったお釈迦さまは、
ある日、お城の東門を出た時、年老いた人に出会い、自分もやがて年をとることを痛感します。
南の門を出た時には病人に出会い、病に苦しむ日が自分にもやがて来ることを思い、
西の門を出た時は死人を見て、自分にも必ず死が訪れることを知ります。
北門を出た時、出家修行者に出会い、その平安で静かな姿に感動します。
お釈迦さまは、人も時間も何もかもが常住ではなく変化していること、つまり無常を知ります。
いつまでも元気で健康でいるわけではない、いつか自分も死ぬ、と。
ですから、
今、この場所で、この身体で、同じ相手がいて、同じ気持ちで、ということは無いわけです。
でもしかし、
無常を知ることで、
今、この状態にこだわり、とらわれることに意味は無い、と理解します。無くなってしまうのだから。
そして、
変わってしまう毎日の自分なのだから、常により良くなるように努力精進しなくてはいけない。
『遺教経』には、
「世はみな無常なり。会うものは必ず離るることあり。まさに勤めて精進して早く解脱を求めよ」
とあります。
僕らはいつも「無常観」を持っています。
あの人はいなくなってしまった。
あの風景はもう見ることはできない。
その時代が懐かしい
などと。
私たちが見たり聞いたり感じたりするすべてのものは、縁と条件によってできたものです。
もしそれらが、変化せず同一であれば、永遠に変化は起きないことになります。
みんな変化している。
空も海も、自分の身体も止まってはいない。成長するものもあれば、壊れていくものもあります。
電気も水も流れ、植物も少しづつ変化しています。
止まっているように見える石ころや紙きれも、少しづつ摩耗したり劣化しています。
心も同じく、好きが嫌いになったり、迷いが悟りにと変化しています。
無常ゆえに病気になったり老いたり死んだり、好きな人と別れたりという苦しみがありますが、無常ゆえの楽しみもあります。
子どもが生まれて成長するのも、お米や大根がおいしくなるのも、
僕の知識が少しづつ智慧になるのも、
諸行無常だからです。
2、諸法無我
あらゆるものが無常なら、あらゆるものは無我です。
変化しているなかで、変化しない自分や「我」など存在しません。
僕の中のどこに「我」があるのでしょうか。
分解してもどこにもない。
ただし、悟るのは、幸せになるのは、また他人を救うのは、身体がある自分ですから、この身体は大切にするべきです。
これこそが「自分だ」というものは存在しません。
だからこそ、
自分や我というのものは、世界や宇宙のすべてとつながった、壮大な錯覚なのです。
自分でないものも無我ですから、その間に仕切りや境目はありません。
3、涅槃寂静
涅槃はサンスクリット語の「ニルヴァーナ parinirvāṇa」の訳語で、火が吹き消された状態のこと。
苦の原因となる煩悩迷いが吹き消された状態=さとり のことです。
そこは静かで穏やか。真の楽があります。
無常と無我を知ることで、心は涅槃寂静になります。
4、一切皆苦
無常で無我なのに、「自分が」とか「自分の身体」とか「自分のもの」などと執着することから苦が生じます。
自分とか我はどこにもありません。
この執着の炎を吹き消せば、心の苦しみは解決できます。
病気でも死でも、好きな人との別れでも、欲しいものが手に入らなくても、無常無我を知れば、それを心が苦や楽として作り出さず、迷いから離れます。
精神的な「苦しみ」は、無常、無我、縁起という智慧の光によって姿を消します。
無常であり無我ですから、「苦」も実体が無いのです。心が作り出している概念にすぎません。
このように、
実際には無いものを有ると考えるのが、迷い・苦で、仏教ではそれを無明(むみょう)と言います。
___________________________________
【修行してみる】
○ 読経
人は心に思ったことを言葉にして、言葉にしたことを行動に移します。
この、身体、言葉、心を三業といい、仏のそれを三密といいます。
密教では、全ては仏を内在していますから、僕らの身体、言葉、心は三密です。
お経を唱える時、
数息観のように、長い息の上にお経の言葉を載せるつもりで唱えてみます。
息つぎに決まりありませんから、自分の息が続くように唱えます。
お経は節をつけず、雨だれのようなリズムで唱えます。
誰かと一緒に唱える時は、耳で唱えます。
気を配りながら一緒に唱える、ということ。
そして、暗記していても経本は手放さないで唱えます。
意味は文字から伝わります。
読経だけでも心が静かになり、功徳をつむことができます。
それは仏の言葉ですから。
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遠くの星を見ると、小さくて塵のようにしか見えないように、
宇宙から地球を見れば小さな点のようなもので、
ましてやそこにいる僕なんかノミやシラミにも見えないくらい小さい。
いてもいなくても宇宙から見れば関係ないくらいだろうな。
でも、
ノミやシラミも鳳凰の翼にいれば世界中へ飛んで行けるし、999に乗れば宇宙へも行ける。
そんなことを考えれば、暑さ寒さなどはどうでもよいことだろうな。
寒い冬が続いても、時折暖かい日差しの日中に外を歩けば、穏やかな気持ちになります。
あったかいねえ、
なんて言いながら。
世界中の人が、そんなのんびりした、平安で穏やかな気持ちでいられるようになればいいなあ。
山形から中川吉右衛門さんと千葉陽平さんが栃木までいらしてくれて、いろいろお話を伺いました。
天然農法・自然栽培の若いお百姓さん。お話は実に楽しかった。
事故事件紛争災害特異な病気など、世の中を見ると悲しくつらいことが多く、この先子どもらの将来はどうなるのだろうか、
なんて思うこともありますが、おふたりのような若い人たちがいるなら、日本も世界の大丈夫だな、と安心しました。
中川さんhttp:// kichiem on14th. net/
千葉さんhttp:// tibakic hi.com/
帰宅したらピアニスト・稲垣達也さんからCD『Resonance』が届いていて、さっそく拝聴。
https:/ /www.yo utube.c om/watc h?v=6CH drDPjNE Y
穏やかで平安な気持ちになります。
3月7日東京紀尾井町のコンサートに行く予定です。
http:// www.ina gaki-pi ano.com /
郡山市からホールボディカウンターによる内部被ばく検査申込書が届いて、僕らのようなおっさんも検査してくれるのですね。
この費用も莫大なものなのだろうな。
はたして意味があるのだろうか。
それにつけても、
二度とあのようなことが起こらない、穏やかな日々になるためには、もう少しつましく慈悲深く暮らすべきなんだろうな。
_______________________________
※眞天庵仏教塾・密教塾
「四法印」
http:// shinten an.syoy u.net/% E7%9C%9 E%E5%A4 %A9%E5% BA%B5%E 4%BB%8F %E6%95% 99%E5%A 1%BE%E3 %83%BB% E5%AF%8 6%E6%95 %99%E5% A1%BE/% EF%BC%9 6%E3%80 %81%E5% 9B%9B%E 6%B3%95 %E5%8D% B0
※穀菜食の舎会員ページ
「今年の運勢」
https:/ /groups .google .com/fo rum/?hl =ja#!to pic/shi ntenan/ Ja7qQ_F kczI
「お料理12か月」
2月・日本人の基本
http:// shinten an.syoy u.net/% E6%96%9 9%E7%90 %8612%E 3%81%8B %E6%9C% 88/%EF% BC%91%E 3%80%81 %E6%97% A5%E6%9 C%AC%E4 %BA%BA% E3%81%A E%E5%9F %BA%E6% 9C%AC
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そんなことを考えれば、暑さ寒さなどはどうでもよいことだろうな。
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あったかいねえ、
なんて言いながら。
世界中の人が、そんなのんびりした、平安で穏やかな気持ちでいられるようになればいいなあ。
山形から中川吉右衛門さんと千葉陽平さんが栃木までいらしてくれて、いろいろお話を伺いました。
天然農法・自然栽培の若いお百姓さん。お話は実に楽しかった。
事故事件紛争災害特異な病気など、世の中を見ると悲しくつらいことが多く、この先子どもらの将来はどうなるのだろうか、
なんて思うこともありますが、おふたりのような若い人たちがいるなら、日本も世界の大丈夫だな、と安心しました。
中川さんhttp://
千葉さんhttp://
帰宅したらピアニスト・稲垣達也さんからCD『Resonance』が届いていて、さっそく拝聴。
https:/
穏やかで平安な気持ちになります。
3月7日東京紀尾井町のコンサートに行く予定です。
http://
郡山市からホールボディカウンターによる内部被ばく検査申込書が届いて、僕らのようなおっさんも検査してくれるのですね。
この費用も莫大なものなのだろうな。
はたして意味があるのだろうか。
それにつけても、
二度とあのようなことが起こらない、穏やかな日々になるためには、もう少しつましく慈悲深く暮らすべきなんだろうな。
_______________________________
※眞天庵仏教塾・密教塾
「四法印」
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「今年の運勢」
https:/
「お料理12か月」
2月・日本人の基本
http://
食時作法では
まずご飯をひとくち (悪いことを断ちましょう、と祈りながら)
次にご飯をひとくち (善いことをしましょう、と祈りながら)
また次にご飯をひとくち( 他のためになることをしましょう、と祈りながら)
その次のお汁をひとくち (修行に励みましょう、と祈りながら)
となっていますが、多くの人は、
「いただいます。」
と手を合わせてから、最初のひとくちは味噌汁でしょう。
味噌汁によって胃液の分泌を促してご飯を食べる、
ということを身体が知っているのかもしれない。
ちなみに、アルコールも消化分泌液をたかめ、末梢血管の血行をよくし、組織の代謝をよくするので、まずは一杯飲むのがよろしい、
と言いたい。
ご飯と梅干とたくあんとごま塩
という生活をしていて、
ある日味噌汁が食卓に出た時の感動は忘れられない。
あの味噌汁はうまかった。具はお麩が2,3個浮いているだけだったけれど。
出汁を引く人と、ダシの素を使う人
昆布やシイタケの精進出汁と、魚の出汁
一種類の出汁と、いくつかの出汁を合わせる
具が多いお椀と、少ない汁
ワカメを入れるか入れないか
具を炒めるか、煮るだけか
油揚げは使うか、使わないか
そもそも、
味噌汁と飲む人と、飲まない人
これらで人生は大きく変わります。
ご飯とみそ汁と漬物の毎日に、
ある日がんもどきの煮物がつけられた時の感動は、他に比べるものが無い。
関西では飛竜頭(ひりゅうず、とか、ひろうす、とか)と言いますが、
『豆腐百珍』によれば、本来は豆腐や湯葉で野菜を炒めた餡をくるんで揚げたもの。
(『豆腐百珍』新潮社から)
それが関東に伝わり、面倒くさいからみんな混ぜて丸めて揚げたのではないか、
と僕は考えています。
名前の由来はいろいろな説があるけれど、
すり身を丸めて揚げた「丸(がん)」からではないか、
と僕は考えています。
中身にキクラゲ、銀杏、百合根が入っているものが上品、
と僕は考えています。
がんもどきは、緑黄色野菜と炊き合わせにすると、女性の健康にとてもよろしい。
もし、押しつぶされそうな孤独感や悲しみが心にある時、
温かい味噌汁やがんもどきは、少し役に立ちます。
まずご飯をひとくち (悪いことを断ちましょう、と祈りながら)
次にご飯をひとくち (善いことをしましょう、と祈りながら)
また次にご飯をひとくち( 他のためになることをしましょう、と祈りながら)
その次のお汁をひとくち (修行に励みましょう、と祈りながら)
となっていますが、多くの人は、
「いただいます。」
と手を合わせてから、最初のひとくちは味噌汁でしょう。
味噌汁によって胃液の分泌を促してご飯を食べる、
ということを身体が知っているのかもしれない。
ちなみに、アルコールも消化分泌液をたかめ、末梢血管の血行をよくし、組織の代謝をよくするので、まずは一杯飲むのがよろしい、
と言いたい。
ご飯と梅干とたくあんとごま塩
という生活をしていて、
ある日味噌汁が食卓に出た時の感動は忘れられない。
あの味噌汁はうまかった。具はお麩が2,3個浮いているだけだったけれど。
出汁を引く人と、ダシの素を使う人
昆布やシイタケの精進出汁と、魚の出汁
一種類の出汁と、いくつかの出汁を合わせる
具が多いお椀と、少ない汁
ワカメを入れるか入れないか
具を炒めるか、煮るだけか
油揚げは使うか、使わないか
そもそも、
味噌汁と飲む人と、飲まない人
これらで人生は大きく変わります。
ご飯とみそ汁と漬物の毎日に、
ある日がんもどきの煮物がつけられた時の感動は、他に比べるものが無い。
関西では飛竜頭(ひりゅうず、とか、ひろうす、とか)と言いますが、
『豆腐百珍』によれば、本来は豆腐や湯葉で野菜を炒めた餡をくるんで揚げたもの。
(『豆腐百珍』新潮社から)
それが関東に伝わり、面倒くさいからみんな混ぜて丸めて揚げたのではないか、
と僕は考えています。
名前の由来はいろいろな説があるけれど、
すり身を丸めて揚げた「丸(がん)」からではないか、
と僕は考えています。
中身にキクラゲ、銀杏、百合根が入っているものが上品、
と僕は考えています。
がんもどきは、緑黄色野菜と炊き合わせにすると、女性の健康にとてもよろしい。
もし、押しつぶされそうな孤独感や悲しみが心にある時、
温かい味噌汁やがんもどきは、少し役に立ちます。
震災後の11月
ダライ・ラマ法王が福島に来てくれて、家族と講演を聴きました。
猊下はいつも、
思いやりと優しさを持つことで、最初に恩恵を受けるのは自分自身である。
相手がどうとらえようとも、思いやりと優しさを持つことが、自分の心の平安になるから。
と、慈悲深く生きることの大切さを、いつもお話になります。
この講演はその後、本になりました。
『ダライ・ラマ法王、フクシマで語る 苦しみを乗り越え、困難に打ち勝つ力』(大和出版)
この中で、
愛と慈悲の心の種は、母からもらったものだ 、
と猊下は言います。
両親の愛情に育まれることにより、お互いを尊敬する、敬意をもつという態度が生まれる、と。
母や妻をみて、僕もそう思います。
まあ、それでも、
なかなか慈悲深く暮らせない、というのが僕らの日常です。
毎日不平不満があり、
心の中が何だかもあもあしている
むしゃくしゃしている
ぼーっとしている
いらいらいしている
落ち着かない、許せない、あーぁもうヤダ・・・。
そんな時にちょっと役に立つ方法があります。
・興奮が収まらない時は、
掌を上にして深呼吸。苦いものをしゃぶるといい。
・不安で疑い深く、なんだかもやもやしてる時は、
1時間くらい歩く、肋骨をゴシゴシする。お芋やおむすびをゆっくり食べるといい。
・悲しみや心配ごとが多い時は、
読経が一番いい。歌を歌ったり、鼻をピクピク動かすのもいい。
鎖骨をつまんで身体をひねるのもいい。コーレンを飲むといい。
・憂鬱で何だか怖くて、という時は、
仏教の瞑想がいちばんいい。
入浴して細い息を吐く、耳をひっぱる、腰を温まるまで擦るのもいい。
ホットリンゴジュースを飲むといい。
・短気で怒りっぽくなっている時は、
笑うといいのだけれど、笑えないなら、
頭上に重い座布団を載せて正座するといい。
お腹(特に脇腹)が引っ込むくらいの腹式呼吸をゆっくり3回してから、息を止めるといい。
ホットオレンジジュースを飲むといい。
基本的に諦めることが大切。
あらゆる苦悩はそれに対する執着から生まれます。
だから、執着しない、諦めれば解決する。
でも、諦められないんですね。
なぜかといえば、
・自我の実体的存在にとらわれている。
・あらゆるものは縁起によって成立している現象的なものに過ぎないことを知らない。
から、というのが仏教の立場ですが、
まあ、そんなことはどうでもいいじゃない
最悪でも、それまでで、
それまでのことなんだから。
もし、
自分が最大限の努力精進をしていれば、どのような結果でも諦められるはずですが、
そうでない場合は、そうではない。
『三昧戒序』にあるのは、
怒ったり愚痴ったり貪ったりするのは、自他の間にしきりがあるから。
自他を区別し、自におもく他に軽いところがあるから。
もし、
自他平等の大きな慈悲に生きるなら、一切の悪がほろび、心は清涼寂静となる。
ダライ・ラマ法王が福島に来てくれて、家族と講演を聴きました。
猊下はいつも、
思いやりと優しさを持つことで、最初に恩恵を受けるのは自分自身である。
相手がどうとらえようとも、思いやりと優しさを持つことが、自分の心の平安になるから。
と、慈悲深く生きることの大切さを、いつもお話になります。
この講演はその後、本になりました。
『ダライ・ラマ法王、フクシマで語る 苦しみを乗り越え、困難に打ち勝つ力』(大和出版)
この中で、
愛と慈悲の心の種は、母からもらったものだ 、
と猊下は言います。
両親の愛情に育まれることにより、お互いを尊敬する、敬意をもつという態度が生まれる、と。
母や妻をみて、僕もそう思います。
まあ、それでも、
なかなか慈悲深く暮らせない、というのが僕らの日常です。
毎日不平不満があり、
心の中が何だかもあもあしている
むしゃくしゃしている
ぼーっとしている
いらいらいしている
落ち着かない、許せない、あーぁもうヤダ・・・。
そんな時にちょっと役に立つ方法があります。
・興奮が収まらない時は、
掌を上にして深呼吸。苦いものをしゃぶるといい。
・不安で疑い深く、なんだかもやもやしてる時は、
1時間くらい歩く、肋骨をゴシゴシする。お芋やおむすびをゆっくり食べるといい。
・悲しみや心配ごとが多い時は、
読経が一番いい。歌を歌ったり、鼻をピクピク動かすのもいい。
鎖骨をつまんで身体をひねるのもいい。コーレンを飲むといい。
・憂鬱で何だか怖くて、という時は、
仏教の瞑想がいちばんいい。
入浴して細い息を吐く、耳をひっぱる、腰を温まるまで擦るのもいい。
ホットリンゴジュースを飲むといい。
・短気で怒りっぽくなっている時は、
笑うといいのだけれど、笑えないなら、
頭上に重い座布団を載せて正座するといい。
お腹(特に脇腹)が引っ込むくらいの腹式呼吸をゆっくり3回してから、息を止めるといい。
ホットオレンジジュースを飲むといい。
基本的に諦めることが大切。
あらゆる苦悩はそれに対する執着から生まれます。
だから、執着しない、諦めれば解決する。
でも、諦められないんですね。
なぜかといえば、
・自我の実体的存在にとらわれている。
・あらゆるものは縁起によって成立している現象的なものに過ぎないことを知らない。
から、というのが仏教の立場ですが、
まあ、そんなことはどうでもいいじゃない
最悪でも、それまでで、
それまでのことなんだから。
もし、
自分が最大限の努力精進をしていれば、どのような結果でも諦められるはずですが、
そうでない場合は、そうではない。
『三昧戒序』にあるのは、
怒ったり愚痴ったり貪ったりするのは、自他の間にしきりがあるから。
自他を区別し、自におもく他に軽いところがあるから。
もし、
自他平等の大きな慈悲に生きるなら、一切の悪がほろび、心は清涼寂静となる。
お大師さんの『性霊集』 第二に、
「悟りが得難いのではなく、その教えに遇うことが得難いのである」
という文章があります。
人として生まれることは奇跡である。
ましてや、その人生で仏教に出会えるなんて、
ガンジス川の砂ひと粒に出会うくらいの、本当に稀な事。
だから、大事にしたいものです。
仏教に出会いさえすれば、自然と悟りに導かれるのだから。
同じように、
人として生まれさえすれば、幸せになれます。
同じ『性霊集』第四「為人求官啓」には
巨石は重くて水に沈む
蚊や虻は小さくて遠くへは飛べない
でも、
船があれば巨石も万里を進み
鳳凰につかまれば蚊や虻も天高く飛べる
縁に遇えば大きな力を発揮できるのである。
そのような縁に遇うと遇わないとでは、雲泥の差がある。
出会ったことに、最大限に敬意を払い、感謝したいものです。
師弟、親子、夫婦の出会い・・・。
さて、料理の世界でも出会いのもの、があります。
食材には
走り・旬・名残があって、
「旬」はその食材の最高の状態。
旬より前の出始めが「走り」。
季節を先取りします。
旬が過ぎてそろそろ終わり、というころが「名残」。
走り、旬、名残りという無常が料理にもあります。
そして、出会いのもの。
山のものと海のものが出会う。
黒いものと白いものが出会う。
春になれば竹の子とワカメの出会い。
ブリと大根、タコと豆、ビールと鮎なども出会いのもの。
これは大根と厚揚げ
妻が炊いた梅ぼしとゴボウ
湯葉とわかめ
出会いのものは陰陽のバランスが良いので、味も滋養もよろしい。
「悟りが得難いのではなく、その教えに遇うことが得難いのである」
という文章があります。
人として生まれることは奇跡である。
ましてや、その人生で仏教に出会えるなんて、
ガンジス川の砂ひと粒に出会うくらいの、本当に稀な事。
だから、大事にしたいものです。
仏教に出会いさえすれば、自然と悟りに導かれるのだから。
同じように、
人として生まれさえすれば、幸せになれます。
同じ『性霊集』第四「為人求官啓」には
巨石は重くて水に沈む
蚊や虻は小さくて遠くへは飛べない
でも、
船があれば巨石も万里を進み
鳳凰につかまれば蚊や虻も天高く飛べる
縁に遇えば大きな力を発揮できるのである。
そのような縁に遇うと遇わないとでは、雲泥の差がある。
出会ったことに、最大限に敬意を払い、感謝したいものです。
師弟、親子、夫婦の出会い・・・。
さて、料理の世界でも出会いのもの、があります。
食材には
走り・旬・名残があって、
「旬」はその食材の最高の状態。
旬より前の出始めが「走り」。
季節を先取りします。
旬が過ぎてそろそろ終わり、というころが「名残」。
走り、旬、名残りという無常が料理にもあります。
そして、出会いのもの。
山のものと海のものが出会う。
黒いものと白いものが出会う。
春になれば竹の子とワカメの出会い。
ブリと大根、タコと豆、ビールと鮎なども出会いのもの。
これは大根と厚揚げ
妻が炊いた梅ぼしとゴボウ
湯葉とわかめ
出会いのものは陰陽のバランスが良いので、味も滋養もよろしい。
貪欲(むさぼり)、瞋欲(いかり)、愚癡(おろかさ)の三つを根本の煩悩、
貪瞋癡(とんじんち)の三毒と言います。
大本は愚癡、すべてはここから生まれます。
この愚癡を無明(むみょう)ともいいます。
明るくないこと。迷いのこと。真理に暗いこと、智慧の光に照らされていない状態。
何も見えない暗闇に、灯明ひとつあればパッと明るくなり周囲が見えます。
同じように、無明の闇の中では真実が見えないので迷い、智慧の光があればすべてが見えます。
あらゆるの苦は、無明(迷い)を原因とする煩悩から発生し、智慧によって無明を破ることにより消滅します。
「我」というものが存在するという見解が無明。
智慧の光、つまり「我」などというものは実体が無い、と理解することで苦しみはたちまち姿を消します。
そして、「苦しみ」も何か実体を伴って存在しているわけではありません。
自分がそう持っているだけ、概念に過ぎない。
実際には無いもの(自分が脳の中で勝手に作り出して想像、錯覚しているもの)を有ると考えるのが無明です。
以前に書いた六波羅蜜の行
http:// shinten an.syoy u.net/% E7%9C%9 E%E5%A4 %A9%E5% BA%B5%E 4%BB%8F %E6%95% 99%E5%A 1%BE%E3 %83%BB% E5%AF%8 6%E6%95 %99%E5% A1%BE/% EF%BC%9 4%E3%80 %81%E4% BF%AE%E 8%A1%8C %E3%81% AE%E5%A E%97%E6 %95%99
は、
それによって煩悩をひとつづつ浄める行です。
布施によって貪りを、
忍辱によって怒りを、
智慧によって愚癡を、
というように。
時間をかけて三毒煩悩から離れようとします。
それに対して密教では、
煩悩即菩提
問題は自らの中にあるので、
智慧と慈悲は三毒を母体にして生じ、
三毒は進歩向上させる原動力
と考えます。
僕らは三毒具足しているけれど、本来清浄、仏性がある。
その本性の全能を信じ、その信を不動のものにしようとします。
六波羅蜜は煩悩をどうするか
ということが問題になりますが、
密教の三密行は本心の広大清浄にすわりつづけようとします。
そのままで、煩悩を生かして活用して仏になろうとする。
六波羅蜜は心の垢を払うために積み重ねていく行であり、
三密行は固有の宝を開顕する行です。
具体的には慈愛と三密行です。
慈愛には、
1、人の暮らしを助けると
2、人の魂を高め清めること
がありますが、重要なのは 2、です。
三密行は、
手に印を結び、口に真言を唱え、心に仏の観念をこらす
仏の身体と同じく印を結び
仏の言葉である真言を唱え、
仏の境地を瞑想します。
そうして、本来清浄な心に座ろうとします。
人は何かをしようとする時、まず心にそれを思います。
そしてそれを口に出し、
口に出したことを行動に移します。
その、身体、言葉、心の三つを三業(さんごう)と言いますが、仏のそれは三密と言います 。
自分の三業を三密にします。
三密行は専門的で伝授やトレーニングが必要ですが、
もっとも簡単な方法は
仏前で合掌し、口で真言を唱え、心で仏の恩徳を思う、
という作法。
密教の三密行は、
僕らは元々悟り、完成している、無尽の財をもっているから、他人のために慈愛を行じ、
この身このままで今すぐに仏になろうとする行です。
______________________________
【修行してみる】
○写経
淡々と同じことを、あまり余計なことを考えずに、ただ続けることが精進です。
ただ書く、という写経は、心を調えることに役立ちます。
出来れば筆で、そして墨をすることから始めると良いでしょう。
墨をするという丁寧な作業は心がこもります。 それが精進です。
書く紙は市販の写経用紙でも、半紙でも構いません。
塗香があれば手に塗ります。紙が汚れず、手がサラサラになるので書きやすい。
香りで心も落ち着きます。
香を焚き、姿勢よく坐ります。
書写する経は般若心経がポピュラーですが、他にお好きなお経があればそれでもかまいません。
一度にすべて書く必要は無く、少しづつ書きましょう。
般若心経なら、
まず、お経を一巻、唱えます。
紙に向かい、経題の「仏説摩訶般若波羅蜜多心経」と書きます。
次の行から一文字づつ書写します。
間違えたら、その文字に点を打ち、その下や横に書き直します。
ただ、ひたすらに書きます。何も考えないのが良い。
写し終わったら、一行あけて、日付。
次の行に願意を書きます。写経という修行を何のためにしたのか、ということを書きます。
家内安全、世界平和、何でも構いません。
特にわからなければ
「報恩感謝」が良いでしょう。
次の行の下方に名前を書きます。
書いた写経は巡礼遍路などで納めたり、有縁の寺に奉納します。
自宅の仏壇に納めてもよろしい。
たくさん書くほど、修行の効果があります。
貪瞋癡(とんじんち)の三毒と言います。
大本は愚癡、すべてはここから生まれます。
この愚癡を無明(むみょう)ともいいます。
明るくないこと。迷いのこと。真理に暗いこと、智慧の光に照らされていない状態。
何も見えない暗闇に、灯明ひとつあればパッと明るくなり周囲が見えます。
同じように、無明の闇の中では真実が見えないので迷い、智慧の光があればすべてが見えます。
あらゆるの苦は、無明(迷い)を原因とする煩悩から発生し、智慧によって無明を破ることにより消滅します。
「我」というものが存在するという見解が無明。
智慧の光、つまり「我」などというものは実体が無い、と理解することで苦しみはたちまち姿を消します。
そして、「苦しみ」も何か実体を伴って存在しているわけではありません。
自分がそう持っているだけ、概念に過ぎない。
実際には無いもの(自分が脳の中で勝手に作り出して想像、錯覚しているもの)を有ると考えるのが無明です。
以前に書いた六波羅蜜の行
http://
は、
それによって煩悩をひとつづつ浄める行です。
布施によって貪りを、
忍辱によって怒りを、
智慧によって愚癡を、
というように。
時間をかけて三毒煩悩から離れようとします。
それに対して密教では、
煩悩即菩提
問題は自らの中にあるので、
智慧と慈悲は三毒を母体にして生じ、
三毒は進歩向上させる原動力
と考えます。
僕らは三毒具足しているけれど、本来清浄、仏性がある。
その本性の全能を信じ、その信を不動のものにしようとします。
六波羅蜜は煩悩をどうするか
ということが問題になりますが、
密教の三密行は本心の広大清浄にすわりつづけようとします。
そのままで、煩悩を生かして活用して仏になろうとする。
六波羅蜜は心の垢を払うために積み重ねていく行であり、
三密行は固有の宝を開顕する行です。
具体的には慈愛と三密行です。
慈愛には、
1、人の暮らしを助けると
2、人の魂を高め清めること
がありますが、重要なのは 2、です。
三密行は、
手に印を結び、口に真言を唱え、心に仏の観念をこらす
仏の身体と同じく印を結び
仏の言葉である真言を唱え、
仏の境地を瞑想します。
そうして、本来清浄な心に座ろうとします。
人は何かをしようとする時、まず心にそれを思います。
そしてそれを口に出し、
口に出したことを行動に移します。
その、身体、言葉、心の三つを三業(さんごう)と言いますが、仏のそれは三密と言います 。
自分の三業を三密にします。
三密行は専門的で伝授やトレーニングが必要ですが、
もっとも簡単な方法は
仏前で合掌し、口で真言を唱え、心で仏の恩徳を思う、
という作法。
密教の三密行は、
僕らは元々悟り、完成している、無尽の財をもっているから、他人のために慈愛を行じ、
この身このままで今すぐに仏になろうとする行です。
______________________________
【修行してみる】
○写経
淡々と同じことを、あまり余計なことを考えずに、ただ続けることが精進です。
ただ書く、という写経は、心を調えることに役立ちます。
出来れば筆で、そして墨をすることから始めると良いでしょう。
墨をするという丁寧な作業は心がこもります。 それが精進です。
書く紙は市販の写経用紙でも、半紙でも構いません。
塗香があれば手に塗ります。紙が汚れず、手がサラサラになるので書きやすい。
香りで心も落ち着きます。
香を焚き、姿勢よく坐ります。
書写する経は般若心経がポピュラーですが、他にお好きなお経があればそれでもかまいません。
一度にすべて書く必要は無く、少しづつ書きましょう。
般若心経なら、
まず、お経を一巻、唱えます。
紙に向かい、経題の「仏説摩訶般若波羅蜜多心経」と書きます。
次の行から一文字づつ書写します。
間違えたら、その文字に点を打ち、その下や横に書き直します。
ただ、ひたすらに書きます。何も考えないのが良い。
写し終わったら、一行あけて、日付。
次の行に願意を書きます。写経という修行を何のためにしたのか、ということを書きます。
家内安全、世界平和、何でも構いません。
特にわからなければ
「報恩感謝」が良いでしょう。
次の行の下方に名前を書きます。
書いた写経は巡礼遍路などで納めたり、有縁の寺に奉納します。
自宅の仏壇に納めてもよろしい。
たくさん書くほど、修行の効果があります。
穀菜食の舎 ご案内
○正会員:年会費 20.000円(ご家族1名が会員で家族全員有効)
年会費は分割でもお支払可能です。
特典
1、望診法、食養手当法の個人相談が受けられます。
2、穀菜食の舎、陰陽研究塾主催の講座参加費割引
3、料理講座修了者に精進料理教授・食養料理講師認定書を発行。
4、季節の料理や食養手当法などの情報を毎月メールで配信
(郵送の場合は送料2.400円/年)
5、FacebookとLINEの会員ページで随時質問相談できます。
6、会員用サイトのパスワードを発行します。
(陰陽研究塾、料理12か月など)
○賛助会員:年会費 100.000円
穀菜食の舎運営にご支援いただけるかた。
※個人相談は会員に限ります。
○入会方法
1、下記の口座へ年会費をお振込みください。
2、会員証を発送しますので、郵便番号、住所、お名前、電話番号を郵便、メール、FAXでご連絡ください。
○ゆうちょ銀行
通帳口座 18200-33643231
普通口座 八二八店 3364323
口座名 陰陽研究塾
○みずほ銀行
郡山支店 普通 1251688
口座名 須永 晃仁(スナガ コウニン)
※問い合わせ先
〒329-0412 栃木県下野市柴762-14
☎/FAX:0285-35-4901 穀菜食の舎 須永 晃仁
江戸は三角、上方は俵型、お供えは丸いおむすび
と僕は考えているのだけれど、以前は三角形に結んでいたのに、最近は丸くなる。
手が変わったのだろうか、心が変わったのだろうか
ごま豆腐は精進料理の華ですが、良質な吉野葛とゴマがあればいい。
作りかたはそれほど難しくない。
ただひたすら練る。
手を休めない。
練り続ける時、
般若心経や真言を唱えるのはとてもいい。
唱える時に、人はそれになるから。
ウチの子は野菜を食べないのだけれど、
という人のために、僕が考えた魔法のスープはとても役に立つ。
これはカレーやシチューにも応用できるのだけれど、
揚げものの衣を野菜たっぷりにする、という方法もある。
地粉にみじん切りの野菜、乾燥野菜の粉末、青のりなどを混ぜる。揚げる材料も野菜がいい。
自殺しなくてもいつか死ぬように、
殺さなくてもいつか死ぬ。
なのにそれを待てない人がいつの時代にもいるけれど、
待っていれば、いいことがある。
きのこと玉ねぎとニンジンを和えると、その時は辛いけれど、待っていれば甘くうまくなる。
豆腐も湯葉も、調味する醤油も同じ大豆から作られる。
こういう関係は世の中に多くあり、それに気がつくかどうかは人生を左右する。
ともあれ、
野菜はたくさん食べましょう。
_________________________________
※「眞天庵仏教塾・密教塾」
・密教の行
http:// shinten an.syoy u.net/% E7%9C%9 E%E5%A4 %A9%E5% BA%B5%E 4%BB%8F %E6%95% 99%E5%A 1%BE%E3 %83%BB% E5%AF%8 6%E6%95 %99%E5% A1%BE/% EF%BC%9 7%E3%80 %81%E5% AF%86%E 6%95%99 %E3%81% AE%E8%A 1%8C
※穀菜食の舎会員ページ
「便秘について」
https:/ /groups .google .com/fo rum/?hl =ja#!to pic/shi ntenan/ Kx0nxN- b3oA
※穀菜食の舎ご案内
http:// shinten an.syoy u.net/% E7%B1%B 3%E3%81 %9E%E3% 81%86%E 3%81%AE %E5%AE% B6/%E3% 81%94%E 6%A1%88 %E5%86% 85
と僕は考えているのだけれど、以前は三角形に結んでいたのに、最近は丸くなる。
手が変わったのだろうか、心が変わったのだろうか
ごま豆腐は精進料理の華ですが、良質な吉野葛とゴマがあればいい。
作りかたはそれほど難しくない。
ただひたすら練る。
手を休めない。
練り続ける時、
般若心経や真言を唱えるのはとてもいい。
唱える時に、人はそれになるから。
ウチの子は野菜を食べないのだけれど、
という人のために、僕が考えた魔法のスープはとても役に立つ。
これはカレーやシチューにも応用できるのだけれど、
揚げものの衣を野菜たっぷりにする、という方法もある。
地粉にみじん切りの野菜、乾燥野菜の粉末、青のりなどを混ぜる。揚げる材料も野菜がいい。
自殺しなくてもいつか死ぬように、
殺さなくてもいつか死ぬ。
なのにそれを待てない人がいつの時代にもいるけれど、
待っていれば、いいことがある。
きのこと玉ねぎとニンジンを和えると、その時は辛いけれど、待っていれば甘くうまくなる。
豆腐も湯葉も、調味する醤油も同じ大豆から作られる。
こういう関係は世の中に多くあり、それに気がつくかどうかは人生を左右する。
ともあれ、
野菜はたくさん食べましょう。
_________________________________
※「眞天庵仏教塾・密教塾」
・密教の行
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※穀菜食の舎会員ページ
「便秘について」
https:/
※穀菜食の舎ご案内
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仏教は無我の教えです。
仏教以外の宗教や哲学では、自我や神や永遠なる自己、というような実体があると説くものがありますが、仏教では自我という執着(これが苦しみの原因)から離れることを目的とします。
あらゆる存在は縁と条件によって生滅しているだけ。
「我」とか「私」は、
色・受・想・行・識の五蘊(ごうん)が仮に集まってできたものに過ぎない、
というのが仏教の立場です。
色蘊(しきうん) - 肉体
受蘊(じゅうん) - 見る、聞くなどの感じること。
想蘊(そううん) - 見たものが何か、と思うこと、知識。
行蘊(ぎょううん) -~したい、などという意志
識蘊(しきうん) - おいしい、きれいなどと 認識すること。
これらが集まって仮に「私」というものがあるだけで、「私」そのものがどこかにあるのではありません。
このような無我を覚ることによって、煩悩(無明)を滅して涅槃(悟り、苦からの解脱)に至るこ
とが仏教の目的です。
さて、
お釈迦さまが亡くなってから、弟子たちがその教えをまとめた経典ができるようになりました。
亡くなられた直後なら、お釈迦さまから聞いた話の内容もはっきりしていましたが、100年後くらいから考えかたがいろいろと変わってきました。
また、お釈迦さまが説法した地も広いので、お話の内容も多岐にわたります。
その中で、
お釈迦さまの言われたことをガンコに守ろうとする派
時代や地域に合わせた形に替えようとする派
に分かれます。
前者は上座部(じょうざぶ)という、お釈迦さまの言われたことをきちんと守ろうとするグループ
後者は大衆部(だいしゅぶ)という、お釈迦さまの精神を守っていこうとするグループ。
この、上座部が所謂小乗仏教、大衆部が大乗仏教になります。
元々の思想の違いで二つにわかれたもので、小乗が大乗に変わる、ということではありません。
小乗の目的は阿羅漢(あらかん)になること。
供養を受けるにふさわしい人、尊敬されるべき人、という意味です。
修行を積んで、供養を受ける人。聖者ですね。
大乗仏教の目的は菩薩 。
自分の悟りと、自分以外の人を救うこと(上求菩提下化衆生)を目指します。
小乗では、
声聞(しょうもん):お釈迦さまから教えを受けて実践修行する。
縁覚(えんがく):お釈迦さまの教えをヒントに、縁起を観察し、ひとりで真理を覚ろうと努力する。
大乗の菩薩は、
衆生を教化済度する、という修行を通して悟りを目指す。
ほかにも大乗と小乗ではいくつかの違いがあります。
まず、上記の無我について。
小乗は「自分」は無我であるが、「自分」という概念以外の身体やモノには実体があるとします。
「私」というものはどこにも実体がないけれど、「私の身体」は実体がある、という立場。
大乗は、「自分」も「自分以外のもの」も無我である、と説きます。
「私」も「私の身体」も、いろいろなものが縁と条件により寄り集まって構成された仮の姿でしかない、と。
よくよく探してみても、そんなものはどこにもない、と。
拝む対象も、
小乗は一般的にお釈迦さまに帰依し、
大乗では三世十方におわすあらゆる仏を拝みます。
大乗は戒の形式より精神を重んじ、大衆的在家仏教であり、
小乗は戒律主義、専門化して出家主義
という傾向があります。
______________________________
【修行してみる】
○歯を磨き顔を洗い目を洗う
仏教は心の浄化を目的としますが、そのために身体の浄化も必要です。
汚れた口で経や真言を唱えることもできますが、きれいにした口と比べて濁ったり乱れたりします。
・歯を磨いて口を漱いだら
清浄の口を得て、仏法を誦持せんと思う。
・顔を洗ったら、
清浄の法門を得て、長く汚れなきことを願う。
・目を洗い、
眼の病は治癒し、十方に仏を見る、と思う。
それぞれ、歯を磨く真言、顔を洗う真言、目を洗う真言がありますが、明師に従い教わってください。
仏教以外の宗教や哲学では、自我や神や永遠なる自己、というような実体があると説くものがありますが、仏教では自我という執着(これが苦しみの原因)から離れることを目的とします。
あらゆる存在は縁と条件によって生滅しているだけ。
「我」とか「私」は、
色・受・想・行・識の五蘊(ごうん)が仮に集まってできたものに過ぎない、
というのが仏教の立場です。
色蘊(しきうん) - 肉体
受蘊(じゅうん) - 見る、聞くなどの感じること。
想蘊(そううん) - 見たものが何か、と思うこと、知識。
行蘊(ぎょううん) -~したい、などという意志
識蘊(しきうん) - おいしい、きれいなどと 認識すること。
これらが集まって仮に「私」というものがあるだけで、「私」そのものがどこかにあるのではありません。
このような無我を覚ることによって、煩悩(無明)を滅して涅槃(悟り、苦からの解脱)に至るこ
とが仏教の目的です。
さて、
お釈迦さまが亡くなってから、弟子たちがその教えをまとめた経典ができるようになりました。
亡くなられた直後なら、お釈迦さまから聞いた話の内容もはっきりしていましたが、100年後くらいから考えかたがいろいろと変わってきました。
また、お釈迦さまが説法した地も広いので、お話の内容も多岐にわたります。
その中で、
お釈迦さまの言われたことをガンコに守ろうとする派
時代や地域に合わせた形に替えようとする派
に分かれます。
前者は上座部(じょうざぶ)という、お釈迦さまの言われたことをきちんと守ろうとするグループ
後者は大衆部(だいしゅぶ)という、お釈迦さまの精神を守っていこうとするグループ。
この、上座部が所謂小乗仏教、大衆部が大乗仏教になります。
元々の思想の違いで二つにわかれたもので、小乗が大乗に変わる、ということではありません。
小乗の目的は阿羅漢(あらかん)になること。
供養を受けるにふさわしい人、尊敬されるべき人、という意味です。
修行を積んで、供養を受ける人。聖者ですね。
大乗仏教の目的は菩薩 。
自分の悟りと、自分以外の人を救うこと(上求菩提下化衆生)を目指します。
小乗では、
声聞(しょうもん):お釈迦さまから教えを受けて実践修行する。
縁覚(えんがく):お釈迦さまの教えをヒントに、縁起を観察し、ひとりで真理を覚ろうと努力する。
大乗の菩薩は、
衆生を教化済度する、という修行を通して悟りを目指す。
ほかにも大乗と小乗ではいくつかの違いがあります。
まず、上記の無我について。
小乗は「自分」は無我であるが、「自分」という概念以外の身体やモノには実体があるとします。
「私」というものはどこにも実体がないけれど、「私の身体」は実体がある、という立場。
大乗は、「自分」も「自分以外のもの」も無我である、と説きます。
「私」も「私の身体」も、いろいろなものが縁と条件により寄り集まって構成された仮の姿でしかない、と。
よくよく探してみても、そんなものはどこにもない、と。
拝む対象も、
小乗は一般的にお釈迦さまに帰依し、
大乗では三世十方におわすあらゆる仏を拝みます。
大乗は戒の形式より精神を重んじ、大衆的在家仏教であり、
小乗は戒律主義、専門化して出家主義
という傾向があります。
______________________________
【修行してみる】
○歯を磨き顔を洗い目を洗う
仏教は心の浄化を目的としますが、そのために身体の浄化も必要です。
汚れた口で経や真言を唱えることもできますが、きれいにした口と比べて濁ったり乱れたりします。
・歯を磨いて口を漱いだら
清浄の口を得て、仏法を誦持せんと思う。
・顔を洗ったら、
清浄の法門を得て、長く汚れなきことを願う。
・目を洗い、
眼の病は治癒し、十方に仏を見る、と思う。
それぞれ、歯を磨く真言、顔を洗う真言、目を洗う真言がありますが、明師に従い教わってください。
とてもお世話になっている横浜のニシオカさん宅でお料理してから、東日本橋の「秀ハーブラウンジ」へ。
横浜駅からは京急の1000系イエローハッピートレインの先頭車運転席後ろに立つ。
この場所は電車好きのおっさんとチビッコが常にいて、友達になれる。
京急の快速は街中を洗濯ものをかすめながら、という雰囲気で120キロ走行するので、体感速度が新幹線より早い。
この車両は1000系だけれど、ドレミファインバーターは無い。
この車両がホームに入ってくると、西武電車が来たのかと思ってしまう。
秀ハーブラウンジでは温活という花粉症対策もあって、これはとてもおすすめです。
http://www.shu-herb.co.jp/kanpou/2015/02/post_977.html#more
場所はこちら ⇒
http://www.shu-herb.co.jp/gaiyou.htm
横浜駅からは京急の1000系イエローハッピートレインの先頭車運転席後ろに立つ。
この場所は電車好きのおっさんとチビッコが常にいて、友達になれる。
京急の快速は街中を洗濯ものをかすめながら、という雰囲気で120キロ走行するので、体感速度が新幹線より早い。
この車両は1000系だけれど、ドレミファインバーターは無い。
この車両がホームに入ってくると、西武電車が来たのかと思ってしまう。
秀ハーブラウンジでは温活という花粉症対策もあって、これはとてもおすすめです。
http://www.shu-herb.co.jp/kanpou/2015/02/post_977.html#more
場所はこちら ⇒
http://www.shu-herb.co.jp/gaiyou.htm
横浜のクリハラさん宅でお料理。
ご家族分のお昼ごはんを作ってから、陰陽の勉強会をしています。
最近はこういう形のレッスンが多い。
かぶを昆布出汁で炊く。
別の鍋でエノキを蒸し煮してから、かぶのすりおろし、人参を加えて煮込み、水溶きの吉野葛を溶き入れてカブの餡かけ。
ウドは皮をむいてスライスし、梅酢に漬ける。
皮はカブの葉と一緒にきんぴら。
ハクサイは松前醤油を作って即席漬け。
水餅がたくさんあったので、薄くスライス。
それを油揚げの上にレンコンスライス、シメジと共に乗せて、塩こしょうして蒸し焼き。
船橋の家に帰って、
ゴボウのグルテン揚げ。
これは時々とても食べたくなるし、お腹を調える。
人参、水菜の塩もみを添えて。
寒いのでちょっと陽性に焦がしました。
食べた後に勉強会なのだけれど、こういう座談では色々な話がでておもしろい。
その内容は次に書きます。
ご家族分のお昼ごはんを作ってから、陰陽の勉強会をしています。
最近はこういう形のレッスンが多い。
かぶを昆布出汁で炊く。
別の鍋でエノキを蒸し煮してから、かぶのすりおろし、人参を加えて煮込み、水溶きの吉野葛を溶き入れてカブの餡かけ。
ウドは皮をむいてスライスし、梅酢に漬ける。
皮はカブの葉と一緒にきんぴら。
ハクサイは松前醤油を作って即席漬け。
水餅がたくさんあったので、薄くスライス。
それを油揚げの上にレンコンスライス、シメジと共に乗せて、塩こしょうして蒸し焼き。
船橋の家に帰って、
ゴボウのグルテン揚げ。
これは時々とても食べたくなるし、お腹を調える。
人参、水菜の塩もみを添えて。
寒いのでちょっと陽性に焦がしました。
食べた後に勉強会なのだけれど、こういう座談では色々な話がでておもしろい。
その内容は次に書きます。
本日お不動さんの縁日でございまして、皆様のご祈願平安をお祈りいたしました。
さて、昨日の続き(伺った場所は都筑)
・冷え
冷え性にも陰陽がありますが、多くは陽性な冷えです。
陽性なものを多く摂っていたり、陽性な環境にいたり、陽性な生活をしていると、その陽性で血管が締まり、血行が悪くなって冷える。
また、陽性なものが多いと血が濃くなり、動物性食品などではコレステロールが多くなり、血が粘っこくて血行が悪く冷える。
陰性な冷えの場合、顔が青白く、おしっこが多くて色が薄く、元気がない、など他の陰性症状もあり、お風呂に入っても運動をしても温まらないでしょう。
発汗、入浴は陰性になりますから、陽性な冷えには有効。
陰性な料理、陰性な飲み物で血行を良くすれば冷えは改善すると考えられます。
生姜湯は陰性です。
基本的に香りが強いものは陰性。
生姜は抗酸化作用や抗炎症作用があり、その陰性で殺菌力もあるので、手当によく使います。
外用にすれば、その陰性な力が血管を広げて血行を良くし、
生姜の入ったものを飲めば、同じく血行を良くし、陽性を溶かします。
生姜は身体を温めるのではなく、その陰性で発汗させて血行を良くし、体温を下げます。
辛味は総て身体を冷ますので、暑い時暑い地方で好まれます。
最近は陽性な人が多いので、上記のように陽性過多(締まり過ぎ)で身体が冷えているから、生姜で血行が良くなり、温まるのでしょう。
でも、量が多すぎると、冷えすぎて逆効果になります。
料理で生姜を使う場合、
陰性なので、生姜を入れれば身体にしみこむ力が強くなります。
・水分
水分を摂りましょう
と言われても、そんなに飲めるものではありません。
単純に水分を摂ればお腹も冷えます。
水分を摂る、ということは陰性にする、ということ。これも陽性な人には良いのでしょう。
ただ水を飲むのではなく、
鍋料理、スープ、リゾット、雑炊、煮込みうどんなど、水分の多い料理にすれば、お腹を冷やさずに陽性を溶かすことができます。
乾物の出汁を使うことがとても有効。
・リラックスできない時は、
親指を握ります。
手を仰いで膝に置きます。
腹式呼吸で息を糸のように吐きます。
仏像のお姿で
腕を下げ、指先を下に向けて掌をこちらに見せるのは与願。
願をかなえますよ、と。
手を上げ,指を伸ばして掌を見せる形が施無畏。
畏れ不安を取り除きますよ、と。
こういう姿は心をリラックスさせます。
右手はお腹、左手は背中につながっているので、何事も両手を使えば、腰と肚が安定して落ち着きます。
片手は不安定。
・塩分
味噌汁や梅干しで塩分の取り過ぎ
ということは基本的に無いでしょう。
過剰な塩分は味覚が拒否します。
もっとも、
阿呆の三杯汁とか、
居候、三杯目にはそっと出し
などと言うように、おかわりは2杯までが行儀がいい。
アミノ酸などの添加物が多い場合、
その旨味は塩気で引き出されるので、添加物が多いほど塩分も多く摂る傾向があります。
もっと塩分過剰になるのが動物性食品。
それらは塩や醤油を使わなくても、元々塩分がありますから。
魚や肉を食べる場合、
それらはずいぶんと陽性なので、陰性な野菜やキノコと一緒に料理すればバランスがとれますが、
砂糖やアルコールの陰性でバランスをとると、
繊維が少なく脂肪が多いので排毒がうまくいかない、
リンなどの身体を酸性にするものが多いので、体調が傾く
などが考えられます。
・花粉症
花粉症の時期ですが、
花粉は陽性な形をしており、症状も比較的陽性なので、陽性体質の人や、陽性なものを食べていると症状が強くなると考えられます。
食養手当て法では
大根湯を飲んで塩番茶で鼻を洗う 。
大根湯は陰性なので朝飲みます。
これを一週間続ける。
仏教医学では、
断食と水行(沐浴)
薬剤師のスガノさんの方法はとてもいい。
お腹と内側くるぶしの上三陰交を温めて、その人にあった漢方を飲む
。http:// www.shu -herb.c o.jp/ka npou/20 15/02/p ost_979 .html
それから、
花粉症の人はひざ裏など、足の白い部分を柔らかくするといい。
そんな話がでた食後でした。
さて、昨日の続き(伺った場所は都筑)
・冷え
冷え性にも陰陽がありますが、多くは陽性な冷えです。
陽性なものを多く摂っていたり、陽性な環境にいたり、陽性な生活をしていると、その陽性で血管が締まり、血行が悪くなって冷える。
また、陽性なものが多いと血が濃くなり、動物性食品などではコレステロールが多くなり、血が粘っこくて血行が悪く冷える。
陰性な冷えの場合、顔が青白く、おしっこが多くて色が薄く、元気がない、など他の陰性症状もあり、お風呂に入っても運動をしても温まらないでしょう。
発汗、入浴は陰性になりますから、陽性な冷えには有効。
陰性な料理、陰性な飲み物で血行を良くすれば冷えは改善すると考えられます。
生姜湯は陰性です。
基本的に香りが強いものは陰性。
生姜は抗酸化作用や抗炎症作用があり、その陰性で殺菌力もあるので、手当によく使います。
外用にすれば、その陰性な力が血管を広げて血行を良くし、
生姜の入ったものを飲めば、同じく血行を良くし、陽性を溶かします。
生姜は身体を温めるのではなく、その陰性で発汗させて血行を良くし、体温を下げます。
辛味は総て身体を冷ますので、暑い時暑い地方で好まれます。
最近は陽性な人が多いので、上記のように陽性過多(締まり過ぎ)で身体が冷えているから、生姜で血行が良くなり、温まるのでしょう。
でも、量が多すぎると、冷えすぎて逆効果になります。
料理で生姜を使う場合、
陰性なので、生姜を入れれば身体にしみこむ力が強くなります。
・水分
水分を摂りましょう
と言われても、そんなに飲めるものではありません。
単純に水分を摂ればお腹も冷えます。
水分を摂る、ということは陰性にする、ということ。これも陽性な人には良いのでしょう。
ただ水を飲むのではなく、
鍋料理、スープ、リゾット、雑炊、煮込みうどんなど、水分の多い料理にすれば、お腹を冷やさずに陽性を溶かすことができます。
乾物の出汁を使うことがとても有効。
・リラックスできない時は、
親指を握ります。
手を仰いで膝に置きます。
腹式呼吸で息を糸のように吐きます。
仏像のお姿で
腕を下げ、指先を下に向けて掌をこちらに見せるのは与願。
願をかなえますよ、と。
手を上げ,指を伸ばして掌を見せる形が施無畏。
畏れ不安を取り除きますよ、と。
こういう姿は心をリラックスさせます。
右手はお腹、左手は背中につながっているので、何事も両手を使えば、腰と肚が安定して落ち着きます。
片手は不安定。
・塩分
味噌汁や梅干しで塩分の取り過ぎ
ということは基本的に無いでしょう。
過剰な塩分は味覚が拒否します。
もっとも、
阿呆の三杯汁とか、
居候、三杯目にはそっと出し
などと言うように、おかわりは2杯までが行儀がいい。
アミノ酸などの添加物が多い場合、
その旨味は塩気で引き出されるので、添加物が多いほど塩分も多く摂る傾向があります。
もっと塩分過剰になるのが動物性食品。
それらは塩や醤油を使わなくても、元々塩分がありますから。
魚や肉を食べる場合、
それらはずいぶんと陽性なので、陰性な野菜やキノコと一緒に料理すればバランスがとれますが、
砂糖やアルコールの陰性でバランスをとると、
繊維が少なく脂肪が多いので排毒がうまくいかない、
リンなどの身体を酸性にするものが多いので、体調が傾く
などが考えられます。
・花粉症
花粉症の時期ですが、
花粉は陽性な形をしており、症状も比較的陽性なので、陽性体質の人や、陽性なものを食べていると症状が強くなると考えられます。
食養手当て法では
大根湯を飲んで塩番茶で鼻を洗う 。
大根湯は陰性なので朝飲みます。
これを一週間続ける。
仏教医学では、
断食と水行(沐浴)
薬剤師のスガノさんの方法はとてもいい。
お腹と内側くるぶしの上三陰交を温めて、その人にあった漢方を飲む
。http://
それから、
花粉症の人はひざ裏など、足の白い部分を柔らかくするといい。
そんな話がでた食後でした。
供養はサンスクリット語の「プージャ」の訳語で「尊敬する」という意味です。
お釈迦さまを供養する、
というのはお釈迦さまを尊敬する、ということ。
尊敬する人には、おもてなしをしたい、身辺のお手伝いをしたい、いろいろ教えてほしい、などと思います。
故人を供養する、
というのは、故人を尊敬の念をもって思い、習うべきところは習い、反省するべところは反省し、襟を正して生きていこうとすることです。
その姿勢が供養になります。
ですから、何をお供えしても、尊敬の気持ちが無ければ供養にはなりません。
ご本尊さんの供養は修法であり、瞑想修行のひとつです。
その供物をそろえるところから修行が始まります。
仏教には六種供養というものがあり、
六種の供養は、以前に書いた六波羅蜜の行になります。
1、お水やお茶を供える。
これは布施の心。水はすべてのいのちを育み、どんなところにも平等に流れる、思いやりの心を養うことになる。そう思い行動することが供養になります。
2、塗香
手や身体に塗る香は、持戒の心をあらわします。
香りが身体にしみこむように、戒律も身体にしみこむことで価値があります。
清らかにした手では悪いことができません。
同じように、清らかな心、清らかなことをしようと思えば、悪いことから自然と離れる、
というのが戒律です。
お金持ちになろうと思ったら無駄遣いをしないようになる。
ということと同じです。
3、花。
花を見ると心がなごみ、自然と微笑みます。これは忍辱の心。
耐え忍ぶことは、花を見て心が和むようなもの。
この和む心が供養となります。
4、線香を立てる。
これは精進の心。
線香に火をつけると、一直線に淡々と燃えます。急に燃えすぎたり、途中で止まったり横道にそれたりしない。それが精進です。
そうような心が供養になり、功徳になります。
5、ご飯を供える。
これは禅定の心。心を静かにすること。
お腹が空いてイライラしている時に、ご飯を食べるとホッとするように、冷静になって心に波が立たないようにする心が供養になります。
6、灯明(ローソク)を点じる。
これは智慧の心。
迷い苦しみ煩悩によって正しくものが見えないほど暗くなっている時に、
智慧があれば明るくなります。
灯明をつけて暗闇を照らすように、智慧を得て心に灯りをつけることが供養になります。
供物をそろえて心を豊かにし、心を調えることが供養になり、それを擦ることが修行です。
供物は心のシンボルです。
『宗秘論』には
供養は総てその報いを求めてはならない。
とあり、
密教では、仏と我と衆生とが平等である、と観想しながら拝むことが、最大の供養になるとします。
そして、
それが悟りへの道になります。
お釈迦さまを供養する、
というのはお釈迦さまを尊敬する、ということ。
尊敬する人には、おもてなしをしたい、身辺のお手伝いをしたい、いろいろ教えてほしい、などと思います。
故人を供養する、
というのは、故人を尊敬の念をもって思い、習うべきところは習い、反省するべところは反省し、襟を正して生きていこうとすることです。
その姿勢が供養になります。
ですから、何をお供えしても、尊敬の気持ちが無ければ供養にはなりません。
ご本尊さんの供養は修法であり、瞑想修行のひとつです。
その供物をそろえるところから修行が始まります。
仏教には六種供養というものがあり、
六種の供養は、以前に書いた六波羅蜜の行になります。
1、お水やお茶を供える。
これは布施の心。水はすべてのいのちを育み、どんなところにも平等に流れる、思いやりの心を養うことになる。そう思い行動することが供養になります。
2、塗香
手や身体に塗る香は、持戒の心をあらわします。
香りが身体にしみこむように、戒律も身体にしみこむことで価値があります。
清らかにした手では悪いことができません。
同じように、清らかな心、清らかなことをしようと思えば、悪いことから自然と離れる、
というのが戒律です。
お金持ちになろうと思ったら無駄遣いをしないようになる。
ということと同じです。
3、花。
花を見ると心がなごみ、自然と微笑みます。これは忍辱の心。
耐え忍ぶことは、花を見て心が和むようなもの。
この和む心が供養となります。
4、線香を立てる。
これは精進の心。
線香に火をつけると、一直線に淡々と燃えます。急に燃えすぎたり、途中で止まったり横道にそれたりしない。それが精進です。
そうような心が供養になり、功徳になります。
5、ご飯を供える。
これは禅定の心。心を静かにすること。
お腹が空いてイライラしている時に、ご飯を食べるとホッとするように、冷静になって心に波が立たないようにする心が供養になります。
6、灯明(ローソク)を点じる。
これは智慧の心。
迷い苦しみ煩悩によって正しくものが見えないほど暗くなっている時に、
智慧があれば明るくなります。
灯明をつけて暗闇を照らすように、智慧を得て心に灯りをつけることが供養になります。
供物をそろえて心を豊かにし、心を調えることが供養になり、それを擦ることが修行です。
供物は心のシンボルです。
『宗秘論』には
供養は総てその報いを求めてはならない。
とあり、
密教では、仏と我と衆生とが平等である、と観想しながら拝むことが、最大の供養になるとします。
そして、
それが悟りへの道になります。
仏といえば、
お釈迦さまのこと
阿弥陀さまや観音さまなど、いろいろな仏さまのこと
礼拝対象の仏像仏画
日本では亡くなったご遺体も仏と言います。
仏は正字が「佛」
サンスクリット語「ブッダ」仏陀の略。仏陀は「覚者」「悟った者」
如来とも言います。
仏(如来)になれるけれど、人々のの救済のためなど敢えてなろうとしない人を菩薩という、
という解釈がありますが、それはちょっと違う。
民俗学・柳田國男の説では、盆の精霊棚に飾るホトギに由来した言葉
としています。
諸仏は法身にして、ただ肉身にはあらざるなり
と『十住毘婆裟論』にあります。
仏は
肉体としての、見える形ではなく、真理として観ずる
ということ。
お釈迦さま亡き後、
そのお姿を像にするのは失礼になる、
と考え、仏像というものはしばらく作られませんでしたが、
西洋文化の流入、ガンダーラ文化の発展とともに仏像が作られます。
『観仏三昧海経』には、
仏滅後、現前する仏なければ、まさに仏像を観ずべし
如来の滅後、多くの衆生遇って仏を見ざるを持ってのゆえに、諸々の悪法をなす。
かくの如きの人、まさに像を観ずべし
もし像を観ずるものは、わが身(仏身)を観ずるに等しく
と、仏像を拝むことが主流になります。
仏の身体には、
仏足石に表されているように、足裏に輪形の相が現れている。
手足の各指の間に、鳥の水かきのような金色の膜がある。
直立したとき両手が膝に届き、手先が膝をなでるくらい長い。
身体から後光を放つ。
眉間に右巻きの白毫がる
などの、三十二の大きな特徴と、
耳が肩まで届く程垂れ下がっている。(福耳)
のどに3本のしわがある。
眉が長い。
鼻の穴が見えない。
などの細かい八十の特徴があるとされています。
http://tobifudo.jp/newmon/shinbutu/32so.html
『秘蔵記』には
初心者はその三十二相、八十種好をもって仏を念ずべし
中級者は法身(あらゆるものが仏の現れであるとする)をもって仏を念じる
上級者は、ありのままの姿(嫌いなものも厭うべきものも)を仏と念じ、貪りと執着を離れるべし
とあります。
密教では
仏は固定的静止的なものではなく、つねに一切を照らし、一切を生かし、一切を創造しつつある全一としての宇宙の生命体
と考えています。
そして、
真言などの文字、仏具などの象徴物、仏像仏画、山や川などのあらゆる存在
これらをすべて仏として、瞑想修行の本尊とします。
ですから、
ひとつとして仏でないものはない。
ですから、あらゆるものに供養します。
あるとあらゆる一切のものを仏とし、その仏に奉仕し、それを供養する心構えを持って、一切に処するとき、
世界は平安でみんなが悟りを得る曼荼羅世界になります。
世界は仏によって成立している。
人は身体の中に、本来清らかな仏たるべき性格をそなえている (『秘藏記』)
心が平静で正しければ、真理を見、仏さまを拝むことができる。鏡がすべてをありのままに写し出すようなものである。(『宗秘論』)
諸仏は宇宙そのものであるから、わが身はその中心にいるのであり、自分も宇宙そのものであるから、諸仏は我々の中におられるのである。(『理観啓白文』)
仏さまとは真理を悟ったかたをいい、衆生とはものの真相を知らぬもののことである。(『声字義』)
多くのものにとりかこまれて中央に仏さまがおられる。仏さまとはだれのことか、自分の本心の名である。(『慕仙詩』)
仏とは本より具わっている自分の心の徳である。(『中寿感興詩』)
悟りの究極を仏と云う 。(『入忌日料物願文』)
仏を求めるならば、自分自身の中に求むべきである。仏と自分と同体であるからである。 (『答求理趣釈経書』)
お釈迦さまのこと
阿弥陀さまや観音さまなど、いろいろな仏さまのこと
礼拝対象の仏像仏画
日本では亡くなったご遺体も仏と言います。
仏は正字が「佛」
サンスクリット語「ブッダ」仏陀の略。仏陀は「覚者」「悟った者」
如来とも言います。
仏(如来)になれるけれど、人々のの救済のためなど敢えてなろうとしない人を菩薩という、
という解釈がありますが、それはちょっと違う。
民俗学・柳田國男の説では、盆の精霊棚に飾るホトギに由来した言葉
としています。
諸仏は法身にして、ただ肉身にはあらざるなり
と『十住毘婆裟論』にあります。
仏は
肉体としての、見える形ではなく、真理として観ずる
ということ。
お釈迦さま亡き後、
そのお姿を像にするのは失礼になる、
と考え、仏像というものはしばらく作られませんでしたが、
西洋文化の流入、ガンダーラ文化の発展とともに仏像が作られます。
『観仏三昧海経』には、
仏滅後、現前する仏なければ、まさに仏像を観ずべし
如来の滅後、多くの衆生遇って仏を見ざるを持ってのゆえに、諸々の悪法をなす。
かくの如きの人、まさに像を観ずべし
もし像を観ずるものは、わが身(仏身)を観ずるに等しく
と、仏像を拝むことが主流になります。
仏の身体には、
仏足石に表されているように、足裏に輪形の相が現れている。
手足の各指の間に、鳥の水かきのような金色の膜がある。
直立したとき両手が膝に届き、手先が膝をなでるくらい長い。
身体から後光を放つ。
眉間に右巻きの白毫がる
などの、三十二の大きな特徴と、
耳が肩まで届く程垂れ下がっている。(福耳)
のどに3本のしわがある。
眉が長い。
鼻の穴が見えない。
などの細かい八十の特徴があるとされています。
http://tobifudo.jp/newmon/shinbutu/32so.html
『秘蔵記』には
初心者はその三十二相、八十種好をもって仏を念ずべし
中級者は法身(あらゆるものが仏の現れであるとする)をもって仏を念じる
上級者は、ありのままの姿(嫌いなものも厭うべきものも)を仏と念じ、貪りと執着を離れるべし
とあります。
密教では
仏は固定的静止的なものではなく、つねに一切を照らし、一切を生かし、一切を創造しつつある全一としての宇宙の生命体
と考えています。
そして、
真言などの文字、仏具などの象徴物、仏像仏画、山や川などのあらゆる存在
これらをすべて仏として、瞑想修行の本尊とします。
ですから、
ひとつとして仏でないものはない。
ですから、あらゆるものに供養します。
あるとあらゆる一切のものを仏とし、その仏に奉仕し、それを供養する心構えを持って、一切に処するとき、
世界は平安でみんなが悟りを得る曼荼羅世界になります。
世界は仏によって成立している。
人は身体の中に、本来清らかな仏たるべき性格をそなえている (『秘藏記』)
心が平静で正しければ、真理を見、仏さまを拝むことができる。鏡がすべてをありのままに写し出すようなものである。(『宗秘論』)
諸仏は宇宙そのものであるから、わが身はその中心にいるのであり、自分も宇宙そのものであるから、諸仏は我々の中におられるのである。(『理観啓白文』)
仏さまとは真理を悟ったかたをいい、衆生とはものの真相を知らぬもののことである。(『声字義』)
多くのものにとりかこまれて中央に仏さまがおられる。仏さまとはだれのことか、自分の本心の名である。(『慕仙詩』)
仏とは本より具わっている自分の心の徳である。(『中寿感興詩』)
悟りの究極を仏と云う 。(『入忌日料物願文』)
仏を求めるならば、自分自身の中に求むべきである。仏と自分と同体であるからである。 (『答求理趣釈経書』)
庭でウグイスが鳴いています。
何を思って鳴いているのだろう。
人は何かを心に思い、それを口に出して、行動に移します。
だから、何を思うかでいろいろ変わります。
その時、ゆっくり考える
考えたら少し寝かせる。
ゆっくり話す。
そしてゆっくり行動に移す。
そうすれば、その思いがどこからきているのかがわかります。
そうすれば、それで良いのか楽しいのか面白いのかどうかが、ある程度分かります。
それはさておき、
精進料理の蒸し物や餡かけでは
吉野葛
カブのすりおろし
れんこんすりおろし
豆腐
湯葉
高野豆腐
などを使いますが、それぞれ味も風味も香りも違うので楽しい。
昆布出汁でカブを炊きます。 これはすぐに炊ける。
別の鍋に昆布しいたけ出汁を沸かし、油揚げ、レンコンスライス、人参を炊き、塩と薄口醤油で調えます。
レンコンすりおろしと、その半量の水溶き吉野葛を加えてひと煮立ちさせ、椀に盛ったカブにかけます。
中火から弱火で、ゆっくり作るといい。
________________________________
※穀菜食の舎会員ページ
「紫斑病、再生不良性貧血、とびひ、低血圧と貧血、蛋白尿と血尿」
https:/ /groups .google .com/fo rum/?hl =ja#!to pic/shi ntenan/ FNe3Hzs 9KbM
何を思って鳴いているのだろう。
人は何かを心に思い、それを口に出して、行動に移します。
だから、何を思うかでいろいろ変わります。
その時、ゆっくり考える
考えたら少し寝かせる。
ゆっくり話す。
そしてゆっくり行動に移す。
そうすれば、その思いがどこからきているのかがわかります。
そうすれば、それで良いのか楽しいのか面白いのかどうかが、ある程度分かります。
それはさておき、
精進料理の蒸し物や餡かけでは
吉野葛
カブのすりおろし
れんこんすりおろし
豆腐
湯葉
高野豆腐
などを使いますが、それぞれ味も風味も香りも違うので楽しい。
昆布出汁でカブを炊きます。 これはすぐに炊ける。
別の鍋に昆布しいたけ出汁を沸かし、油揚げ、レンコンスライス、人参を炊き、塩と薄口醤油で調えます。
レンコンすりおろしと、その半量の水溶き吉野葛を加えてひと煮立ちさせ、椀に盛ったカブにかけます。
中火から弱火で、ゆっくり作るといい。
________________________________
※穀菜食の舎会員ページ
「紫斑病、再生不良性貧血、とびひ、低血圧と貧血、蛋白尿と血尿」
https:/
梅が咲きはじめて良い香りでございます。
去年の今頃、長男はお四国お遍路を歩いていたのですが、その時の写真をあるところで使うために選んでいます。
望診法テキスト『宇宙を診る』の在庫が少なくなったので、改訂増刷の作業をしています。より便利な内容になる予定。
望診法講座を録音したものを、娘が文字に起こしてくれたので、講義録として出版するために校正などしています。
こういう、何かを作る仕事はことのほか楽しい。
それはさておき、
望診法では、前頭部は神経系とつながりがあり、頭頂部は循環器系で情緒が関係し、後頭部は消化器系で意志力と関係がある、としています。
前頭部頭頂部後頭部の境目はどこか、
というのは難しいのですが、だいたいあの辺ですね。
頭は陽性なことに使いすぎると、陽性ですから熱を持ちます。
これはあまり良いことではない。電気機器が熱くなっているのと同じだろうな。
そこで、頭を冷やしましょう。
頭を冷やす、と言えば、
興奮した気持ちをおさえる。気持ちを冷静にする。
ですが、
頭寒足熱
頭は足より冷たいほうがいい。
僕は三日に一度くらい剃髪しますが、
神を剃ると寒い
けれど頭がスッキリはっきりする。
気持ちいい。
冬は寒いのでニット帽をかぶるけれど、
脱げば頭がスッキリはっきりはっきりする。
気持ちいい。原稿がはかどる、戒名もすらすら書ける。
後頭部は消化器系意志力を司りますが、ここを冷やすと、胃腸の状態が現われる上唇・口角の様子が変わります。
陰陽望診法では、呼吸器も消化器系とみますので、鼻づまり鼻水にもよろしい。
さて、
明日の夜、東京・紀尾井町サロンホールへ、
ピアニスト稲垣達也さんのコンサートに行きます。
http:// www.ina gaki-pi ano.com /%E3%83 %A9%E3% 82%A4%E 3%83%96 %E3%82% B9%E3%8 2%B1%E3 %82%B8% E3%83%A 5%E3%83 %BC%E3% 83%AB/
まだ空席があるのかどうかわかりませんが、みなさまも是非どうぞ。
去年の今頃、長男はお四国お遍路を歩いていたのですが、その時の写真をあるところで使うために選んでいます。
望診法テキスト『宇宙を診る』の在庫が少なくなったので、改訂増刷の作業をしています。より便利な内容になる予定。
望診法講座を録音したものを、娘が文字に起こしてくれたので、講義録として出版するために校正などしています。
こういう、何かを作る仕事はことのほか楽しい。
それはさておき、
望診法では、前頭部は神経系とつながりがあり、頭頂部は循環器系で情緒が関係し、後頭部は消化器系で意志力と関係がある、としています。
前頭部頭頂部後頭部の境目はどこか、
というのは難しいのですが、だいたいあの辺ですね。
頭は陽性なことに使いすぎると、陽性ですから熱を持ちます。
これはあまり良いことではない。電気機器が熱くなっているのと同じだろうな。
そこで、頭を冷やしましょう。
頭を冷やす、と言えば、
興奮した気持ちをおさえる。気持ちを冷静にする。
ですが、
頭寒足熱
頭は足より冷たいほうがいい。
僕は三日に一度くらい剃髪しますが、
神を剃ると寒い
けれど頭がスッキリはっきりする。
気持ちいい。
冬は寒いのでニット帽をかぶるけれど、
脱げば頭がスッキリはっきりはっきりする。
気持ちいい。原稿がはかどる、戒名もすらすら書ける。
後頭部は消化器系意志力を司りますが、ここを冷やすと、胃腸の状態が現われる上唇・口角の様子が変わります。
陰陽望診法では、呼吸器も消化器系とみますので、鼻づまり鼻水にもよろしい。
さて、
明日の夜、東京・紀尾井町サロンホールへ、
ピアニスト稲垣達也さんのコンサートに行きます。
http://
まだ空席があるのかどうかわかりませんが、みなさまも是非どうぞ。
隣の家に囲いができたんだってよ。
へぇ~。
あの人があんたの悪口を言っていたよ。
へぇ~。
テレビで、クルミが血液をサラサラにするって言っていたよ
へぇ~。
そんな程度でいいかな。
論理的でないものにそれ以上、興味を示す必要は無い。
でも、
論理的でない、感情的なことに思いを寄せることは多い。
読経中に小さな子が騒いでいる。
お母さんが、
静かにしなさい
なんて叱っている。
いいんですよ、
僕のお経より、その子の声のほうが故人は喜ぶでしょうから。
福島県浜通りから都会に出てきたかたが亡くなって、
生前は毎年相馬の野馬追いを楽しみしていた。
それが、あの日以来帰れなくなった。
それを残念がっていた。
葬儀の後、棺にお花を入れるお別れの時、相馬盆歌がBGMで流れていた
僕もお経ではなくて、それを歌えば良かったかな。
熱烈なジャイアンツファンのおばあちゃんが亡くなって
お別れの時、
「闘魂込めて」がBGMで流れていた。
お経ではなくて、それを歌えば良かったかな。
へぇ~。
あの人があんたの悪口を言っていたよ。
へぇ~。
テレビで、クルミが血液をサラサラにするって言っていたよ
へぇ~。
そんな程度でいいかな。
論理的でないものにそれ以上、興味を示す必要は無い。
でも、
論理的でない、感情的なことに思いを寄せることは多い。
読経中に小さな子が騒いでいる。
お母さんが、
静かにしなさい
なんて叱っている。
いいんですよ、
僕のお経より、その子の声のほうが故人は喜ぶでしょうから。
福島県浜通りから都会に出てきたかたが亡くなって、
生前は毎年相馬の野馬追いを楽しみしていた。
それが、あの日以来帰れなくなった。
それを残念がっていた。
葬儀の後、棺にお花を入れるお別れの時、相馬盆歌がBGMで流れていた
僕もお経ではなくて、それを歌えば良かったかな。
熱烈なジャイアンツファンのおばあちゃんが亡くなって
お別れの時、
「闘魂込めて」がBGMで流れていた。
お経ではなくて、それを歌えば良かったかな。
妻子友人縁者に、何かひとくさり小言を並べたいようなことがあっても、
この日を思い出せば、あなたが生きているだけでいい、生きてさえいてくれればいい、
と思い直します。
東日本大震災並びに福島第一原子力発電所の事故について、物故者の菩提を心よりお祈りし、
復興と平安を祈願いたします。
また、事故を繰り返さないために、世界中で原子力発電所の新増設を停止し、現存の施設が段階的に廃炉の方向に進むように希望します。
宮城県東松島市の介護施設で働く永良尼さんが、毎月通信を出しています。
先月送られてきた39号には、被災したかたがたの思いがつづられていました。
この日を思い出せば、あなたが生きているだけでいい、生きてさえいてくれればいい、
と思い直します。
東日本大震災並びに福島第一原子力発電所の事故について、物故者の菩提を心よりお祈りし、
復興と平安を祈願いたします。
また、事故を繰り返さないために、世界中で原子力発電所の新増設を停止し、現存の施設が段階的に廃炉の方向に進むように希望します。
宮城県東松島市の介護施設で働く永良尼さんが、毎月通信を出しています。
先月送られてきた39号には、被災したかたがたの思いがつづられていました。
福島に住んでいる時は県外での用事が多く、栃木に引っ越しをしてからは福島での用事が多い。
人生とはそういうものかな。
久しぶりに郡山へ来た次男が、
広々していいねえ、
暮らしやすかったねえ、
と言う。
野菜がうまいものね。
動物は植物を食べるから、野菜がうまいところは過ごしやすい。
翌日は仙台に。
国連防災会議が開かれ、両陛下がいらして、国連事務総長も首相も来ているらしい。
縁ある寺で菊地永良尼と待ち合わせ、荒浜の海岸で拝む。
地震津波が来たのは11日だけれど、その数日後に凍死などで亡くなった人がとても多い。
びしょぬれになって、雪も降って、
お母さんもお父さんもいなくて
慰霊碑に刻まれた名前には年齢もある。
2歳、4歳、11歳・・・・・。
寒かったろうな、
怖かったろうな。
今は暖かくさわやかな連台の上で遊んでいるのだろうけれど。
僕らは、
亡くなったかたも残された人も、全員が悟りを開いてしあわせになるまで拝みますから、
どうぞご安心ください。
人生とはそういうものかな。
久しぶりに郡山へ来た次男が、
広々していいねえ、
暮らしやすかったねえ、
と言う。
野菜がうまいものね。
動物は植物を食べるから、野菜がうまいところは過ごしやすい。
翌日は仙台に。
国連防災会議が開かれ、両陛下がいらして、国連事務総長も首相も来ているらしい。
縁ある寺で菊地永良尼と待ち合わせ、荒浜の海岸で拝む。
地震津波が来たのは11日だけれど、その数日後に凍死などで亡くなった人がとても多い。
びしょぬれになって、雪も降って、
お母さんもお父さんもいなくて
慰霊碑に刻まれた名前には年齢もある。
2歳、4歳、11歳・・・・・。
寒かったろうな、
怖かったろうな。
今は暖かくさわやかな連台の上で遊んでいるのだろうけれど。
僕らは、
亡くなったかたも残された人も、全員が悟りを開いてしあわせになるまで拝みますから、
どうぞご安心ください。
仙台で一泊し、国連職員と思しき方々と朝食をともにして出発。
今日も永良尼と待ち合わせして、東松島市東名地区の慰霊碑で読経。
土地の埋め立てやカサ上げ工事が進んで、風景がずいぶんと変わりました。
とはいっても、広い空き地が続くのは変わらない。
居住は禁止されているけれど、漁業は解禁。
この辺りは 皇室ご献上の海苔、カキ、ホタテが名産。
地震で地盤が1メートル以上沈下して、雨が降ると浸水するけれど、
少しづつまた隆起してきているらしい。
宮戸地区へ移動して、この地区で一軒だけ残るキジマさんが建立した慰霊碑前で開眼と読経。
この地にかかわらず、被災地では今も自殺が多い。
その供養も拝む。
人は少なくなったけれど自然は豊富。
海水に浸った畑では、根菜は不作だけれど、お米や葉野菜は豊作。
海水路にちょっと網を仕掛けておけば、カニもヒラメのカレイも何でも捕れる。
朝採ったばかりのワカメをたくさんいただく。
鳴瀬川河口の長音寺で読経
ここの住職は津波で遷化された。
野蒜小学校体育館跡地で読経。
ここはみんなが避難した所に津波がきた、
という悲惨なところで、
水が引いた後、小学生が遺体を踏み越えながら避難した。
その時を想像するだに痛ましい。
JR仙石線は5月に全線開通。
この野蒜付近は海沿いから山側へ線路を移して、駅も高台へ。
お年寄りには遠い道となる。
エスカレーターなどを作る予定だけれど、その後の管理は、地元の残された年寄りたちでできるのか、などの問題もある。
食べ物も調度品も趣味の品も僧侶も、
質の良いものは高価で、そうでないものは安価。
でも、時には劣悪な品質なのに値段の高いものがある。
費用対効果が伴わない。
復興事業にもそういうものがあるような気がする。
帰路は全線開通した常磐道を通る。
帰宅困難地域の常磐富岡IC~浪江ICはさすがに線量も高い。
5μシーベルト/hくらい。
地元の人が使わない、使えないこのルートを開通させたことに何か意味があるのだろうか。
4年間何もしていない大地を車窓から見ると、不思議な気持ちになる。
帰宅して、いただいたワカメを調理。
湯通しして醤油で食べるのがうまい。
茎ワカメはお揚げと炊き合わせ。
メカブは叩いてとろろに。
すべての人が、勇気と自信を持って困難を克服し、
希望を持てる毎日になりますよう、心から祈念いたします。
人が生きるためにまずは空気や食べ物が必要ですが、その次に大切なのが希望です。
今日も永良尼と待ち合わせして、東松島市東名地区の慰霊碑で読経。
土地の埋め立てやカサ上げ工事が進んで、風景がずいぶんと変わりました。
とはいっても、広い空き地が続くのは変わらない。
居住は禁止されているけれど、漁業は解禁。
この辺りは 皇室ご献上の海苔、カキ、ホタテが名産。
地震で地盤が1メートル以上沈下して、雨が降ると浸水するけれど、
少しづつまた隆起してきているらしい。
宮戸地区へ移動して、この地区で一軒だけ残るキジマさんが建立した慰霊碑前で開眼と読経。
この地にかかわらず、被災地では今も自殺が多い。
その供養も拝む。
人は少なくなったけれど自然は豊富。
海水に浸った畑では、根菜は不作だけれど、お米や葉野菜は豊作。
海水路にちょっと網を仕掛けておけば、カニもヒラメのカレイも何でも捕れる。
朝採ったばかりのワカメをたくさんいただく。
鳴瀬川河口の長音寺で読経
ここの住職は津波で遷化された。
野蒜小学校体育館跡地で読経。
ここはみんなが避難した所に津波がきた、
という悲惨なところで、
水が引いた後、小学生が遺体を踏み越えながら避難した。
その時を想像するだに痛ましい。
JR仙石線は5月に全線開通。
この野蒜付近は海沿いから山側へ線路を移して、駅も高台へ。
お年寄りには遠い道となる。
エスカレーターなどを作る予定だけれど、その後の管理は、地元の残された年寄りたちでできるのか、などの問題もある。
食べ物も調度品も趣味の品も僧侶も、
質の良いものは高価で、そうでないものは安価。
でも、時には劣悪な品質なのに値段の高いものがある。
費用対効果が伴わない。
復興事業にもそういうものがあるような気がする。
帰路は全線開通した常磐道を通る。
帰宅困難地域の常磐富岡IC~浪江ICはさすがに線量も高い。
5μシーベルト/hくらい。
地元の人が使わない、使えないこのルートを開通させたことに何か意味があるのだろうか。
4年間何もしていない大地を車窓から見ると、不思議な気持ちになる。
帰宅して、いただいたワカメを調理。
湯通しして醤油で食べるのがうまい。
茎ワカメはお揚げと炊き合わせ。
メカブは叩いてとろろに。
すべての人が、勇気と自信を持って困難を克服し、
希望を持てる毎日になりますよう、心から祈念いたします。
人が生きるためにまずは空気や食べ物が必要ですが、その次に大切なのが希望です。